第147話 立候補

 まるで渓谷のように組まれた庭石の間を、砂利の水が流れていた。

 苔の緑の上に、紅葉の赤や黄色が散らされていて、凝った刺繍の絨毯みたいだ。

 広い池では、何匹もの錦鯉が、優雅に泳いでいる。

 奥に広い庭で、木々に囲まれた中に茶室が建っているのも見えた。

 縁側に座って、一日ゆっくりと見ていたい庭だけど、今の僕には、そんな余裕はない。


「はじめまして」

 先生のお父さんが、言った。

 はじめまして? 

 その人とは、昨日、大浴場の露天風呂で、少しのあいだ話した。

 お互い裸で、隠すものもなく素顔を見たんだから、間違いない。

 けれど、先生のお父さんは、そんなこと、おくびにも出さなかった。

 すまし顔で、僕と初対面のふりをする。


 痩せたスマートな体型に、ボタンダウンのチェックのシャツを着て、紺のセーターを合わせたお父さん。

 短く刈った白髪。目尻に深い皺が刻まれた優しい目元で、僕を孫か何かのように見る。


「昨日は、すみません。この人が隠れていたせいで、予定を変更させてしまいました」

 先生のお母さん、女将のイヴォンネさんが、丁寧に頭を下げた。

 優しそうなお父さんの隣で、凛とした佇まいのお母さんは、より、威厳を持って見える。


「いえ、おかげでこんな立派な旅館に泊まらせて頂きましたし、温泉にもたっぷりと入ることができましたし」

 僕は顔を上げてくださいと頼んだ。


「本当に、すまなかったね」

 お父さんも続けて頭を下げる。



「彼が、私が付き合っている篠岡塞君。私のクラスの生徒で、高校二年生」

 先生がご両親に僕を紹介してくれた。

 嘘と分かっていても、先生の彼氏と紹介されると、緊張するし、身が引き締まる思いだ。


「それで、確認だけど、あなた達は教師の生徒の関係なんだから、それを踏み外すようなことはしていないわね」

 一通り紹介し合ったあとで、お母さんが訊いた。

 いきなり、切り込んでくる。


「当然です」

 ヨハンナ先生が即答した。

「当然です」

 僕も続く。


「本当ね」

 お母さんが念を押した。


「はい、僕は、先生の服や下着を洗濯したり、先生の部屋を掃除したり、先生の布団を干したり、先生の食事を作ったり、先生の髪を洗ったり、疲れた先生にマッサージしたり、食堂で酔いつぶれた先生をお姫様抱っこしてベッドまで運んで寝かせたりしているだけです」

