第145話 エナジードリンク

 部屋の中に、布団が二組、敷いてあった。


 金糸銀糸で飾ったふかふかの羽布団が、部屋の真ん中に並んでいる。

 布団と布団の間は、10㎝くらい。

 手を伸ばせば、寝ているお互いの肩に手が届く距離で敷いてある。


 部屋の灯りは、隅に置かれた行灯のオレンジの光だけだ。


「僕達、ここに寝るんですか?」

 僕は、若女将のペトロネラさんに訊いた。


「ええ、兄妹仲良くね」

 ペトロネラさんが、聖母のような笑顔で言う。


「なにか、問題があって?」

「いえ、別に……」

 僕と弩は、顔を見合わせて薄笑いを浮かべた。


「わっ、私も、ここで寝ようかな」

 ヨハンナ先生が言う。

 弩が僕の妹じゃないことを唯一知っている先生が、助け船を出してくれた。


「あなたは駄目よ。一応、結婚前なんだし。あなた達はまだ、先生と生徒の関係でしょ?」

 ペトロネラさんが言うことは、至極もっともだ(夏休みとか、修学旅行のときとか、もう何度も先生と一緒に寝たことがあるなんて言えない。まあ、一緒に寝たっていっても、二人きりじゃなかったけど)。


「そうだよお姉ちゃん。お母さんも同じ屋根の下にいるんだし、向こうで寝なさい」

 アンネリさんも言う。


「さあ、行きましょう。それじゃあ、ご兄妹でゆっくり休んでね」

 ペトロネラさんに促されて、ヨハンナ先生とアンネリさんが部屋を出て行った。



 僕と弩は、二組の布団を前にして、客室に二人きりになる。


 そこで二人で、たぶん、五分くらい無言で立っていたと思う。


「たとえ一緒の部屋に二人きりで寝ても、先輩は、私の布団に潜り込んでくるなんてこと、しませんよね。だって、私達、兄妹ですし」

 弩が口を開く。

「私、先輩の妹ですし、先輩は妹の布団に入ったりはしませんよね」


「えっ?」

「えっ!」


「もしかして、入ったりするんですか?」

 弩が訊いた。

「ああ、ええと、時々、花園が恐い夢見たり、寂しがって一緒に寝ようっていうから、枝折を誘って、三人で川の字で寝たりするけど……」

 花園が中学生になってから頻度は減ったけど、まだ、たまにそういうことがある。

 両親が長い航海で家を空けたときなんかは、特にそうだ。


「そうなんですね」

 弩はそう言って、しばらく考えた。


「分かりました」

 すると突然、弩は掛け布団をめくって布団の中に入った。


 仰向けに寝て、目を瞑る。


「どうぞ」

 目を瞑ったまま弩が言った。


「いや、覚悟を決めるなよ!」

 僕は、光の速さで突っ込みを入れた。

 どうぞ、ってなんなんだよ。



 僕は寝室を出た。

「先輩、どこ行くんですか?」

 布団の中から、弩が訊く。

「ちょっと、もう一回、温泉入ってくる」

 少し、頭を冷やしてこよう。

 いや、温泉だから、温めるのか。


「あっ、身を清めて来るんですね」


「違うから!」

 僕は、逃げるように客室を出た。

 何に対して、身を清めるんだ。



 霧島家の風呂に行こうとも思ったけど、さっきアンネリさんと出くわしたみたいに、家人の誰かとバッティングしたらまずいから、旅館のほうの男湯に行く。


 男湯の温泉は、大浴場と銘打ってあるだけあって、露天の岩風呂が、視界いっぱいに広がっていた。

 所々に行灯が置いてあって、仄かに辺りを照らしている。

 岩に差し掛かる紅葉が、夜空の黒に映えて鮮やかだった。

 時折、風に揺られて水面に落ちる楓の葉も、風流だ。


 時間が遅いからか、露天風呂には白髪の六十代くらいの男性が一人、入っているだけで、他には誰もいなかった。


 僕は、体を洗って、その人から少し離れて温泉に浸かる。

 丁度いい岩を見付けて、そこに座った。


「君は、高校生くらい?」

 しばらくして、もう一人の人が話し掛けてきた。

 痩せ気味の、優しそうな人だった。

「はい、そうです」

 僕は答える。

「高校生なら、こんな古い旅館じゃなくて、もっと楽しそうなところに行くんじゃないの?」

「ちょっと、色々あって……」

「高校生くらいの君にも、色々あるんだね」

 その人はそう言って、お湯をかいた。


 しばらく、無言の時間が続く。


「実は、ある人に頼まれて、その人の彼氏のふりしてるんです。これから、そのご両親に紹介されることになってて」

