第171話 スタートライン
「みなさん、冷静に、冷静に。ねっ」
僕の言葉は、
市民駅伝大会のスタート地点、運動公園で、寄宿舎駅伝チームと、バレー部駅伝チームが、ニアミスしている。
二つのチーム、5人ずつ、10人が向かい合って対峙していた。
背が高いバレー部駅伝チームの壁と、凸凹な寄宿舎駅伝チーム。
二組は、笑顔で向かい合っている。
それが、あからさまに作り笑顔って分かるから、ものすごく怖い。
「あのう、平和なスポーツの祭典なんですし、友好的にいきましょう」
僕は、その二チームの間に挟まれて、縮こまっていた。
「私達は友好的よ。ねぇ、
ヨハンナ先生が訊く。
「ええ、とっても友好的です」
麻績村さんも言った。
ただし、二人とも用意された原稿を棒読みしたようなトーンだ。
「それで、どう? バレー部の皆さん、うちの塞君は? すごく役に立つでしょ?」
ヨハンナ先生が言った。
「うちの篠岡先輩は、優しいでしょ? でも女性に対しては誰にでも優しいから、その優しさを勘違いしない方がいいですよ」
弩も、笑顔で言う。
僕が、いつから「うち」のになったのかは、この際、不問にしよう。
「はい、篠岡先輩は、すごく優しくしてくれます。毎日わざわざ、私達のために、ふかふかのタオルとか届けてくれますし、練習で疲れた足をマッサージしてくれます。すごく、丁寧に。じっくりと……」
麻績村さんが言った。
「へえ、マッサージとか、してもらってるんだぁ。へえ」
ヨハンナ先生がそう言って、一瞬、僕を見る。
あ、あれは絶対、二、三人は
「でも、まあ、私は髪とか洗ってもらっているし、トイレに、お姫様抱っこで連れて行ってもらったりしてるしね」
ヨハンナ先生が言う。
先生、生徒と張り合わないでください。
それに、トイレにお姫様抱っこで連れてってもらってるとか、それ、
「わ、私も、先輩と何度も一緒に寝てますし、この前のクリスマスイブなんか、私一人の部屋に、真夜中、先輩が忍び込んで来たりしたんですよ!」
弩が言う。
いや、一緒に寝てるっていっても、みんなで雑魚寝だし。
クリスマスの件は、僕がサンタクロースになっただけで、何もなかったし。
「私も、修学旅行の露天風呂で、裸の付き合いしたんですけど」
普段冷静な新巻さんまで、参戦した。
「私は、先輩の色々なことを知ってます。篠岡先輩が、パソコンの『世界の昆虫』っていう名前のフォルダに、決して人に見られたくないムフフな画像を隠してることも、知ってるんですよ!」
萌花ちゃん、それ、公衆の
周りには、小学生部門で駅伝に参加する、小さいお友達とかもいるし。
「私と篠岡は、ジャージやパンツを貸し借りする
縦走先輩がとどめを刺す。
それだけ聞いた人は、僕のこと、どんな人間だって思ったんだろう。
「まあ、過去のことはいいです。私達は、優勝したら、篠岡先輩に焼き肉パーティーしてもらうんですから」
麻績村さんも、一歩も引かない。
「へえ、篠岡君、あなたたちにそんな約束したんだぁ」
ヨハンナ先生が言った。
「へえぇ」
もう、怖くて先生の目が見られない。
見たらきっと、石にされる。
二つのチームは一触即発の雰囲気だった。
「何してるの! 怪我しないように、ちゃんと準備運動なさい!」
そこに割って入ったのは、バレー部顧問の河東先生だ。
バレー部チームの監督に来てる先生が、二組の間に入ってくれる。
ヨハンナ先生も、寄宿生も、そして、当然、バレー部も、河東先生には逆らえない。
対峙していた二組は、すぐに分かれた。
よかった、大事に至らなかった。
河東先生が、みんなに見えないよう、僕にウインクする。
僕は、先生にありがとうございますの意味で、頭を下げた。
バレー部チームは、河東先生の指導の下、準備運動を始める。
「みなさん、ユニフォーム、仕上がりましたよ」
寄宿舎チームには、錦織が出来上がったユニフォームを持ってきた。
「わあ、ありがとう」
みんなが錦織に駆け寄る。
「寄宿舎」と胸のところに白い文字が染め抜いてあるユニフォームの色は、ボルドーだった。
深くて、目に鮮やかなボルドーだ。
「色を決めてくれたのは、鬼胡桃会長です」
錦織が言う。
鬼胡桃会長も、母木先輩も、大学の二次試験に向けての勉強で応援には来られないけど、この色を見れば、鬼胡桃会長の目がここにあるみたいで、緊張するし、気合いも入るだろう。
