第163話 破魔矢

「先生は、パン、何枚食べますか?」

 僕が訊くと、

「さ、いえ、一枚で」

 ヨハンナ先生が三本立てた指を引っ込めて、恐る恐る一本出した。

「弩は?」

「私も、一枚でいいです」

 指を四本掲げようとした弩が、一本に変える。


 この二人、実に分かりやすい。


「わかった。じゃあ、ちょっと待ってて」

 僕はキッチンに戻って、トースターで食パンを焼く。


 二人とも、昨日の萌花ちゃんの指摘を気にしてるみたいだ。

 萌花ちゃんに顔が丸くなって太ったんじゃないかって言われたことを、相当、気にしている。

 昨日の夜の宴会は先生もビールを控えていたし、弩も、デザートのアイスは一つしか食べなかった。


 脱衣所の体重計に乗る勇気は、二人とも、まだないみたいだけど。



「霧島先生も、弩さんも、冬休みで自堕落じだらくな生活をせずに、自分を律した生活をしなさい」

 朝食の食卓で、河東先生が言った。


 僕と花園、枝折。ヨハンナ先生と弩に、河東先生と萌花ちゃんが加わって、七人で賑やかな朝食をとる。


 こたつの上には、トーストに目玉焼きと、ベーコンのソテー、サラダと、具だくさんのクラムチャウダーに、バナナヨーグルトとオレンジジュースのメニューが並ぶ。


 おせちにも飽きただろうから、今日は洋風朝食にしてみた。



「お正月をどう過ごすかで、その一年が変わりますよ」

 河東先生が言う。

 河東先生は一晩眠って、しらふに戻っていた。

 眉毛も目元も凛々しいし、髪も、後れ毛の一本も許さず、ぴっちりとまとめている。


 河東先生は、背筋をぴんと伸ばして、優雅に食事をとった。


 昨日、猫語を話していた先生は、もう、ここにはいない。


「お母さん、お正月から、やめて」

 萌花ちゃんが言った。

 でも、昨日の猫語の河東先生を見ているから、厳しいことを言われても、なんか許せる気がする。先生の背後に、あの可愛い先生が浮かんできた。

 あの先生の様子を、スマホのムービーで撮っておけばよかったと、ちょと後悔する。


「それに、だらだらとこたつにばかり入っていて、みんな少し運動もしたほうがいいようね」

 それには僕も完全に同意だ。

 ヨハンナ先生も弩も、こたつの一部になってるし、トイレに行くのも、僕がお姫様抱っこしてたくらいだし。



「そうね。それじゃあ、これからみんなで、初詣に行きましょう」

 食べ終わって口の周りを拭きながら、河東先生が言った。


「やったー! 初詣だ!」

 花園が河東先生に抱きつく。

 河東先生は、あらあらと、花園の頭を撫でた。


「篠岡君、この近所に、お参りできる神社はある?」

 先生が僕に訊いた。

「はい、歩いて30分くらいのところに、立派な神社がありますけど」

 正月、母や父が家にいるときは、必ず家族でお参りしていた。


「いえ、先生、寒いですし、風邪をひくといけませんから……」

 ヨハンナ先生が、なんとか河東先生を止めようとする。

「新年を新しい気持ちで迎えるためにも、初詣に行くのが一番だわ。さあ、みんなでお参りしましょう」

 河東先生が、威圧感のある笑顔で言った。


「でも、あの、外は寒いですし……」


「これくらいの寒さにひるんでどうするの。冬の本番はこれからよ」

 河東先生が切って捨てる。


「あ、そうだ。枝折ちゃんがもうすぐ受験だし。初詣とかしてる暇ないですし」

 ヨハンナ先生が必死に行かない理由を探す。


「私は、正月三が日は休むつもりで受験勉強の計画を立てているので、構いません」

 枝折が無表情で言った。


「あ、そうなのね」

 先生の逃げ道が塞がれる。


 結局、ヨハンナ先生も、弩も、着替えてコートを羽織った。



 ドアを開けて外に出ると、僕達を歓迎するように、強い北風が吹きつける。


「さあ、行きましょう」

 河東先生がずんずん歩いて行った。


「霧島先生、車はなしです。歩いて参りますよ」

 車のドアに手を掛けたヨハンナ先生に、河東先生の声が飛ぶ。


「は、はい」

 先生が、涙目でドアから手を離した。


「塞君」

 すると、先生がそう言って僕に体を預けてくる。

「なんですか?」

 僕が訊いた。

「ほら」

 先生はそう言って、僕に体を擦りつける(ちょっとくすぐったい)。