 その人の優しそうな横顔を見たら、秘密のことも話してしまった。

 他人だから、気楽に話せたのかもしれない。


「大変だねぇ」

 その人は、そう言って笑った。

「はい、でも、その人にはいつも振り回されているので慣れました」

「君みたいな子を、そんなに振り回す人なんだ」


「はい、確かに振り回されてます。でも、いざというときには凄く頼もしくて、助けられてばっかりです。自分のことをおいて、周囲の人を助けてくれる、そんな人です」

「ふうん、いい人なんだね」

「はい、周りのみんなも、その人を慕っています。僕も、その人が大好きです」

 僕が言うと、その人はうんうんと無言で頷いた。

 言ってから、赤の他人になに言ってるんだと、恥ずかしくなる。

 大好きだ、とか言ってるし。


 でも、偽りのない気持ちだ。


「それじゃあ、私は先に失礼するよ。のぼせそうだ。まあ、がんばって」

 その人はそう言って風呂を出て行った。


 その後でしばらく、一人で湯に浸かってから、僕も風呂を出る。



 念のため、ロビーの自動販売機にあったエナジードリンクを飲んで部屋に帰ると、弩が布団の中で眠っていた。



「弩、おい、弩」

 ほっぺたをツンツンしても、弩は起きなかった。

 鼻をつまんでも起きない。

 足の裏をくすぐっても、起きなかった。

 狸寝入りじゃないみたいだ。


 今日一日、車に忍び込んで無理な体勢でドライブしたり、妹の枝折のふりをしたり、慣れない場所で、色々あって疲れたのかもしれない。


 眠っている弩のぱっつんの前髪が割れて、おでこが見えていた。

 僕は、乱れた前髪を手櫛で直す。

 直すのに顔を近づけたら、弩の寝息が顔にかかった。

 目の前に、弩の柔らかそうな唇がある。

 ぷくっとした唇が、無防備にそこにあった。

「先輩……」

 唇が動いて、そう呟いた。

 すぐにまた寝息を立てたから、寝言だったみたいだ。


 ここは、二人きりだし、弩は無防備だし、僕は唇を………


 脳梁に突き刺さるような視線を感じて、顔を上げたら、ヨハンナ先生がベランダの窓ガラスに顔をぴったりと張り付けて、僕達を見ていた。

 旅館の浴衣で、少し胸がはだけた先生がいる。

 荒い鼻息で、ガラスが曇っていた。


 僕は、咄嗟に後ろに跳んで弩から離れる。

 僕のどこにそんな脚力があったのか、後ろ跳びで、2メートルくらい跳んだと思う。


 先生は鍵を指して、ジェスチャーで開けなさいと言っていた。


「まったく、油断も隙もないんだから」

 外から部屋に入ってくるなり、先生がそう言った。

「別に、僕は弩を襲おうとしてたわけじゃありませんから! 髪を直してただけですから!」


「どうだか」

 先生が、訝しげな目で僕を見る。

「塞君、草食系男子みたいなふりして、実はけっこう羊の皮を被った狼だったりして」

「いえ、僕はシマリスみたいなものです。小動物です」

「シマリスって、雑食でカエルとか鳥の卵とかも食べるけどね」

 ヨハンナ先生が言う。

 さすが教師。


「ところで先生、ここ、三階なんですけど」

 ここはペトロネラさんが用意してくれた、この旅館の最上級の部屋で、最上階だ。

 建物が川に沿って建っていて、下までは目も眩むような高さがある。


「まあ、雨どいとか登るのは久しぶりだよね。あなたくらいの高校生の頃、家から抜け出すのに、雨どいを上り下りしたくらいで」

 先生が、当たり前のように言った。

「先生……」

 もう、こんな無茶はしないで欲しい。



「それじゃ、三人で寝よっか。もちろん、私が真ん中でね」

 ヨハンナ先生がそう言って、ウインクした。


 結局、僕達は三人で、川の字になって寝る。

 真ん中の棒が一番長い、不格好な川の字だ。


 なにも知らない弩が、相変わらず寝息を立てている。

 朝起きて先生が横にいて、びっくりするんだろう。


 僕はといえば、さっきエナジードリンクを飲んだせいで目が冴えて、朝まで全然眠れなかった。

 横に浴衣の胸がはだけたヨハンナ先生はいるし、弩の唇が気になってしょうがないし、悶々とした夜を過ごした。

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