ユニフォームの仕上がりが当日までずれ込んだのは、会長の制服のボルドーと完璧に色を合わせるために、錦織が業者に染色を依頼していて、布の到着が遅れたからだそうだ。
さすが、錦織のこだわりユニフォーム。
「お弁当も、たくさん作ってきました。レースが終わったら、みんなで食べましょう」
御厨が言って、縦走先輩の鼻先に人参をぶら下げる。
大量のおにぎりに、おかずのお重は、上に重ねると三十段にも及ぶ。
それと、8リットル入る大容量ジャーには、温かい豚汁も用意した。
御厨が密かに、バレー部チームの分まで
午前九時の小学生男子の部のスタート時刻が迫って、運動公園は賑わってきた。
今まで市民駅伝大会はその存在も知らなかったけど、かなり大規模な大会らしい。
寄宿舎チームとバレー部チームが出る一般女子の部には、80チームがエントリーしていた。
僕たちと同じように、市内の高校の部活が練習の一環として参加してるのも多かったし、職場チームとか、仮装をして走るチームとか、お祭り気分で参加するチームもあった。
運動公園の中にある400メートルトラックがスタートとゴール地点になっていて、大勢の観客も集まっている。
会場に来て、一つだけ、僕にとっての朗報があった。
女子一般の部に、実業団の駅伝チームがエントリーしていたのだ。
大会を盛り上げるためにと、その実業団関係者と知り合いだった市長さんが、チームを
招待チームのような特別待遇で、新聞や、スポーツ関連の記者なんかも、取材に来ていた。
さすがに主力メンバーじゃなくて、サブメンバーを中心にしたチーム構成らしいけど、このチームが勝つのは間違いない。
これで、寄宿舎チーム、バレー部チーム、双方に優勝の目はなくなった。
寄宿生に、言うことを聞かされるという、僕の生命の危機と、バレー部女子に焼き肉パーティーでお小遣いを食べ尽くされるという、財政的危機、僕はその両方の危機から脱したのだ。
二つのチームには悪いけど、これで僕は、何も心配することなく、寄宿舎チームも、バレー部チームも、両方を応援できる。
ほどなくして、一般女子の部で、駅伝ランナーを各中継地点に送るバスが出ると、アナウンスがあった。
いよいよ、レースが始まる。
寄宿舎チームは、
一区 弩
二区 新巻さん
三区 萌花ちゃん
四区 ヨハンナ先生
五区 縦走先輩
と、この出走順だ。
一区から四区まではだいたい2.5㎞から3㎞の距離で、最後の五区だけ、5㎞の長距離を走る。
「それじゃあ、弩さん、がんばって」
弩一人をスタート地点に残して、四人がバスに乗っていった。
「先輩、ゴールでテープを切る私を、見ていてください」
バレー部チームも、一区の服部さんを残して、アンカーの麻績村さんら、四人がバスに乗る。
残された僕たちは手を振って、バスを見送った。
みんなが行った後、弩は、武者震いか、寒いのか、少し震えている。
「弩、大丈夫だ。あれだけ練習したんだから、いつも通り走れば問題ない」
僕が背中をさすりながら言うと、
「はい」
と、弩が大きく頷いた。
時間がきて、一区のランナーがスタート地点に招集される。
弩と、バレー部チームの服部さんが、ユニフォームの上に着ていたベンチコートを脱いで、僕がそれを預かった。
二人は、他のチームのランナーとともに、400メートルトラックのスタート地点に並ぶ。
服部さんは、人をかき分けて最前列に陣取った。
実業団チーム第一走者の、隣の位置につける。
一方で体が小さい弩は、他のランナーに押し出されて、真ん中から少し後ろくらいの位置に並んだ。
市長がスタート地点でピストルを構える。
午前10時。
真っ青な空に、号砲一発、一区のランナーがスタートした。
実業団チーム、服部さんほか、最前列のランナーから、勢いよくコースに飛び出して行く。
服部さんは、すぐに先頭に立った実業団チームを追いかけた。
ところが、真ん中から後ろ辺りは渋滞していて、中々スタートを切ることが出来ない。
ランナーが重なって、歩きながらゆっくり押し出されるようにスタートした。
そんな中でまごまごしている弩を見ていたら、
「きゃん」
いきなり弩が転んだ。
弩は転んで、トラックの上にうつぶせに倒れる。
後続のランナーがどんどん弩を抜いていった。
「弩!」
僕が声をかけるけど、弩は、中々起き上がらない。
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