第172話 襷

 転んだ弩を、後続のランナーが次々に飛び越えていく。

 僕は弩が踏まれないか、やきもきして見てたけど、みんな、うまく避けてくれた。


 転んで膝を打った弩は、中々立ち上がらない。

 後ろからどんどん人が来るから、立ち上がれないのかもしれない。


 ついには、弩より後ろにいた他のランナーが全員駆け抜けて、スタート地点には弩一人になった。


「弩! 大丈夫か!」

 僕が駆け寄ろうとしたら、

「選手に触ったら、失格になりますよ!」

 そう言って、競技委員の人に止められる。


「大丈夫です。私、立てます」

 弩がそう言ってゆっくりと立ち上がった。


 膝を擦りむいていて、そこから血がにじんでいる。

 頭をぶつけたのか、おでこも赤くなっていた。


 競技委員に「走れますか?」と訊かれて、弩は頷く。

 その場で屈伸運動をして、足を確かめてから、走り出した。


 競技場の観客席から、「がんばれ」って拍手が送られる。

 弩はその拍手が恥ずかしそうに、トラックを半周回って、コースに向かった。



 僕は、居ても立ってもいられなくなって、弩を追いかける。

 ベンチコートと荷物を持ったまま、走った。


 運動公園の通路から、一般道に出るあたりで、弩に追いつく。

 弩は一瞬チラッと僕を見て、すぐに視線を前に戻した。

 

 沿道には、大会のボランティアや見物人がまばらにいて、声援を送ってくれる。


 弩に転んだ影響はないみたいで、フォームの崩れもなく、一定のペースを刻んでいた。


 僕がそのまま併走していたら、弩が、(先輩、一緒に走らなくても大丈夫です。保護者同伴みたいで、恥ずかしいですから)って、感じで、横目で僕を見る。


 僕は、(でも、心配だし、中継所まで付き合うよ)って感じの視線を弩に返した。


 すると弩が、(ふええ)って目で言うから、(ふええ、じゃないだろ。真面目に走れ)って返すと、(はい、分かりました)って、弩は、また前を見据えて、なおかつ少しペースを上げる。


 やれやれ。

 やっぱり、次の中継所まで、付いていこう。


 でも、あれ? 僕達はなんで、視線で会話できてるんだろう?

