第143話 泣きぼくろ
「
誰かが、僕の肩を揺すっている。
桃のようなフルーティーな香りは、ソフラン、アロマリッチのスカーレットだから、僕を揺り動かす手は、たぶんヨハンナ先生だ。
目を開くと、やっぱり、目の前にヨハンナ先生の顔あった。
隣に弩もいて、二人が僕の顔を上から覗き込んでいる。
「ああ、先生、どうしたんですか?」
僕は布団に寝かされているみたいだった。
仰向けに寝て、ふかふかの羽布団がかけてある。
そして、糊の利いた浴衣を着ていた。
天井とか欄間の飾り彫刻を見て、ここがさっき案内された客室だと分かる。
「塞君、大丈夫? 気分、悪くない?」
ヨハンナ先生が僕に訊いた。
「大丈夫です。僕、どうしたんですか?」
「覚えてないの?」
「いえ、なんか、お風呂で先生そっくりの人を見たような気がして、びっくりして、目の前が真っ暗になって………そう、丁度、こんな顔をした人で……」
先生と弩の他に、もう一人、金色の髪の女性が、僕を覗き込んでいた。
「この子は、妹のアンネリだよ。霧島アンネリ。塞君とお風呂場で出くわして、洗面器投げた子。覚えてない?」
そうだった。
脱衣所でヨハンナ先生みたいな、金色の髪の女性が服を脱いで、お風呂に入ってきた。先生を幼くしたような顔のその女性が、僕を見て悲鳴を上げて、洗面器を投げてきたんだ。
「塞君、鼻血出して湯船にひっくり返ったんだよ。なんとか、お風呂から引き上げて、この部屋まで運んで寝かせたんだけど」
先生が言う。
先生の横にいるアンネリさんというその女性は、金色の髪に青い瞳で、本当に先生にそっくりだった。
でも、先生よりもほっぺたがぷくっとしていて、目尻が下がって優しそうな顔をしている。そして、左目の下に小さな泣きぼくろがあった。
あの時は一糸まとわぬ姿だったけど、今は旅館の市松模様の浴衣を着ている。
髪をバレッタで留めて、真っ白なうなじが見えていた。
「びっくりさせてゴメンね、塞君」
先生が、手を合わて謝った。
「ほら、アンネリも謝りなさい」
先生が隣のアンネリさんの肩を突く。
「なんで私が? 私、彼に裸見られたんだよ」
先生の妹、アンネリさんはそう言って、口を尖らせた。
ぷいっと、横を向いてしまう。
「脱衣所に塞君の服とか、浴衣の着替えとかあったんだから、あなたが注意してれば、先に誰か入ってるって分かったでしょ?」
「それは、そうだけど……」
「まったく、あなたは、そうやっていつもぼーっとしてるんだから」
ヨハンナ先生が言った。
「だってぇ」
先生の妹、三女のアンネリさんは、甘えっ子さんみたいだ。
そういえば先生は三人姉妹で、妹が大学生だと言っていた。
でも、彼女は大学生というより、僕達と一緒に高校に通っていてもおかしくない感じだ。
「もう、来年就職なんだから、しっかりしなさい」
叱っているヨハンナ先生と、叱られているアンネリさん。
二人の様子が微笑ましい。
普段は寄宿舎で僕が先生に、部屋を片付けてくださいとか、服をその辺に脱ぎ散らかさないでくださいとか、叱ってるのに。
「僕は大丈夫ですから。投げた洗面器は当たりませんでしたし。倒れたのはアンネリさんが入ってくるまでずっとお風呂に浸かっててのぼせたからだろうし。それと、湯気とか立ってて、アンネリさんの、その、裸とかは、あんまり見えませんでした」
僕は、少し嘘をついた。
「体も、どこもおかしくありませんし」
僕が布団から起きようとしたら、先生に「もう少し寝てなさい」と押し返された。
「もう少し寝てて、お兄ちゃん」
弩も言った。
そうだ、弩は、僕の妹という設定だった。
「それで、あなたはなんでここにいるの」
ヨハンナ先生が、アンネリさんに訊いた。
「お姉ちゃんの婚約者がうちに来るっていうから、どんな人か見たくて、昨日の夜、東京から帰ってきたの」
アンネリさんが伏し目がちに先生を見て言った。
「それで、昼間ずっと寝てて、今頃やっと起きてお風呂に入ろうとしたのね」
「うん」
「まったく……」
先生は「まったく」とか言うけど、先生だって休日はお昼過ぎまで寝てるじゃないか。
「それで? お姉ちゃんの彼氏、見た感想は、どう?」
ヨハンナ先生、それ、本人の前で訊くか?
