第146話 お持ち帰り禁止

 真っ青な空と、紅葉の赤や黄色の中に、霧島家三姉妹と、弩と、僕のパンツが翻る。


 朝から、シーツやタオル、昨日ヨハンナ先生とアンネリさんが着た制服のシャツや、靴下も洗った。

 旅館からは見えない反対側の二階のベランダに、まとめて洗いあがった洗濯物を干す。


 清々しい朝に、木々に囲まれて川音が聞こえる、広々としたベランダでする洗濯もまた、いつもと違って気持ち良かった。

 霧島家の姉妹も、弩も、朝から温泉に入ってたけど、朝風呂に浸かることなんかより、洗濯のほうが断然、癒されると思う。

 洗ったばかりの、この洗濯物みたいに、気持ちが真っ白になる。

 心に溜まった垢が落とされる。


 手にしたこの真っ白な洗濯物が、愛おしい。


「先輩に変な気持ちがないのは分かってますけど、私のブラジャーを持ちながらニヤニヤしているのを見ると、やっぱり、複雑な気持ちです」

 籠を持って洗濯物干しを手伝っていた弩が、ぽつりと言った。

 顔が自然にほころんでいたらしい。

 僕は手にしていた弩のブラジャーを、素早く干してしまう。


 朝から温泉に浸かった浴衣姿の弩は、顔が上気していた。

「な、なんですか?」

 僕が弩の顔をまじまじと見ていたら、弩が後ずさりする。

「いや、昨日から何度も温泉に浸かったせいか、弩のほっぺっとか、いつも以上にすべすべで、ぷにぷにで、食べちゃいたいっていうか……」

 人差し指でほっぺたを突っつこうとしたら、弩が顔を真っ赤にして、「ふええ」と言いながら逃げてしまった。


 変な奴だ。


 手持ち無沙汰のときとか、僕は普段から弩のほっぺたつんつんしてるのに。




 さて、洗濯の後は、お腹を空かせた金色の髪の姉妹に、朝食を用意しよう。


 ヨハンナ先生と弩は、いつも通り和食でいいと言ってくれたけど、アンネリさんは、パンで、洋食にしたいとのことだったから、別に用意した。


「あなた、作ってもらうんだから、面倒なこと言うんじゃないの」

 ヨハンナ先生が、アンネリさんに注意した。

「だってぇ」

 アンネリさんが頬を膨らませる。


 アンネリさんによると、旅館に産まれて子供の頃からずっと和食ばかりを食べてきたアンネリさんは、家を出て一人暮らしするようになったら、絶対に朝食はパン食にしようと決めていたそうだ。