 なんで、目だけでお互いが言いたいこと、分かったんだろう。


 まったく、不思議だ。



 2㎞の標識を過ぎたところで、やっと、前を行く一人のランナーが見えてきた。

 弩を除いた最後尾は、八十歳を過ぎたおばあちゃんランナーだ。


 弩が会釈して、そのランナーを抜いていく。


 おばあちゃんランナーは、「がんばれ」って弩を励ましてくれた。


 これで、79位。


 まもなく、中継所の人だかりが見えてきた。

 道路上に立つ選手の中に、次の走者、新巻さんの姿も見える。

 ユニフォーム姿の新巻さんは、大きく手を振って、こっちに合図していた。


「弩さん! 最後まで、しっかり!」

 新巻さんが弩に声をかける。


 すると、弩のスピードが少し上がった。

 弩は、最後の力を振り絞る。

 そのスピードアップで、前をゆく四人の集団をとらえて、そのまま抜き去った。

 たすきを外して新巻さんに渡す。


 80チーム中、75位での襷リレー。


 弩から襷を受けた新巻さんが、颯爽と走って行く。


「新巻さん! 頑張れ!」

 僕はその背中にエールを送った。

 新巻さんは何も答えず、ただ前に駆けていく。



 走り終わった弩は、僕がベンチコートで包んで抱き留めた。

 抱き留めた弩の体は、氷みたいに冷たい。


「弩、大丈夫か? 救護所に行くか?」

 僕は訊いた。

「いえ、大丈夫、です。膝は、擦りむいた、だけです。おでこも、ちょっと、ぶつけた、だけですから」

 息を切らせながら弩が言う。


「どれ、見せてみろ」

 僕はランナーの休憩用に敷いてあったブルーシートに弩を座らせて、膝を見た。


 左足の膝小僧を擦りむいていて、血が滲んでいる。

 でも幸い、深い傷ではなかった。

 砂とかも噛んでなかった。


「弩さん、大丈夫?」

 ヨハンナ先生が訊く。

 三区から四区への中継所が折り返した通りの反対側で、そこにいた先生が、心配して様子を見に来てくれたのだ。


「はい、大丈夫です。でも、こんな順位でごめんなさい」

 先生に対して、気丈に見せようとしてるのと、悔しそうなのとで、弩は複雑な表情をしている。

「ううん、それはいいんだけど……」


 とりあえず、靴下を脱がせて、近くの商店の水道を借りて、擦りむいた弩の膝小僧を洗った。


「先輩、くすぐったいです」

 弩がほっぺたを赤くして言う。

「ほら、暴れるな」

 僕は弩の足を手でがっちりとホールドして、膝小僧を洗った。

 綺麗に洗った足を清潔なタオルで拭いて、その上に、傷パワーパッドを張っておく。


 弩の手当をしながら、僕は、小さい頃の花園や枝折にもこんなふうに手当てしたのを思い出した。

 二人はおてんばで、生傷が絶えなかった。



「おでこも、大丈夫か?」

 僕が訊く。

「大丈夫です」

 弩が言った。


 前髪を持ち上げて、弩のおでこを見る。

 おでこに傷はなくて、少し赤くなっているだけだった。


「先輩が、おでこにキスしてくれたら、すぐに直る気がします」

 弩が言う。


「いや、残念だが、僕にそんな治癒能力はない。よし、そんな冗談が言えるなら、大丈夫だ」

 こうして軽口が叩けるくらいなら、問題ないだろう。


「冗談じゃ、ないですけど……」

 そのとき、中継所に最後のおばあちゃんランナーが来て、歓声の中、弩がなんて言ったか、僕は聞き取れなかった。



 僕と弩の様子を、ヨハンナ先生が側で指をくわえて見ている。


「先生、わざと転んでも、僕は手当しませんよ!」

 ヨハンナ先生がその場で転ぼうとしてるから、僕が注意した。


「けち!」

 先生が言う。


 弩がそれを見て笑った。

 先生は、弩の笑顔を取り戻すために、そんなふうに道化を演じてくれたんだと思う。


 たぶん。

 たっ、たぶんそう。


 そうだといいな。




 弩にジャージとベンチコートを着せて、ヨハンナ先生と三人で、三区から四区の中継所に移った。


 そこで、萌花ちゃんの到着を待っていると、一位のランナーが走って来る。


 もちろん、一位は実業団チームだった。


 実業団チームの選手は沿道の声援に応えて笑顔を見せたり、手を振ったり、余裕がある。

 それでも、ぶっちぎりの一位で中継所に来た。

 そして歓声の中で何事もなく、襷を繋ぐ。


 二十秒くらい遅れて、バレー部チームの三区のランナー、柏原さんが二位で走ってきた。

 そしてこっちも、四区の佐藤さんに順調に襷を繋ぐ。

