第175話 春風
「塞君、あなたが家事をするのを、禁止します。この寄宿舎で、一切の家事をしてはなりません」
ヨハンナ先生が言った。
その横で、弩もうんうんと頷いている。
寄宿舎の食堂は、一瞬、静まり返った。
食堂には、事務所での打ち合わせを終えて帰ってきた古品さんもいて、寄宿生と主夫部部員、全員が揃っている。
主夫部部員にとって、家事が禁止されるって、それはもう、死刑宣告と同じだ。
「どういうことですか?」
僕は訊いた。
うろたえていて、情けない顔をしていたかもしれない。
「言った通りよ。あなたがこの寄宿舎で家事をするのを禁止します」
ヨハンナ先生が冷たく言った。
「先輩は、私達の言うことを一つ、聞いてくれるんですよね。だから、聞いてもらいます。先輩は家事をしないでください」
弩も、素っ気ない。
「ちょっと待ってください。ちゃんと説明してください」
言葉が出ない僕の代わりに言ってくれたのは、母木先輩だった。
「家事禁止って、酷すぎます」
「そうです、酷いです」
錦織と御厨も加勢してくれる。
「いえ、違うんです」
主夫部がいきり立つのに、弩が慌てて言った。
「違うんです。篠岡先輩、年末から、ずっと忙しかったから、休んでもらおうと思ったんです。冬休みに、私やヨハンナ先生が押しかけたり、年明けには私達に加えて、バレー部員や萌花ちゃんが来たり。それに、最近ではバレー部駅伝チームのお世話もしてたし、毎日の妹さん達への家事もしながらだったから、先輩が疲れてるんじゃないかって、心配したんです」
弩が言う。
「だから、塞君に少しお休みをあげようと思ったの。一週間くらい、この寄宿舎で家事をするのを禁止して、休んでもらおうと思って」
ヨハンナ先生が続けた。
なんだ、そういうことか。
食堂の張り詰めた雰囲気が、一気に解けた。
「先輩の代わりは、私とヨハンナ先生で務めます。寄宿生のお洗濯は、私達でしますから」
弩が胸を張って任せろと言う。
「塞君の分のお弁当も私達が作るから、家から持ってこなくていいわよ」
ヨハンナ先生も、自信満々で言った。
弩とヨハンナ先生がする洗濯。
心配だ。
弩とヨハンナ先生が作ってくれる弁当。
すごく、心配だ。
「それに、もうすぐ枝折ちゃんの受験でしょ? だから、塞君は、枝折ちゃんのお世話に集中してあげなさい」
ヨハンナ先生が言った。
その時、ヨハンナ先生は教師の顔をしている。
「先生、弩……」
二人のことが、愛しく見えた。
ここにもし、僕達三人しかいなかったら、僕はヨハンナ先生と弩を、抱きしめていたかもしれない。
それほどに、愛おしい。
「本当に、そんなことで、何でも言うことを聞いてくれる権利を使ってもいいのか?」
縦走先輩が確認した。
「ええ、いいわ」
「はい、いいです」
ヨハンナ先生と弩は、迷いがなく、さっぱりしていた。
「それじゃあ、決まりだな。篠岡、君は一週間、家事をするな。ゆっくりと休め。これは命令だ」
縦走先輩が僕の肩を叩いた。
先輩も感動してるのか、力が入っていて、叩かれた肩が痛い。
「はい、それじゃあ、お言葉に甘えます」
二人に感謝して、休ませてもらうことにした。
本当は、家事をしてるほうが気が休まるんだけど、それは言わないことにして。
「篠岡君が家事に手を出さないように、私達が監視してるからね」
古品さんが、僕に薄笑いしながら言った。
釣られて、みんなも笑う。
みんなが笑う横で、ヨハンナ先生と弩が、ぶつぶつ言ってるから聞き耳を立てたら、
「一つだけ何でも言うことを聞いてもらう権利を放棄して、逆にこっちが家事をして休ませてあげるっていう、聖母みたいな
ヨハンナ先生がしてやったり、っていう顔で言った。
「や、やっぱり、キ、キスとかは早いですよね。そういうのはもっと大人がすることというか、結婚を誓い合ったカップルにしか許されない禁断の行為だし、今回は、これで我慢したほうがいいと思う。権利を放棄して正解。うん、きっとそう」
弩も、顔を真っ赤にして言っている。
だから、二人とも、心の中の声が……
「そうだ、縦走さんは篠岡君に何を聞いてもらうの?」
鬼胡桃会長が訊いた。
「私はこの条件を出した張本人だから、別にいいんだ」
縦走先輩が
「いいじゃないか、折角だから、何か言ってみれば」
母木先輩が言った。
そうですよ、と、みんなも頷く。
「そうか、それなら、スポンサー探しを手伝ってもらえるとありがたいが。海外のアドベンチャーレース参加のスポンサー、まだ見つからないんだ。ホームページとか、フェイスブックなんかの更新を手伝ってもらえたら、嬉しいんだが。そっちはどうも、苦手で」