 昨日の夕食も、ハンバーグとか、カレーとか和食じゃない子供っぽいものを食べたがったのは、そういうことなのかと納得する。


 アンネリさん用には、ポテトオムレツと、ベーコンとエリンギ、アスパラガスのソテー、キウイフルーツを添えたヨーグルトと、クロワッサンに、オレンジジュースを付けた。


 ヨハンナ先生と弩の和食メニューは、銀鱈の粕漬けに、温泉たまご、納豆、茄子と胡瓜の漬け物に、アサリの味噌汁だ。


「お姉ちゃん、ずるいよ」

 エリンギを噛んで食感を楽しみながら、アンネリさんが言った。

「なにが?」

「塞君のことだよ。料理は上手いし、洗濯はしてくれるし、気が利くし。こんな人が彼氏だなんて」


「まあ、お姉ちゃんの彼氏だからね。こんなの、朝飯前よ」

 先生がいばるところじゃないと思う。

 僕は先生の本当の彼氏じゃないし。


「それに、ちょっと可愛いもの」

 アンネリさんが、僕を見て、悪戯っぽく言った。

 僕のこと、可愛いって言う。

 でも、僕は騙されない。

 騙されてなるものか。

 年上の女性は、平気でそんなこと言うのだ。


「まったく、このまま東京にお持ち帰りしたいよ」


「それは駄目です!」

 口から納豆の糸を伸ばして、弩が言った。


「なんで、枝折ちゃんが向きになるの?」

 突然会話に加わった弩に驚いて、アンネリさんが訊く。

「だ、だって、大切なお兄ちゃんですし」

 指摘されて、弩の語気が萎んだ。

「ふ~ん」

 アンネリさんが、疑わしげな目で弩を見た。

 僕は弩に、視線で(気をつけろ)と送っておく。

 弩は、今、妹の枝折なのだ。


「そういえば、お姉さんのペトロネラさんは結婚してるんですよね。旦那さんはどうしてるんですか?」

 話を逸らしながら僕は訊いた。

 昨日からこの家にいるけど、見当たらなかったし。


「うん、ちょっとね………」

「外で、仕事してるっていうか……単身赴任っていうか……」

 ヨハンナ先生とアンネリさん、少し歯切れが悪かった。

 なにか、僕は訊いてはいけないことを訊いたんだろうか。


 二人が、これ以上訊くなオーラを出していたから、僕はそれ以上、訊けなかった。




 朝食が終わって、僕が食器を洗っていると、若女将のペトロネラさんが、住居棟の廊下を小走りで来た。

 弩はダイニングでアンネリさんに髪を梳かしてもらっていて、ヨハンナ先生はリビングのソファーで新聞を読んでいる。


「篠岡君、ごめんね。うちの父が、やっと見つかったの」

 先生やアンネリさんと違って、朝からもう一仕事してきて、ぴしっと着物を着た、ペトロネラさん。


「方々を捜しても見つからないから、どこに隠れてるのかと思ったら、この宿にいたの。うちを贔屓にしてくださっているお客さんの部屋に入り込んでて、一緒にお酒飲んでいたんですって。まったく、灯台下暗しってこのことよね」

 ペトロネラさんがそう言って溜息を吐いた。


「やれやれだよ」

 ヨハンナ先生が新聞を読むのを止める。


「それで、お客さんがチェックアウトした後の時間で、顔合わせの席を設けたいんだけど、いいかな?」

 ペトロネラさんが訊く。


「僕は、いいですけど」

「私もそれでいい」

 僕と、ヨハンナ先生が答える。


「それじゃあ、そういうことで」

 ペトロネラさんは確認だけすると、忙しそうに旅館のほうへ取って返した。



「緊張しなくていいから。うちの父は、やさしい人だし」

 ヨハンナ先生が僕に言う。

 「うちの両親は」とは言わずに、「うちの父は」って先生が言ったところが引っかかった。


 先生のお母さん、この旅館の女将は、厳しい人なんだろうか。



 僕は、手早く洗い物を済ませて、制服に着替えた。

 新しいシャツを下ろして、髪を整える。

 普段は適当にネクタイをしてるけど、今日は鏡を見ながら、きっちりと結んだ。


「お兄ちゃん、がんばってきて」

 弩がそう言って送ってくれた。

「命まで取られることはないから」

 アンネリさんはそんなふうに言って僕を送り出す。




 広い濡れ縁に面した、この旅館の中で一番眺めの良い部屋が、顔合わせの場所に当てられた。

 スーツ姿のヨハンナ先生と、制服の僕とで、旅館の廊下を歩く。


「失礼します」

 ヨハンナ先生が襖を開けると、先生のご両親と思われる二人が座っていた。


 先生のお母さん、この旅館の女将、霧島イヴォンネさんが、まず目に飛び込んでくる。

 墨色の鮫小紋の着物に、ベージュの名古屋帯。

 金色のアップの髪に青い瞳。

 紛れもなく、三姉妹のお母さんだ。

 その涼やかな表情からは、ペトロネラさんの落ち着きに加えて、強さが感じられた。

 何事にも動じない、強さがある。

 この老舗旅館を、先頭に立って仕切っているのだ。


「はじめまして……」


 僕は、言葉を継ごうとして、次の瞬間、固まった。


 女将のイヴォンネさんの隣にいたお父さんらしき人物。

 そのお父さんを見るなり、顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。


「塞君、どうしたの?」

 ヨハンナ先生が小声で訊く。


 僕は、その人に見覚えがあった。


 昨日、大浴場で一緒になって言葉を交わした、白髪の男性だったのだ。

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