「う~ん」
アンネリさんは少し首を傾げて唸った。
アンネリさん、正直な人みたいだ。
少しくらい、お世辞言ってもいいんですけど。
あれ、そういえば僕、今、パンツを穿いている。
それに、浴衣を着てるけど、浴衣もパンツも、自分で身につけた記憶がない。
倒れて気を失っていたはずだし。
「あの、僕は、どうやってここに運ばれたんですか? 僕のパンツは、誰が穿かせてくれたんですか?」
僕は、恐る恐る訊いた。
「塞君、それは、知らないほうがいいと思う」
ヨハンナ先生が目を泳がせて言う。
先生の隣で、弩が顔を真っ赤にしていた。
見られたのか。
僕、みんなに、見られたのか。
「ああ良かった。気がついたのね、篠岡君、大丈夫だった?」
若女将のペトロネラさんが部屋に入ってきた。
僕は「もう大丈夫です」と言って、お礼を言う。
この客室に、ヨハンナ先生の三姉妹が揃った。
本当にそっくりな三姉妹だ。
でも、落ち着いた佇まいのペトロネラさんと、凛々しい感じのヨハンナ先生(教師モードのときだけ)、おっとりした雰囲気のアンネリさんと、三人、それぞれ個性的だ。
「篠岡君、ごめんなさいね、父がまだ見つからないのよ」
僕の前に膝をついて座って、ペトロネラさんが言った。
「おそくなっちゃったし、今晩、泊まってもらわないといけないんだけど、大丈夫?」
ペトロネラさんが、すまなそうに訊く。
「僕は、大丈夫ですけど」
「妹さんも、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
弩が答えた。
「それじゃあ、悪いけど泊まっていってね。この部屋は、自由に使っていいわ」
ペトロネラさんが言った。
こんな贅沢な部屋に泊まれるのか。
本当ならこの部屋一泊、いくらするんだろう。
却って悪い気がする。
僕は、先生の本当の婚約者じゃないんだし。
「お父さんがいないなら、私達のご飯とか、どうするの?」
アンネリさんが、ペトロネラさんに訊いた。
「コンビニのお弁当か何かで我慢しなさい。お姉ちゃんは忙しいから、用意してあげられないわよ。土日で厨房も忙しいから、うろついたりしないでね」
ペトロネラさんが言った。
「えー。じゃあ、洗濯とかは、どうするの?」
「自分でしなさい。あなたも、いい大人なんだから」
ペトロネラさんが言って、アンネリさんが頬を膨らませる。
「うちはね、母が旅館の仕事で忙しかったから、家事は父が全部やってるの。私も家を出るまで、ずっと父にご飯作ってもらったり、洗濯してもらったり、掃除してもらったりしてたんだよ」
ヨハンナ先生が教えてくれた。
そうだったのか。
えっ、でも、それじゃあ、先生のお父さんは、主夫じゃないか。
先生は、主夫のお父さんの元で、育ったんじゃないか。
ヨハンナ先生のお父さんは、僕達主夫部の男子の、大先輩だったのだ。
「僕、やりますけど」
僕は思わず、それを買って出た。
「えっ?」
ペトロネラさんとアンネリさんが、同時に僕を向く。
「僕、ご飯作りますし、洗濯もします」
「ええ、でも……」
ペトロネラさんが、不審な顔で僕を見た。
何を言うんだ、って思ったかもしれない。
「僕は、毎日家事をしてるので大丈夫です。妹達のために料理もしてますが、彼女達は美味しいと言ってくれてます」
花園と枝折は、僕に対してお世辞を言うような妹じゃないから、本当のことだと思う。
「ええ、でもね。あなたはお客様だし、それに、洗濯なんてちょっと……ねえ」
ペトロネラさんが困った顔をする。
「安心してください、パンツとかブラジャーとかもちゃんと洗濯します。僕は、妹とかヨハンナ先生とか、寄宿生の女子のパンツとかブラジャーとかを毎日洗濯しているので、それで性的に興奮するとかありません」
ペトロネラさんやアンネリさんが不安そうだから、言っておいた。
「ああ、そう……」
僕は良かれと思って言ったのに、ヨハンナ先生と弩が、なぜか横で渋い顔をしている。
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