縦走先輩が言った。
確かに、先輩がちまちまキーボード打ってるのとか、想像しにくい。
「はい、喜んで協力します」
縦走先輩の役に立つなら、それこそ何だってする。
「家事を休むんだから、暇なときでいい。無理がないようにやってくれ」
縦走先輩が言った。
「あれ、電話鳴ってません?」
僕達は話していて気付かなかったけど、食堂の入り口付近にいた萌花ちゃんが気付く。
確かに、遠くで電話が鳴っていた。
素っ気ない電子ブザーは、寄宿舎事務室の電話みたいだ。
「僕、出てきます」
御厨が走っていった。
少しして、走って戻ってきて、
「縦走先輩、どなたか、職員室の方に先輩を訪ねて、お客さんがいらっしゃってるってことなんですけど」
御厨はそう言って縦走先輩に取り次いだ。
「私か? なんだろう?」
縦走先輩が電話を取ってみたら、電話でできる話ではないということで、先輩はすぐにお客さんが来ている職員室に向かった。
心配だからと、ヨハンナ先生も先輩についていく。
「こんな時間に、誰でしょうね? なんの話でしょう?」
うろうろと食堂を歩き回って、落ち着きがない御厨が言った。
「ご家族になにかあったとかじゃ、ないですよね」
御厨が不穏なことを言う。
僕達も気になって、帰るに帰れなくなってしまった。
主夫部も寄宿生も、みんな、そのまま食堂に残る。
二人がなかなか帰ってこないから、鬼胡桃会長と母木先輩は、ここで参考書を開いて勉強を始めた。
御厨が上の空で、錦織がみんなにお茶を入れる(僕は家事を禁止されていて、手伝えなかった)。
一時間くらいして、縦走先輩とヨハンナ先生が寄宿舎に帰って来た。
縦走先輩は困ったような顔をしていて、ヨハンナ先生は晴れやかな顔をしている。
「篠岡、スポンサー探しをしてもらうのは、もう必要なくなった」
縦走先輩は、第一声でそんなふうに言った。
「えっ?」
僕は思わず座っていた椅子から立ち上がる。
「駅伝に参加していた実業団チームがあるだろう? 私はあそこに世話になることになった」
縦走先輩が言った。
「えっ? どういうことですか?」
僕より先に、御厨が訊く。
「ああ、職員室に来ていたのは、あの実業団チームの監督さんだったんだ」
競技場にいた、あの髭の監督か。
「彼は私に、卒業したら、うちに来ないかって誘ってくれた。もちろん、私は断った。駅伝を走ることは楽しそうだが、私にはアドベンチャーレーサーになるっていう、夢があるからな。だから今、そのスポンサー探しをしてることも話した。そしたら、監督さん、それなら尚更、うちに来いって言うんだ」
御厨がお茶を差し出して、先輩はそこで一旦、息をつく。
「海外遠征の資金を
縦走先輩がそう言って、頭を掻いた。
「すごく、良い条件じゃないですか」
新巻さんが言う。
「そうなの。あの駅伝に、駅伝部がある企業のオーナー社長も来ていて、縦走さんの走りに惚れ込んだんですって。社長からも、ぜひにって言ってくれてるみたいだし」
ヨハンナ先生が言った。
「なにか、
先輩が、目を泳がせながら言う。
展開が急すぎて、先輩も少し戸惑っているのかもしれない。
いつも自信たっぷりな先輩が困っていて、少しカワイイとか、思ってしまった。
「おめでとうございます!」
御厨が言って、寄宿生も主夫部部員も、次々に讃辞を送る。
寄宿舎の食堂は、拍手に包まれた。
「これも、篠岡がヨハンナ先生と弩を丸々と太らせてくれたおかげだな」
縦走先輩が言う。
私達、丸々太ってたんだ、って、ヨハンナ先生と弩が、今更ながら青い顔をした。
「いえ、そんなこと。駅伝に出ようってアイディアは縦走先輩のものですし。普段のトレーニングがあってあんな走りをしたから、誘われたんですよ。見る人が見れば、先輩を放っておかないでしょうし」
今回じゃなくても、いずれ、どこからかオファーはあったと思う。
「私が太ったことで幸運が舞い込んだなら、また来年のお正月も太ってみようかしら」
ヨハンナ先生が言った。
先生、それは、絶対なしの方向で。
「縦走の進路が決まったか。それじゃあ、僕達も頑張らないとな」
母木先輩が言って、鬼胡桃会長も頷く。
当然、二人は手を繋いでいた。
大丈夫、この寄宿舎には春風が吹いてきたし、鬼胡桃会長も母木先輩も、きっと志望校に合格する。
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