 これくらいの清い関係だということを伝えたかったのに、なんか、僕が話していると、お母さんの表情が、見る見る変わって、険しくなっていく。


 僕は、なにかまずいことを言っただろうか。


「ヨハンナ、あなたは、生徒に身の回りの世話をさせたり、髪を洗わせたり、マッサージさせたり、ベッドまで運ばせたりしているのね」

 お母さんが、感情を押し殺した声で言った。

 隣で、先生のお父さんが苦笑している。


「こ、言葉にするとそうだけど、これには理由があって……」

 ヨハンナ先生が、チラッと、僕を刺すような視線で見た。

 それから、お母さんに、僕や主夫部のことを説明する。

 先生が主夫部の顧問と寄宿舎の管理人を兼務していることや、寄宿舎の脱衣所に据えた洗髪台のこと。

 そこで部活動の一環として、家事をしたり、寄宿生の髪を洗っていることなんかを、丁寧に説明した。


「主夫部か、面白そうだねぇ」

 先生のお父さんが、助け船を出してくれる。


「そうなの。その部活を考えたのが、この塞君なの」

「ほう、アイディアマンなんだ」

 お父さんは、感心したように頷いた。


 お父さんが言葉を挟んでくれたおかげで、もっとなにか言いたかったみたいなお母さんの言葉が、引っ込んだ。


 お父さんはこのまま、僕達が初対面で、昨日露天風呂で僕が話したことは知らない演技で通してくれるみたいだ。

 僕が先生の偽の彼氏であることは、お母さんに黙っていてくれるらしい。



「それで、あなた達はこの先、結婚を考えているのね」

 お母さんが訊く。

「はい」

 僕と先生は、同時に答えた。

 揃いすぎていて、わざとらしかったかもしれない。


「篠岡君のご両親は、このことを知っているの?」

 お母さんが訊いた。


「はい、知っています。僕の彼女が誰だろうと、それは僕の意志に任せると言ってくれています」

 僕は、ここでも嘘をついた。

 でも、それを確かめようとしても、母の護衛艦「あかぎ」は、多分、今は南シナ海にいて、連絡をとるのは難しいだろう。


「そういうことなら、いいんじゃないか」

 お父さんが言った。

「彼が高校を卒業して、ヨハンナの生徒でなくなるまでには、まだ時間があることだし。それまでに考えればいいじゃないか」

 お父さんが続ける。


「もちろん、あなた達は卒業するまでは、教師と生徒の関係でいるのよ」

 お母さんが僕とヨハンナ先生を交互に見て言った。


「分かっています」

 先生が答える。


「先生をお姫様抱っこしたり、先生の髪を洗ったりするのは、教師と生徒の関係に入りますか?」

 僕は訊いた。

 なんか、バナナはおやつに入りますか? みたいな言い方になってしまったかもしれない。


「まあ、いいでしょう」

 厳しい顔をしていたお母さんが、そう言ったあとで、我慢できなくなったみたいに、吹き出した。

 僕の言い方が可笑しかったんだろうか。

 まあ、場が和んだし、結果オーライだ。



「それじゃあ、そういうことで。篠岡君、わざわざ来てもらってすまなかったね。お昼は私が作るから、食べて行きなさい」

 先生のお父さんが手を打って言った。


「あ、僕、手伝います」

 立とうとしたら、正座して足がしびれていて、僕は中々立てない。




 先生のお父さんと一緒に、台所に立った。

 リビングでは、弩と、家族のみんながくつろいでいる。


 さすが、主夫として毎日この台所に立っているお父さんは、手際がよかった。

「お昼だから凝った料理はできないけれど」

 と言いながら、天ぷらを揚げて、天ぷらそばを作ってくれる。

 掛けそばには、ネギとかまぼことワカメの具に、大きなかき揚げの天ぷらが載った。


「うちはね、かき揚げに栗を入れるんだよ」

 お父さんは、霧島家の味の秘密を教えてくれる。

 栗はかき揚げに食感と甘さを加えてくれるんだそうだ。


 一緒に台所に立ちながら、僕の家事の腕とか、見られてるんじゃないかと思うと、少し緊張した。

 いつかこんなふうに、本当の婚約者の親御さんと一緒に、台所に立つことがあるんだろうか。


「それから、昨日のことは聞かなかったことにしておくから」

 お父さんが小声で、リビングのみんなには聞こえないよう、僕に言った。

「帰ったら、ヨハンナには、結婚相手はゆっくり捜しなさいって言っておいてくれるかな」

 お父さんはそう言って微笑む。

「分かりました」

 そういうことなら、喜んで引き受けられる。



 忙しいお母さんとペトロネラさんも一旦住居棟に集まって、みんなで天ぷらそばを食べた。

