第173話 花束のゆくえ
一位で陸上競技場に入って来た実業団チームの選手は、世界陸上やオリンピックの選考会で有力視されたこともあるような、有名人だったらしい。
競技場に入ってきた選手に、詰めかけた観客から歓声が上がった。
トラックにはカメラマンや記者の他に、大会委員長である市長さんや、役員も出てきて、皆で出迎える。
鮮やかなオレンジ色のユニフォームに身を包んだその選手は、伸びやかな美しいフォームで走っていた。
もう、勝負は決しているって感じで、明らかに流した、良い意味で力が抜けた走りをしている。
髪をさっぱりとベリーショートにしていて、目鼻立ちがしっかりした、ボーイッシュな雰囲気の人だった。
トラックに入ってくると、その選手はさらにスピードを落として、手を振って歓声に応える。
400メートルトラックを一周してそこがゴールになるから、もう、ウイニングランみたいな感じで、悠々と走った。
その選手がホームストレートを抜けて第一コーナーに差しかかった辺りで、漸くバレー部チームの麻績村さんが競技場に入って来る。
麻績村さんは、実業団チームの選手とは対照的に、がむしゃらに走っていた。
一位との差は100メートル以上あるけど、麻績村さんは、まだ諦めていないようだ。
そんなに焼き肉食べたいんだろうか?
それとも、そんなに頑張る理由が、もっと他にあるのか。
一位の実業団の選手は、バックストレートに入ると、そちらの側の観客にも、丁寧に応えた。
両手を振ったり、投げキッスをしたりと、声援を送ってくれる観客へのサービスに熱心だ。
だから彼女は、競技場の入り口に飛び込んで来た、もう一人のランナーには気付かなかった。
競技場の入り口から大きな歓声が上がって、僕が何事かとその方向を見たら、見慣れたボルドーのユニフォームの選手が、三位で競技場に入ってくるところだった。
ダイナミックなフォームのそれはもちろん、縦走先輩だ。
先輩は、猪みたいに、猛然と脇目も振らずに真っ直ぐに走った。
短距離走の400メートルを走るようなスピードで、僕たちの前を駆け抜ける。
速すぎて先輩に声を掛ける暇もなかった。
びっくりした観客が、遅れて驚きに満ちた声を上げる。
僕の周囲の人たちも、どこの誰だって騒いでいた。
しかし、トラックのバックストレート側にいて、反対側が見えていない実業団チームの選手は、縦走先輩に気付かない。
歓声が大きくなったのを、自分に対するものだと勘違いして、両手をもっと大きく振って、観客に応え続けた。
縦走先輩は、第一コーナーで麻績村さんを簡単に抜き去る。
そして、カーブでも全然スピードを落とさずに、体を内側に倒して突っ込んでいった。
先輩の綺麗なフォームが、今日は少し乱れているように感じる。
技術というより、力でねじ伏せて走っていた。
さすがの縦走先輩も、ここまで5㎞近くを走ってきて、短距離走並のラストスパートはきついんだろう。
実業団チームの選手は、突進してくる縦走先輩に、まだ、気付いていない。
縦走先輩は豪快なフォームで、バックストレートも駆け抜けた。
先輩の、逞しい褐色の手足が美しい。
走ること以外の全てをそぎ落としたみたいな、機能美だ。
第三コーナーで、縦走先輩はついに実業団チームの選手を捉える。
すると、後ろから来る殺気にも似た気配に気付いたのか、実業団チームの選手が、ハッと振り向いた。
その横を、縦走先輩があっさりと走り抜ける。
それが他のチームの走者だと気付いたときには、縦走先輩は10メートルくらい先を走っていた。
実業団チームの選手から笑顔が消えて、焦ってギアチェンジして追いかける。
勢いが衰えずに第四コーヒーを回った縦走先輩が、ホームストレートを飛ぶように走った。
追いかける実業団チームの選手が、先輩の背中のすぐ後ろに迫る。
ところが先輩は後ろを気にする素振りもなく、まるで、一人で走っているみたいにのびのびと走った。
僕だったら、後ろが怖くて何度も振り返ったかもしれない。
思いがけないデッドヒートに、観客席は大いに盛り上がった。
競技場のアナウンスも、声を
ゴール手前で二人が並んだと思ったら、縦走先輩がぐんと前に出て、実業団チームの選手が失速した。