 このままバレー部チームが本気で走れば、優勝は無理かもしれないけど、アンカーの麻績村さんが、実業団チームを焦らせるくらいのことは、できるかもしれない。


 バレー部の通過から少しして、三位集団が六人で来て、団子のまま襷を渡した。


 そろそろ、ヨハンナ先生もベンチコートを脱いで準備する。


 金色の髪で、すらっとしたプロポーションのヨハンナ先生は、フォトジェニックみたいで、沿道からたくさんのカメラが先生に向けられた。

 先生はそのカメラに手を振る余裕を見せる。


 もう、ヨハンナ先生の正月太りは完全に解消されていた。

 それどころか、普段のビール腹もすっきりしている。

 そういう意味では、この駅伝参加も意味があったかもしれない。



 数えていたら、大体、二十チームくらいが中継所を通り過ぎたところで、道の先に萌花ちゃんのボルドーのユニフォームが見えてきた。

 真ん中より上の順位にいる。

 新巻さんと萌花ちゃんが、相当頑張ったみたいだ。


 萌花ちゃんは今、4、5人の集団の中で走っていた。

 それを見て、ヨハンナ先生も道路に並んだ。


 襷を受け渡すラインの上に立った先生を見てると、その口元がぶつぶつと何かを言っている。


 口元を読むと、

「婚姻届、婚姻届、婚姻届」

 先生はそんなふうに言ってるみたいだ。


 なんだか、背筋が寒くなる。

 僕は、生命の危機を感じる。



 中継所を見た萌花ちゃんが、集団から抜け出そうと、ラストスパートした。

 なりふり構わず、髪を振り乱して、中継所に突っ込んでくる。

 普段の大人しい萌花ちゃんからは、ちょっと想像できなくて、びっくりした。


「萌花ちゃん、ファイト!」

「ラスト! 萌花ちゃん、頑張れ!」

 僕と弩は大声を出して応援する。


 ラストスパートが功を奏して、萌花ちゃんは集団から抜け出した。


 萌花ちゃんの手から、先生に襷が渡る。


「よっしゃー!」

 ヨハンナ先生が勢いよく飛び出していった。

 いきなり、前を行くランナー二人をぶち抜く。


 先生、あのペースで、大丈夫なんだろうか。




 僕は、走り終えた萌花ちゃんをベンチコートで包んで抱き留めた。


「ありがとうございます」

 萌花ちゃんがすべてを出し切った笑顔で言う。

 萌花ちゃんを懐に抱いて、後のランナーの邪魔にならないところに移動した。


「萌花ちゃん、どう? 先輩に抱かれるのって、安心するでしょ?」

 弩が萌花ちゃんに訊く。

 弩、その、抱かれるって表現は誤解を招くからやめなさい。

 それに、その言い方だと、いかにも僕が弩を、普段から抱き慣れているみたいだし(まあ、抱き慣れてはいるけど)。


「うん、安心する」

 萌花ちゃんが首をすくめて言った。

 萌花ちゃんは完全に力を抜いて、僕に体を預けてくれる。

 ちょっと照れるけど、こんなふうに信頼してもらえるのは、やっぱり嬉しい。



 息を整えた萌花ちゃんを着替えさせたあとで、僕たちは運動公園のゴールに急いだ。

 市内巡回バスに乗って、運動公園のゴール向かう。

 きっと今頃、四区と五区の中継所で、ヨハンナ先生と縦走先輩が襷リレーをしてる辺りだ。

 急げばゴールの場面に間に合う。




 ゴールの競技場には、ヨハンナ先生と縦走先輩を除く、寄宿舎チームが集まっていた。

 バレー部も、四区の佐藤さんと麻績村以外、河東先生含めて全員集まる。

 観客席は小学生の部のときよりも多くの人で賑わった。

 市の広報や、地元新聞のカメラマンもいる。



 競技場内のアナウンスが、実業団チームがもうすぐこのトラックに到着するむねを伝えた。

 バレー部チームアンカーの麻績村さんも頑張ったけど、まだ、20メートルくらい離されているらしい。

 その後ろに、三位グループ5、6人が続くと、アナウンスで実況された。

 でも、その中に縦走先輩はいないみたいだ。


「残念ながら、優勝は無理そうね」

 新巻さんが言った。


 誰もそれに反論しなかった。

 そこにいるみんなが、そう考えていたと思う。


「私が最初に転んだから……」

 弩が言った。


「バレー部チームが敵わないんだもの、あなたが普通に走っていても、無理だったわ」

 河東先生が弩をかばった。


 とにかく、その時、ここにいる全員が、寄宿舎駅伝チームの優勝はないと諦めていたのは確かだ。



 僕たちは、まだ知らなかった。



 このあと、縦走先輩の恐ろしさを、まざまざと見せつけられることを……

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