 弩もすっかり、アンネリさんになついている。

 二人で、きゃっきゃ言いながら食べていて、お母さんに怒られた。

 やっぱり、この家を仕切るのはお母さんだ。




 昼食のあと、もう一度温泉に入って一休みしてから、旅館を発った。


 玄関に、先生のご両親と、ペトロネラさんが並んで、見送ってくれる。

「塞君、枝折ちゃん、いつでも、温泉に入りにいらっしゃい」

 先生のお母さんが言ってくれた。

「これ、ご家族と、寄宿舎の皆さんで」

 ペトロネラさんが、お土産の温泉まんじゅうを段ボール箱ごとくれる。


 アンネリさんも東京に帰るということで、駅まで送ってと、先生のフィアットに乗り込んだ。

 僕が助手席で、弩とアンネリさんが後席に並んだ。


「それじゃあ、気をつけて」


 バックミラーに、いつまでも手を振っている、ご両親が見えた。

 こんな素敵な先生のご家族に嘘をついてるかと思うと、ちょっと、心が痛む。



「それで、あなたは一体、誰なの?」

 フィアットの車内で、アンネリさんが、弩に訊いた。

 先生の両親がバックミラーから消えたのを見計らったようなタイミングだ。


「えっ?」

 弩がびっくりして、上ずった声を出す。

「あなたは、塞君の妹の枝折ちゃんなんかじゃないんでしょ?」

 アンネリさんに迫られて、弩が「ふええ」と消えそうな声で言った。


「なんだ、ばれてたの」

 運転しながら、ヨハンナ先生が言う。


「塞君が、お姉ちゃんの婚約者だっていうのも、嘘?」

「まあね。叔母さんがお見合い話とか持ってきてうるさかったし」

 先生がぶっちゃけた。


「なんで分かったんですか?」

 僕は訊いた。

 僕達の演技が酷かったんだろうか。


「昨日のご飯のときの会話が、ちょっと引っかかってたの。私が、みんなで食べるご飯は美味しいって言ったら、彼女も、みんなで食べる晩ご飯は美味しい、私も、ずっと一人だったからみたいなこと言ったでしょ? 兄妹なのに、ずっと一人だったっておかしいなと思って、観察してたの。まあ、複雑な家庭で、一人でご飯食べてたっていう可能性もあったんだけどね」

 アンネリさんが言う。

 ご飯の時の会話は、スッと聞き流してたけど、アンネリさんは矛盾に気付いてたのか。


 アンネリさん、ふわふわな感じなのに、意外と鋭い人なのかもしれない。



「それで、あなたは誰?」

 アンネリさんが、再び弩に訊いた。


「弩まゆみといいます。主夫部で、篠岡先輩の後輩です。寄宿舎では先生にもお世話になってます」

 弩が白状する。

「弩のゆみと、まゆみのゆみで、ゆみゆみって呼んでもらえたら嬉しいなって」

 ゆみゆみって、弩、まだ諦めてなかったのか……


「それで、その後輩さんが、なんで妹のふりしてここに来たの?」

 アンネリさんが、さらに訊いた。

「先輩が心配でついてきたっていうか……」

 弩が首を竦めて答える。

「ふうん」

 アンネリさんが、弩の目を覗き込んだ。

「じゃあ、あなた塞君の彼女?」

 アンネリさんが、指差して訊く。

「いえ、違います! 全然そういうのじゃないっていうか……そうだったら…い…………」

 弩が、顔を真っ赤にして口籠もった。

「ふうん」

 アンネリさんは、何か言いたげな表情で弩を見ている。




 そんな話をしているあいだに、フィアットは最寄りの湯河原駅に着いた。

 先生が駅前のロータリーに車を停める。

 アンネリさんが車から降りて、僕は荷物を出すのを手伝った。


「ねえ、塞君がお姉ちゃんの彼氏じゃなくて、弩さんの彼氏でもないなら、私が立候補してもいいわけだよね」

「はい?」

「だから、塞君の彼女として立候補してもいいんだよね?」

 アンネリさんがヨハンナ先生や弩にも聞こえるよう、僕に訊いた。


「へっ?」


「じゃあ塞君、またね。電話するから」

 僕が答えられずに戸惑っていると、アンネリさんは、そう言い残して駅舎のほうに走って行く。


「まったく、あの子ったら」

 ヨハンナ先生が溜息を吐いた。


「先輩、いつ、アンネリさんと電話番号交換したんですか?」

 無表情の弩が訊く。


「いや、それは……」

 言えない、電話番号だけじゃなくて、LINEとか、メールアドレスとかも交換したとか、絶対に言えない雰囲気だ。



 この後、寄宿舎に帰るまでの車内で、僕はヨハンナ先生と弩に、執拗な追及を受けることになった。

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