第142話 掛け流し
「それで、どうして弩がここにいるんだ?」
僕が訊いた。
両親との対面まで休んでいてくださいと、先生の姉、ペトロネラさんに案内された客室には、僕と弩、ヨハンナ先生の三人がいる。
座卓を囲んで、僕とヨハンナ先生が並んで座って、弩が僕の対面に正座していた。
「先輩のことが心配だったので……来てしまいました」
弩が首を引っ込めて、すまなそうに上目遣いで言う。
「心配って……大丈夫だよ。確かに僕は演技とか上手くないけど、ばれないように先生の婚約者を演じるから」
僕は言った。
「いえ、その心配をしてるんじゃなくて……」
上目遣いのまま、弩が言う。
「じゃあ、何が心配なんだ?」
「それは……」
弩が言葉を濁した。
純和風の客室は川に面していて、大きな窓いっぱいに、赤や黄色の紅葉が見える。
角の部屋で二面に窓があって、川に面したほうから川のせせらぎが聞こえた。
床の間には香炉や生け花が飾ってあって、この部屋を気に入っていたという、文人画家による掛け軸が掛かっている。
部屋の全ての欄間には、繊細な千羽鶴の彫刻が施されていて、飴色に輝いていた。
先生の婚約者(偽の)の僕に対して、若女将である先生のお姉さんは、一番いい部屋を案内してくれたみたいだ。
「どうやって、ここまで来たの?」
今度はヨハンナ先生が訊いた。
弩は、たぶん一人では電車にも乗れないはずだ。
それに、寄宿舎からだと乗り換えやなんかで時間がかかるから、電車で来るより自動車のほうが早い。
タクシーにでも乗って、飛ばして来たんだろうか。
「あの、先生の車に隠れてました。トランクの部分に、入ってました。ブランケットの下に隠れて」
弩が言う。
「まあ、呆れた」
先生が言って、耐えきれずに笑い出した。
ヨハンナ先生の車、初代フィアット・パンダは3ドアハッチバックで、後席とトランク部分は繋がっている。
でも、あんなに狭いところに入ってたなんて。
それも、僕達に見つからないよう、じっと息を殺して。
弩の部屋に何度声をかけても返事がなかったのは、そういうことだったのか。
僕や萌花ちゃんが声をかけている時には、弩はすでに先生の車に忍び込んでいたんだろう。
「いくら弩さんだって、あんなところ、狭かったでしょ?」
「はい、縮こまって、丸くなってました」
弩を問い詰めようとした気も、失せてしまった。
それより僕のことを心配して、車の狭いスペースに隠れてついてきた弩が、健気に思えてしょうがなかった。
「こうなったらもう、ここでは妹の枝折として通すしかないな」
僕は言う。
「そうね、それでなんとか、通しましょう」
ヨハンナ先生も言った。
「よし、弩、練習だ。僕のことを、お兄ちゃんって呼んでみろ」
僕が言うと、弩が「ふええ」と零す。
「お、お兄ちゃん」
しばらくして、弩が、怖々言った。
「駄目だ。照れが入っている。もっと普通に、『お兄ちゃん』って呼ぶんだ」
「お兄ちゃん」
弩が顔を真っ赤にして言う。
「もう一度」
「お兄ちゃん」
「もう一度、今度は何かねだる感じで」
「お兄ちゃーん」
「もう一度、今度は蔑む感じで」
「お兄ちゃん!」
「もう一度、今度は、兄に恋する妹の感じで」
「お・に・い・ちゃ・ん」
「まあ、いいだろう」
まだ照れがあったけど、この辺で勘弁しておいた。
弩に「お兄ちゃん」って呼ばれて見詰められたら、なんか、無性に抱きしめたくなったし。
「ずっとトランクの中で疲れたでしょ、足を崩しなさい」
正座している弩に、先生が言った。
弩が「はい」と答えて足を投げ出す。
「おい、弩、膝、どうしたんだ?」
よく見ると、弩の膝小僧が、赤くなっていた。
「これは、ちょっと……」
多分、先生の車に無理な体勢で隠れていたから、膝を車の内装に押しつけていたんだろう。
そのままの格好で一時間半くらい、じっとしていたから、跡がついたのだ。
