第162話 空飛ぶボタン
駅伝ランナーが走るコースの沿道を、美しいフォームの少女が走っている。
浅黒くて短髪、背が高くて無駄な肉がついていないアスリート体型。
少女はこの寒空に、ランニングにショートパンツの軽装で、風を切ってぐんぐん走る。
その少女。紛れもなく、縦走先輩だ。
先輩は、沿道で声援を送る人垣の後ろを、颯爽と駆け抜けた。
道路を行く駅伝ランナーに食らいついているから、先輩の姿は中継のカメラにばっちりと映っている。
縦走先輩……
あなたって人は、正月から、何してるんですか!
僕達がリビングでテレビに釘付けになっていると、
「先輩、お正月から、元気ですねぇ」
弩が、呑気なことを言った。
確かに元気だ。
いや元気すぎる。
「先生、私達はあれを、見なかったことにしましょう」
ヨハンナ先生が、河東先生に言った。
「えっ、ええ、そうね」
そう言いながら、河東先生のこめかみの辺りがピクピクしている。
縦走先輩は、校名が入った部活のランニングじゃなくて、練習用の無地のランニングを着ているから、全国的に我が校の校名が
でも、学年主任で生徒指導の河東先生が心中穏やかでないのは、想像に難くなかった。
「本当に、もう」
河東先生が落ち着こうとして、目の前のウーロン茶を
いや、ウーロン茶を呷った、つもりだった。
しかし興奮していた河東先生は、その手に掴むグラスを間違えてしまう。
「河東先生それ、お酒です!」
僕が慌てて言ったときには、すでに遅かった。
河東先生は、隣に座るヨハンナ先生のグラスを傾けている。
ヨハンナ先生が飲んでいた、焼酎のウーロン茶割りのグラスを空けてしまったのだ。
河東先生はその
以前、夏フェスのときに、シャーベットに入っていた僅かなリキュールで酔っぱらった河東先生が思い出された。
空になったグラスを置いて、目を瞑る河東先生。
「お母さん! 大丈夫?」
すぐに萌花ちゃんが河東先生に駆け寄った。
ところが、先生は目を瞑ったままで、返事がない。
「お母さん! お母さん!」
萌花ちゃんが先生を揺すった。
「お母さん、お母さん」
萌花ちゃんが呼び続けると、先生の目がぱっちりと開かれる。
「あに、もえか、おはあはんは、らいりょうふ」
河東先生が言った。
多分、「なに萌花、お母さんは、大丈夫」って言ったんだと思う。
河東先生の表情がとろけて、いつものキリッとした眉が垂れ下がっていた。
ふらふらの先生は、萌花ちゃんに寄りかかって支えられる。
グラス三分の一くらいのウーロン茶割りで、河東先生がぐでんぐでんになってしまった。
「塞君! お水持ってきて!」
ヨハンナ先生が僕に言う。
「はい、すぐに!」
僕はキッチンでグラスに水を入れてきて、先生に差し出した。
「お水らんか、いらないにゃん。もっとお酒が飲みたいにゃん」
河東先生が言う。
「にゃん」だと。
「先生、大丈夫ですか?」
ヨハンナ先生が肩を揺すった。
河東先生が語尾に「にゃん」を付けてしゃべるという非常事態に、ヨハンナ先生も慌てている。
「先生……気分、悪くないですか?」
ヨハンナ先生が訊くと、河東先生はその先生を睨んで、
「にゃあ、ヨハンナ! あんたは綺麗でスタイル良くて、ずるいにゃん」
と、絡んでいった。
「生徒に慕われて、主夫部の男子に囲まれて、いい加減にしろにゃん」
お酒でピンク色になった顔で言う、河東先生。
「済みません!」
萌花ちゃんが、代わりに謝った。
「まあ、いいからいいから」
ヨハンナ先生が萌花ちゃんに笑顔を見せる。
「母は、猫に目がないんです。仕事でいないことも多いから、うちでは飼えないけど、近所の猫を見ると、すぐに話しかけるし」
萌花ちゃんが言った。
「そんなときは、にゃあにゃあ言ってるんです」
河東先生にそんな一面もあったのか。
お酒で、そんな面が出てきてしまったんだろう。
僕がそんなことを考えていたら、矛先がこっちに向いた。
「にゃい、篠岡! あんたもにゃ。まったく、私より料理が上手いにゃんて、どういうことにゃん! 家事を完璧にこにゃすって、どういうことにゃ。もう、こうにゃったら、萌花の
河東先生が僕に顔を近づけて言う。
少し、お酒臭かった。
「もう、お母さんってば! 恥ずかしい!」
萌花ちゃんが顔を赤くして、大慌てで止める。
「にゃによ、だって萌花、あんたは篠岡のこと……」
河東先生が何か言いかけたところで、萌花ちゃんが先生の口を塞いだ。
河東先生は、その後も猫語で散々くだを巻いたあと、こたつの天板に突っ伏して眠ってしまった。
「お母さん、もう、お母さん!」
萌花ちゃんが揺り起こそうとする。
「いいよ、寝かせておいてあげよう」
ヨハンナ先生がそう言って、萌花ちゃんを止めた。
ヨハンナ先生が僕に
こたつに突っ伏す河東先生をお姫様抱っこで運んで、ジャケットを脱がせ、そこに寝かせる。
「ありがとにゃん」