一度、スピードを落として流してしまった選手は、短い距離でそれを立て直すのが困難だった。
最後にもう一段の加速をした縦走先輩が、そのままゴールテープを切る。
大番狂わせに、観客から一層大きな歓声が上がった。
ゴールしても足を止めることなく、そのままトラック二周目に突入しようとする縦走先輩を、係員が止める。
体格が大きい男性係員が、先輩を二人掛かりで止めた。
先輩は、バーサーカーみたいに、我を忘れて走ってたのか。
まさしく、野獣のような走りだった。
少し遅れて、バレー部チームの麻績村さんがゴールする。
そのあとも、選手が次々にゴールするけど、競技場はしばらく、異様な興奮に包まれていた。
実業団チームのスター選手に花束を贈るつもりだった大会委員長の市長さんが、茫然自失って感じで、埴輪みたいな顔をしている。
行き場を失ったその花束は、結局、縦走先輩が受け取った。
実業団チームと、その関係者周辺が、お
最後は流していたし、ずっと観客に応えていたことを差し引いても、勝負には負けてしまったのだ。
「君たちは、高校の陸上部か、駅伝部?」
実業団チームの監督らしき髭の男性が、縦走先輩に訊いた。
「いえ、違います。同じ寄宿舎で寝泊まりする、ゆかいな仲間達で組んだ、即席チームです!」
縦走先輩が言った。
先輩、実業団チームの傷口に、塩を、それも
表彰式や記念撮影など、一連のセレモニーを終えて、駅伝チームが僕たちの元に帰って来る。
「おめでとうございます!」
僕達は、寄宿舎チーム、バレー部チーム、両方を拍手で迎えた。
手放しで喜ぶ寄宿舎チームと、少し悔しそうな、バレー部チーム。
麻績村さんも、残念そうだけど、すべてを出し切った顔はしていた。
僕は、両チームの選手一人一人に、ふかふかのタオルを渡す。
「縦走先輩! すごかったですね!」
御厨がスポーツドリンクを渡しながら、縦走先輩に言った。
「いや、ヨハンナ先生が10位前後で来てくれたから、逆転できたんだ」
縦走先輩が言う。
ヨハンナ先生、四区で10位前後まで順位を上げたのか。
先生が襷を受けたときは、20位前後だったから、10人くらい抜いたらしい。
中継所を飛び出して行ったあのままのスピードで、走り通したみたいだ。
「まあ、これも愛の力よね」
ヨハンナ先生が、僕に向けてウインクしながら言った。
「そこまで繋いでくれた、萌花にも、新巻にも、そして、転んでも立ち上がって走ったという弩にも感謝する」
縦走先輩が言って、弩の頭を撫で繰り回した。
弩は、恥ずかしそうに「ふええ」と言う。
和やかな喜びの輪に加わっていた僕だけど、そんなことしてる場合じゃないのに気付いた。
縦走先輩にさせられた約束がある。
僕は、何か一つ、駅伝チームの女子達が言うことを聞かなければならないという、念書を書かされていたのだ。
みんなに気付かれないよう、僕は静かに後ずさりした。
気配を消して、後ろ歩きで下がって、そこから決死の脱出を図る。
他の駅伝出場者や関係者に紛れて、みんなが見えなくなったところで、振り返ってダッシュで逃げようとしたら、
「と・り・で・く・ん」
僕の耳元で、ヨハンナ先生の声が聞こえた。
先生の顔がすぐそこにあって、顎が僕の肩に乗っている。
先生が、僕に後ろから覆い被さるみたいにして、そこにいた。
先生の金色の髪が僕の顔に触って、くすぐったい。
「塞君、どこに行くのかなぁ?」
ヨハンナ先生が、笑顔で訊いた。
「いえ、あの、ちょっと……」
あははは、と、僕は笑って誤魔化す。
もちろん、それで誤魔化しきれるわけなかった。
僕は、先生の後にいた弩と萌花ちゃんに両手を取られて、みんなのところに連れ戻される。
「篠岡、どこかに逃げても、私は地の果てまでも追いかけるぞ」
縦走先輩が言った。
縦走先輩の場合、それは比喩ではなく、本当に追いかけてくる。きっと来る。
先輩の豪快な走りは、今、目の当たりにしたばかりだし。
「みんな、塞君にどんなお願い、聞いてもらうか、考えてある?」
ヨハンナ先生が訊いた。
「はい!」
女子達が、小気味よい返事を返す。
もう、どうにでもなあれ。
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