第166話 月
「弩、もう諦めろ」
僕はそう言って、弩に手を伸ばした。
弩は僕の手から
だから僕は、弩より先にドアの前に立って進路を塞いだ。
「先輩、どうしたんですか?」
弩が、
ドアを塞いだ僕は、にじり寄って弩をベッドの方に追い込んだ。
「なんでこんなことするんですか! 先輩、どうしちゃったんですか? こんなの、篠岡先輩じゃありません!」
弩が大きな声を上げる。
「大丈夫、抵抗しなければ、痛いことしないから」
僕が距離を詰めると、後ろ向きに下がってベッドまで追い込まれた弩が、ベッドの上に、仰向けで倒れた。
「弩、覚悟を決めろ」
「嫌です! こんな、先輩、
「あなた達、なにしてるの!」
ドアを
弩が
ヨハンナ先生に続いて、寄宿生と主夫部全員が、なだれ込むように弩の部屋に集まってきた。
「あ、いえ」
なんか、大事になってしまった。
「先生、酷いんです! 先輩が、私のホワイトロリータを取り上げようとするんです!」
弩が言って、ほっぺたを膨らませる。
「はっ?」
「いえ、あの、今、弩はダイエット中なので、ホワイトロリータは一日三本って決めて、僕が支給してたんです。それなのに弩は、備蓄していたホワイトロリータを隠れてポリポリと食べていて、僕はそれを取り上げようとしていたところで……」
部屋に隠してあるホワイトロリータを探して没収してたら、弩が背中に隠して抵抗したから、僕はそれを取り上げようとしたのだ。
「なぁんだ。またいつものじゃれ合いか」
縦走先輩がそう言って、帰って行く。
先輩は、物騒にも鉄製のバーベルのシャフトで武装していた。
その鉄棒でどうするつもりだったんだ。
「はぁあ、アホらし」
錦織も帰っていった。
「まったく、人騒がせなんだから」
鬼胡桃会長も、母木先輩と手を繋いで部屋に戻る。
「…………」
無言の新巻さんが、なんか恐い。
みんな行ってしまって、この部屋には、僕と弩と、ヨハンナ先生だけが残った。
「ほら、弩、背中に隠したそれ、渡しなさい」
僕は、弩を落ち着かせるように、静かに言った。
「嫌です! 私からホワイトロリータを取り上げたら、なにが残るっていうんですか!」
弩が言う。
「いや、そこまで
ホワイトロリータを取り上げたって、弩には色々と残ると思うが。
「さあ、それをこっちに」
僕がしつこく言うと、弩は渋々、背中に隠していたホワイトロリータの袋を僕に渡した。
「先輩は鬼です! 悪魔です」
弩が口を尖らせる。
ホワイトロリータのことで、鬼とか悪魔とか言われても困る。
「まあまあ、弩さん。一日三本って決めたんだったら、その決まりは守りましょうね」
ヨハンナ先生が言った。
「あ、先生。後で先生の部屋にも、ビールと焼酎、回収しに行きますから」
僕が言うと、
「鬼! 悪魔!」
先生がそう言って、部屋から逃げた。
ダイエット中の先生からビールと焼酎を取り上げるのは、弩より難航しそうだ。
「弩、この部屋に、もう他には隠してないな?」
僕が確認した。
「ななな、ないです」
弩が、目を泳がせる。
なんて分かりやすいんだ。
目を泳がせた弩が、一瞬、タンスの方に目をやったのを、僕は見逃さなかった。
はは~ん。
僕が、タンスの方へ行くと、弩がその前に立ち塞がる。
「先輩! 乙女のタンスを開けるなんて、どういうつもりですか! ここは、下着とか入っていて、乙女の最後の砦です!」
弩が言った。
「いや、そのタンスに、毎日、洗って畳んだパンツを仕舞ってるのは、僕なんだが」
「はうう」
弩はぐうの音も出ない。
弩を退かしてタンスの引き出しを開けてみると、衣類がいつもより少し浮いているような気がした。
毎日ここを開けている僕には、それが分かる。
よく調べると、引き出しの底に敷いた除湿用シートの下に、ホワイトロリータの袋がびっしりと並べて隠してあった。
おまいは、怪しいクスリの運び屋か!