布団をかけたら、僕の耳元で先生が言った。
「えっ?」
僕が訊き返したら、河東先生はすでに寝息を立てている。
母と同年代の女性に対して失礼かもしれないけど、寝顔が可愛いとか、思ってしまった。
お酒を飲んだあとで喉が渇くといけないから、枕元にレモン水を入れたピッチャーとグラスを置いておく。
「でも、どうしよう。お母さんがお酒飲んじゃって、車で帰れない」
リビングで、萌花ちゃんが言った。
「もうこれは、泊まっていけってことだよ」
ヨハンナ先生が顔をほころばせて言う。
「でも、お正月から、迷惑かけるし……」
萌花ちゃんは、済まなそうに僕を見た。
「女子の一人や二人増えたからって、
ヨハンナ先生が勝手なことを言う。
まあ、確かに二人くらい大丈夫なんだけど。
洗濯物が増えて、嬉しいけど。
「そうだよ、萌花お姉ちゃん、うちに泊まっていきなよ」
花園が抱きつく。
花園、GJ。
花園に可愛く抱きつかれたら、もう、
「それじゃあ、お言葉に甘えます」
萌花ちゃんが花園を抱いて、照れながら言った。
「そうと決まれば、萌花ちゃん、くつろいでくつろいで」
先生が座布団を勧める。
「服も窮屈でしょ? 私のでよければ使って」
弩が自分のバッグから、トレーナーを渡そうとした。
すると、
「ゆみゆみのだとサイズ小さいでしょ? 花園のを使いなよ」
花園がそう言って、自分の服を取りに二階に上がった。
人が増えて、花園も枝折も嬉しそうだ。
「ほら弩、確かに弩は花園よりも小さいけど、まだまだこれから大きくなるよ」
花園に暗に小さいって言われて、弩が落ち込んでカーペットのほつれを
ティッシュペーパーで鼻水をちーんさせる。
人数が増えると、それなりには忙しい。
「縦走さん、まだ走ってるよ」
テレビを見ていた枝折が言った。
さすがに先頭集団には置いて行かれたけど、縦走先輩は第二中継車の映像に、まだちゃっかりと映っている。
「縦走先輩は、どこに向かってるんだ……」
僕が
「箱根でしょ」
「箱根だよ」
「箱根でしょう」
「箱根です」
「箱根!」
みんなに突っ込まれた。
いや、そういう意味ではなく……
花園のピンクのスエットに着替えた萌花ちゃんがこたつに入って、お正月の宴、第二部が始まる。
しばらく飲み食いしていたら、
「そう言えば、あの、ちょっと気になってることがあるんですけど」
この環境に慣れてきた萌花ちゃんが言った。
「なになに?」
こたつに入った他の五人の視線が、萌花ちゃんに集中する。
「ちょっと、言いにくいんですけど、いいですか?」
萌花ちゃんがそんなふうに前置きした。
「なになに?」
「気になるじゃん」
弩も先生も、興味津々だ。
「じゃあ言いますけど、ヨハンナ先生と、弩さん、ちょっと太ってません?」
萌花ちゃんが、無慈悲に言った。
「まさか」
「そんな」
ヨハンナ先生と弩がそう言ってお互いを見て、笑い飛ばす。
「ここに来たときから気になってたんです。二人とも、輪郭が丸くなってるなあって……」
萌花ちゃんが、遠慮がちに指摘した。
でも、カメラマンとして、萌花ちゃんの目は確かだ。
普段から、被写体にしている古品さんの体重の増減を、見ただけで言い当てるくらいだし。
「先輩、先輩は気付きませんでした?」
萌花ちゃんが僕に話を振った。
「いや、気付かなかったけど」
僕は答える。
これは別に、二人の前だから遠慮してるとかじゃなくて、本当に分からなかった。
でも、僕達は年末からずっと一緒にいるから、二人が少しずつ太っていったとしたら、僕は気付かないかもしれない。
久しぶりに二人を見た萌花ちゃんだから、気付いたのかも。
「二人とも体重、量ってます?」
萌花ちゃんに訊かれて、二人は首を振った。
「脱衣所に体重計があるのは分かってるんだけどね」
弩が言って、舌を出す。
「私はほら、数字とか気にしないタイプだし」
ヨハンナ先生が言った。
先生、気にしよう。
そこは絶対に気にしましょう。
数字は気にしないって、連勝記録を伸ばしてるプロスポーツ選手みたいな言い方されても……
「大体、普通に動けるし、これくらいがベスト体重だよ。ね、弩さん」
「はい、そうです」
先生と弩がこたつから立ち上がって、体を動かした。
「ほら、普通に動けるでしょ」
二人はその場で屈伸運動したり、体の曲げ伸ばしをして、ラジオ体操の真似をする。
「今の女子は細すぎるんだよ」
「そうだ、そうだ!」
二人が言って、立ったまま上体を反らすストレッチをした、そのときだ。
ぶちっ
と鈍い音がして、次の瞬間、二人のパンツのボタンが、弾け飛んだ。
ボタンは宙を舞って、こたつの上の、
お椀の中で回って、カラカラと
普段あまり感情を外に出さない枝折が、正月から、声を上げて笑う。
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