第144話 プロの台所
霧島家が暮らす居住用の建物は、旅館の裏手、竹林の中にある。
お風呂に入るとき、渡り廊下を通ったときにも思ったけど、ここは、廊下も建物も入り組んでいて、立体的な迷路みたいな建物だ。
「古い建物に、増築を繰り返してきたからね。ちゃんと私の後をついてきてよ、迷ったら遭難するよ」
ヨハンナ先生が大げさに言った。
先生の後を、僕と弩、そしてアンネリさんが続いて歩いている。
確かに、先生が言う通り、中二階があったり、地下室に続く階段があったり、注意しないと、本当に迷子になりそうだ。
「子供の頃、かくれんぼしてて、アンネリが見つからなくなって大騒ぎになったこととか、あったよね」
ヨハンナ先生が思い出して後ろのアンネリさんに投げかけた。
「あの時は、私が隠れたのに、鬼のお姉ちゃんが探すのに飽きてテレビ見てて、私のことすっかり忘れてたんじゃない!」
アンネリさんが抗議した。
「あれ、そうだったっけ?」
先生がとぼける。
「あの、先生のお母さんは……」
こうして霧島家の住居スペースにいたら、突然、心の準備もないままに、先生のお母さんに会ってしまいかねないから、僕は訊いた。
「今日みたいな週末の忙しいとき、母はずっと旅館のほうにいるよ。夜も向こうの仮眠室で寝たりするし。まあ、女将だからね。こっちに来ることはないから、安心していいよ」
僕の心の中を見透かして、ヨハンナ先生が言う。
「ほら、ここ、私が高校まで過ごした部屋だよ」
廊下を歩きながら、ヨハンナ先生が障子の引き戸を開けた。
「高校を卒業して、出て行ったときのままになってるの」
先生がそう言って、中に入る。
八畳間くらいの和室には、白で揃えたベッドや、勉強机、ドレッサーが置いてあった。
ドレッサーの上には、写真立てや香水瓶、ブライスの人形などの小物が、いっぱいに置いてある。
カーテンや布団カバーは、マリメッコの花柄で統一してあった。
先生も、高校生のときはこんなに可愛らしい部屋に住んでたんじゃないか(僕達が掃除した、あの、壊滅的なマンションはなんだったんだ)。
CDの棚があって、女子高生の頃のヨハンナ先生がどんな音楽を聴いてたのかと見てみたら、メロコア系のバンドのCDが並んでいた。
先生、メロコア好きの女子高生だったのか。
僕は写真立ての一つを手に取った。
ヨハンナ先生が友達と撮った高校生の頃の写真だ。
ショートボブの先生が、友達と手を繋いで、反対の手で、カーディガンから指を二本だけ出してピースサインをしている。
今はクラスの女子が制服のスカートを巻いて短くしてると注意したりするのに、写真の中の先生も制服を短くして穿いていた。
「可愛いでしょ?」
先生が訊く。
「はい」
同じクラスにこんな女子がいたら、僕は間違いなく恋してたと思う。
「ちょっと待ってて」
ヨハンナ先生はそう言って、僕達を部屋から締め出すと、ぴしゃりと障子を閉めた。
なんか、中で着替えているような、衣擦れの音がする。
部屋着にでも着替えてるんだろうか。
「ジャジャーン」
障子を開けて出てきたヨハンナ先生は、エンブレムが付いた紺のブレザーを着て、赤いチェックのスカートを穿いていた。
「ほら、高校の時の制服。まだちゃんと着られるんだよ」
先生が目の前で一回転して、ふわっとミニスカートが膨らむ。
「まだまだいけるでしょ?」
そう言って、スカートの裾を摘み上げるヨハンナ先生。
「は、はい」
コスプレ臭がハンパない。
シャツの胸のところ、ぱっつぱつでボタンが弾け飛びそうだし、長い生足がセクシー過ぎる。
「先生、高校の制服とってあったんですか?」
「うん、なんかあると思って、とっておいたの」
なんかあるって、なにがあるんだ!
まあ、一応、スマートフォンで写真は押さえておくけど。
家に帰ったら、僕のお宝画像フォルダである「世界の昆虫」フォルダに入れておこう。
ヨハンナ先生が制服に着替えたのを見たら、妹のアンネリさんが「ちょっと待ってて」と言って、隣の部屋に走っていった。
先生の部屋の隣は、アンネリさんの部屋だったみたいだ。
「ど、どうかな……」
そして、アンネリさんも先生と同じ、紺のブレザーの制服を着て出てくる。
「す、素敵です」
元々、ヨハンナ先生より幼い感じのアンネリさんだから、制服を着ても全然違和感が仕事してない。
どこから見ても、女子高生だ。
だけど、アンネリさん、なんで制服着たりするんだ?