「これは没収な」
僕が全部かき集めて言うと、
「ふええ」
弩が涙目で零す。
「まあ、これも、ダイエットが終わるまでの辛抱だから」
僕は弩の肩を叩いて慰めた。
弩のホワイトロリータは、寄宿舎事務室の金庫の中に、厳重に仕舞って鍵を掛ける。
僕が鍵を掛けるのを、弩が怨めしそうな顔で見ていた。
鍵は、家に持って帰ったほうがいいかもしれない。
夕飯の片付けをして、部活を終え、帰る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
特にここは、周囲が林で真っ暗だ。
「それじゃあ、また明日」
寄宿生とヨハンナ先生に挨拶して、僕達は帰宅の途につく。
主夫部の男子部員と獣道を歩いていたら、僕は洗濯機の上にスマートフォンを忘れたことに気付いた。
「ゴメン、忘れ物」
断って、僕だけ寄宿舎に戻る。
すると、林の出口のところで、コートを着て財布を持った弩が、玄関を出ようとしているのが見えた。
弩は、僕達が帰ったタイミングを狙っていたかのように、寄宿舎を出て行く。
あやしい。
僕は、咄嗟に林の太い木の後ろに隠れた。
弩は僕に気付くことなく、林を抜け、校舎脇を歩いて、学校の通用門の方に向かう。
僕は、見つからないよう距離を置いて、弩のあとを追った。
ストーカーみたいだけど、辺りは真っ暗で、夜道を一人で歩く弩が心配だし。
弩の後ろをしばらく歩いていたら、弩が
横断歩道にさしかかると、弩はその白線の上を、飛び石のようにぴょんぴょん跳ぶ。
弩は、ずっと白線の上を歩いて目的地まで向かうつもりだ。
「子供か!」
僕が思わず普通に声を出して突っ込んでしまって、弩が後ろを振り向いた。
僕は瞬間的に、民家の塀の後ろに隠れる。
弩は、しばらく辺りを見回して、首を傾げ、また白線の上を歩き出した。
危なかった。
最近、突っ込むことが多くて、自然に声が出てしまう。
授業中とかに、間違ってヨハンナ先生に突っ込んだりしないように、気をつけないと……
でも、この方向。
ついて歩いていたら、弩の行き先が分かった気がする。
弩が目指しているのは、多分、近くのコンビニエンスストアーだ。
弩が、ヨハンナ先生によく使いっ走りに出される店に違いない。
そうなると、弩の目的も簡単に想像できた。
僕の想像通りなら、弩はアレを買いに行くに違いないのだ。
やがて、僕の予想通り、弩が歩く先に
ずっと白線の上を歩いた弩は、駐車場の白線までトレースして、店内に入っていく。
煌々と明るい店内には、五、六人の客がいて、雑誌を読んだり、商品を選んだりしていた。
レジに店員さんも二人いる。
僕は、少し間をおいて、弩に見つからないよう、店の中に入った。
弩は、雑誌や飲み物、弁当を素通りして、お菓子の棚を目指す。
それも、たくさんのブルボン製品が並ぶコーナーだ。
そこで弩は、例のアレに手を伸ばした。
弩が大好きな、アレ、ホワイトロリータ。
弩の手が棚に陳列されたその袋に触れようとしたところで、後ろから近づいた僕は、弩の手を取った。
弩の手を握って、袋を手に取るのを妨害する。
僕に手を握られて、弩はびっくりしていた。
目を丸くして、悪戯を見つかった子供みたいな顔をしている。
「弩、約束したよな」
僕がその目を見て言った。
「はい、すみません」
弩は、僕がどうしてここにいるのかとか訊かずに、すぐに謝る。
なんか、万引きでも捕まえたみたいだ。
「帰ろう」
僕がそう言っても、弩は中々そこを動かない。
「そんなに、ホワイトロリータに未練があるのか?」
僕が訊くと、弩がコクリと頷いた。
まったく、困った奴だ。
ここまでこだわっていると、なんだか、微笑ましくなって、怒らないといけないのに、表情が緩んでしまう。
「でも、先輩がこうやって、ずっと手を握って私を引っ張っていけば、帰れそうな気がします」
弩がほっぺたをピンクにして言った。
「よし、分かった。じゃあ、このまま手を繋いで、引っ張ってってやるよ」
僕が言うと、
「はい!」
弩が大きな声で返事をするから、店内の人が一斉にこっちを見る。
僕達は、逃げるように店を出た。
冬の高い夜空には、雲一つなかった。
そんな空に、まん丸に近い月が、ぽっかりと浮かんでいる。
僕達は月明かりの下を、手を繋いで歩いた。
繋いでいる弩の手が、少し冷たい。
「先輩の手は、温かいです」
弩が言った。
そんなこと言われたら、弩のもう片方の手も握って温めてあげたくなる。
手を繋いだまま二人とも無言で歩いて、通用門の所まで来ると、
「ここまででいいです。ご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」
弩が謝った。
「いいよ。寄宿舎まで送るよ。何かあったら大変だからな」
僕達はもうしばらく、手を繋いで夜道を歩いた。
林を抜けて、寄宿舎の玄関に着く。
「どうした弩、寄宿舎に入らないのか?」
玄関に着いたのに、弩が中に入ろうとしないから、僕が訊いた。
「先輩、手を離してくれないと、入れません。別に離さないなら、離さなくてもいいんですけど……」
そうだった。
弩に言われて、僕は手を離す。
「それじゃあ、また明日」
そう言って、別れようとしたとき、
「先輩、月が綺麗ですね」
突然、弩が言った。
「えっ? ああ、そうだな」
僕が答えると、弩は、恥ずかしそうに、走って寄宿舎に入って行った。
僕は空の月を見上げる。
確かに今日の月は綺麗だけど、弩は、なんでそんなこと、あらためてここで言ったんだろう。
本当に、変な奴だ。
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