「ほらって、なんですか?」

 意味不明だ。


「だから、抱っこ」

 先生が、甘えたような声を出す。


「いえ、お姫様抱っこで初詣とか、行きませんから!」

 そんなことしたら神様に怒られそうだ。



 僕は先生の手を引いて、30分の道のりを、なだめてすかして、なんとか歩かせる。




 普段は静かでおごそかな雰囲気がある近所の神社が、今日は参道に沿って屋台が出ていたり、晴れ着の女性が参拝していたりと、賑やかだった。

 どこからか、みやびやかな琴の音も聞こえる。

 大晦日や元旦ほどではないけれど、拝殿の前には行列もできていた。


 僕達も、その最後尾に並ぶ。

 ヨハンナ先生と弩が、たい焼きの屋台を穴が開くほど見ていたから、引っ張って連れて行く。


 僕達の順番が回ってきて、お賽銭を投げて、手を合わせた。



 大丈夫だとは思うけど、枝折が無事、高校受験に合格しますように。


 鬼胡桃会長と母木先輩も、大学に合格しますように。


 主夫部の部員が増えますように。


 寄宿生も増えて、もっとたくさん洗濯が出来ますように。


 みんなが健康で、つつがなく過ごせますように。


 欲張りだけど、僕は五つもお願いをした。



「弩は、なにをお願いしたんだ?」

 弩が隣で熱心に手を合わせていたから、僕は訊いてみる。


「ダイエットが成功しますように、です」

 弩が、鼻の穴を大きくして言った。


「ああ」

 それは確かに叶って欲しいけど。


「せ、先生は、なにをお願いしたのかな?」

 お賽銭に1000円札を入れていたヨハンナ先生に訊く。


「ダイエットが成功しますように、だよ」

 先生も、鼻息荒く答えた。


「あ、はい」


 まったく、興ざめだ。


 普通、こういう場合、僕が、「なにをお願いしたの」って訊いたら、「内緒です」って返されて、「なんだよぉ、教えろよぉ」って、僕が突っついて、「駄目です!」、みたいな遣り取りがあって、「あ、分かった。片思いの相手に、気持ちが通じますように、みたいな、お願いなんだろう? 誰だ? その相手?」とか、僕が茶化したら「そんなこと、絶言えません、だって私の好きな人って……」、そこで顔を真っ赤にして、「えっ、まさか……」、「はい……(コクリと頷きながら)」みたいな、甘酸っぱい会話が交わされるんじゃないのか。


 体がぽかぽかするような、ストーリーが展開するんじゃないのか。

 初詣は、そういうイベントのはずだ。



「ほら、篠岡君、行くよ」

 河東先生に呼ばれた。


 気がつくと、先生もみんなも遠くにいる。

 拝殿の前で妄想していたら、僕だけ取り残されたらしい。


「待ってください!」

 僕は、みんなの元へ急ぐ。




 境内では、氏子うじこさん達が、おしること甘酒の「振る舞い」をしていた。


「どうぞ、みなさん。食べていってください」

 割烹着を着た氏子のお婆さんが、僕達に勧めてくれる。

 僕達はお礼を言って、ありがたく頂いた。

 寒空の下で飲む甘酒や、おしるこは、格別においしい。


「お、お母さん。お母さんは甘酒やめようね」

 萌花ちゃんが河東先生に甘酒をやめさせて、おしるこを差し出す。

 甘酒だから酔うことはないと思うけど、万が一、先生がまた猫語をしゃべり出したら大変だ。


「おいしいね」

 花園と枝折が、並んでお汁粉を食べている。


 先生と弩も、おしるこの椀を手に取った。

「先生、ダイエットの成功をお願いしてから、多分、五分も経ってないと思うんですけど」


「今日はまだ、三が日だよ。明日から本気出すし」

 ヨハンナ先生が言った。

 その明日は、たぶん永遠に来ない明日だ。



 枝折のために縁起物の破魔矢はまやを買って、また、歩いて帰る。



 足が重いヨハンナ先生と弩を、押したり、引っ張ったりしながらどうにか辿り着いたら、家の玄関に人影があった。


 その人影は玄関のチャイムを押していて、僕達に気付いて振り向く。


「おう、みんな。あけましておめでとう!」


 それは縦走先輩だった。

 先輩は、ランニングに短パン姿で、僕の家の玄関に立っている。


「先輩……」

 見るだけで、こっちまで寒くなりそうだ。

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