ヨハンナ先生に張り合ってるのか。
僕は、小さい頃の花園が、姉の枝折が食べてるものと同じものを食べたがったり、枝折が持ってるおもちゃと同じ物を欲しがったりしたことを思い出した。
姉妹には、そんな心理があるんだろうか。
「あの、そろそろ、キッチンに案内してください」
僕は、ここに家事をしにきたのだ。
社会人と大学生の制服姿を見に来たのではない。
二人の部屋の前を通って、キッチンに案内された。
「従業員とか、仲居さんにご飯出したりするときもあるから、広いんだよ」
業務用の広いシンクと作業台が入ったキッチンには、料理器具が整然と並んでいる。よく磨かれたステンレスが、ピカピカに光っていた。
隣にパントリーがあって、冷蔵庫や、食品の棚がまとめてあるから、余計にすっきりと見えるのかもしれない。
「先生のお父さんが、ここをこんなに綺麗にしてるんですか?」
家事全般を担っているという、ヨハンナ先生のお父さん。
「そうだよ」
「先生は、本当にお父さんの娘ですか?」
僕は意地悪く訊いた。
「あー、酷いな。私だって、本気出せばこれくらい綺麗にするんだから」
先生が言う。
本気出してください。
今日から出してください。
「アンネリさんは、なにか食べたいものありますか?」
僕が訊く。
「ハンバーグと、カレーライス」
アンネリさんが、手を上げて言った。
お子様か!
年上だけど、なんか、アンネリさんには突っ込みたくなる。
「分かりました」
冷蔵庫とパントリーを確認したら、カレーもハンバーグも作れそうだ。
食材は揃っている。
本当は、もっと凝った料理で、日頃の部活の成果とか、僕の料理の腕前を見せたかったんだけど、食べてもらう人に喜んでもらうのが一番だろう。
僕は、妹の枝折という設定の弩にも手伝わせて、カレーとハンバーグの他に、ポテトサラダと、オニオンスープも作った。
ヨハンナ先生のお父さんの使いやすいキッチンだったから、一時間ちょっとで、手際よく調理することができた。
さすがは、プロの主夫のキッチンだ。
僕みたいな、アマチュアの主夫見習いには、とても勉強になる。
「うん、美味しい」
アンネリさんがほくほくの笑顔で言った。
アンネリさんとヨハンナ先生、弩と僕でダイニングテーブルを囲む。
「当たり前だよ。お姉ちゃんの婚約者なんだよ。料理だって、洗濯だって、掃除だって、なんでもできるんだから」
先生、それ、先生が威張るところじゃないです。
「それに、やっぱり、みんなで食べるご飯はいいよね」
アンネリさんが言った。
「そうか、あなた、東京で一人暮らしだもんね」
高校までここで、三姉妹で、がやがやとご飯を食べていたアンネリさんには、今の一人の食卓は、寂しいのかもしれない。
「そうですね、みんなで食べる晩ご飯は、いいです。私も、ずっと一人だったから、こういうの楽しいです」
カレーをスプーンですくって、弩が言った。
僕達が食卓を囲んでいたら、若女将のペトロネラさんが様子を見に来る。
「あら、篠岡君、本当に料理できるのね」
ヨハンナ先生のカレーを一口もらって、ペトロネラさんが言った。
「ところで、あなた達、なんで高校の制服なんか着てるの?」
ペトロネラさんが訝しげな顔で言う。
そうだった。
ヨハンナ先生と、アンネリさんは、制服着たままだった。
「ああ、なるほどね」
ペトロネラさんが頷いて、勝手に納得している。
「いえ、違いますから! 僕の趣味とかじゃないですから!」
僕が二人に制服を着せたなんて、誤解されたらたまらない。
「そういうことなら、私も……」
ペトロネラさんがダイニングを離れて、奥に行こうとする。
「お姉ちゃんはいいから!」
ヨハンナ先生とアンネリさんが、スプーンを持ったまま、同時に立ち上がって止めた。
「あの、もしかしたら、ペトロネラさんも、高校の制服とか、とってあったりするんですか?」
僕は、恐る恐る訊いた。
「ええ、とってあるわよ。なにかあると思って」
ペトロネラさんが当たり前のように言う。
だから、なにかあると思ってって、なにがあるんだ!
大人の世界には、高校生の時の制服が必要になるような、なにがあるっていうんだ。
お子様の僕には、まったく分からない。
「まあ、冗談よ。着物脱いでまた着るの面倒だしね」
ペトロネラさんが言った。
若女将ジョークは、切れ味が鋭すぎる。
「ああそうだ、今夜、篠岡君と枝折ちゃんが寝るところなんだけど……」
ペトロネラさんが、思い出したように振り向いた。
「もちろん兄妹だからさっきの部屋で一緒でいいわよね。今日は部屋がいっぱいで、他は空いてないし」
ペトロネラさんが笑顔で言う。
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