内出血したみたいになっている。
「もう、大切な弩の足に変な跡が残ったらどうするんだよ」
僕はそう言って、弩の膝小僧をさすった。
「先輩、くすぐったいです」
弩が暴れる。
「ほら、じっとして」
「私は、大丈夫ですから」
弩に言われても、僕は膝をさするのを止めない。
「これからはもう、こんな無理はするなよ。危ないし」
「はい、分かりました。分かりましたから、膝小僧をなでなでするのはもう、止めてください。くすぐったいです」
弩が手をバタバタさせながら言った。
もう絶対にこんなことしないように、僕は罰としてなでなでを続ける。
「もう、くすぐったいですから!」
「ちょっと、いいかしら」
僕が弩の膝小僧を執拗になでなでしていたら、先生のお姉さん、ペトロネラさんがいつの間にか部屋に入ってきていて、僕が弩の膝小僧をなでなでしているところを見られた。
ふざけていたから、ノックして声をかけられたのに気付かなかったみたいだ。
「まあ、本当にご兄妹仲がいいのね」
僕達を見て、ペトロネラさんが言った。
よかった、勘違いしてくれた。
「ごめんなさいね、父がちょっと用事で出て行ったきり、まだ戻らないの。悪いけど、温泉にでも入って、待っていてくれる?」
ペトロネラさんが表情を曇らせて言った。
「なに? お父さんどうしたの?」
ヨハンナ先生が訊く。
「それが、ほら、私の時もそうだったみたいに……」
ペトロネラさんによると、娘の婚約相手を紹介されると聞いたお父さんが、どうでもいい用事にかこつけて出かけてしまったらしい。電源を切っているのか、スマートフォンにも繋がらないのだという。
長女のペトロネラさんの時も、婚約者と聞いて、逃げてしまったのだとか。
「そのときは夜まで戻らなかったのよ」
ペトロネラさんが言う。
娘の彼氏を紹介される父親とは、そんなものなのだろうか。
「僕は、全然構いません。待ちます」
むしろ、このまま顔を合わさずに済むほうがいいような……
「お客様用の浴場とは別の家族用のお風呂があるから、そこに入るといいわ。家族以外誰も来なくて、ゆっくりできるから。ヨハンナ、案内してあげて」
ペトロネラさんが言って、先生が頷く。
「それじゃあ、ゆっくりしていてね」
ペトロネラさんはそう言って部屋を出て行った。
家族用のお風呂って、このまま本当に家族になってしまいそうでちょっと恐い。
「それじゃあ、お風呂行こうか。弩さんも、私と一緒に塞君の後で入ろう。私は別に、あなたと一緒に入ってもいいんだけど、どうする?」
先生が訊く。
「いえ、一人で入ります」
先生にからかわれて、顔を真っ赤にして下を向いてしまう自分が情けなかった。
こんな時、軽口を叩いて、先生の冗談を受け流すことができればいいのに。
僕はヨハンナ先生に案内されて、客室のある三階建ての棟から、渡り廊下を通って、家族の住居や従業員の休憩室がある棟に移った。
ヨハンナ先生が知り合いの仲居さんとすれ違う度に、挨拶したり、手を取り合ったりした。
仲居さん達は、先生の後ろに付いている僕をチラチラと見ていく。
僕が先生の婚約者だという噂は、仲居さんにも伝わっているみたいだ。
品定めされているみたいで、なんか緊張する。
「じゃあ、いいお湯だから、ゆっくり浸かってね」
先生が言って、脱衣所の引き戸を閉めた。
家族用のお風呂といいながら、大人四、五人が入れそうな檜の広い湯船で、庭の植栽に向けて開いた奥に、石造りの露天風呂も付いている。
源泉掛け流しみたいで、湯船から温泉が絶え間なく溢れ出ていた。
洗い場も広くて、左右にシャワーと鏡が付いている。
小さな旅館なら、ここがメインのお風呂場になりそうなくらいの、広さと設備だ。
僕は体を洗ってから、ゆっくりと湯船に浸かった。
肩まで浸かって、坪庭を眺める。
少しぬるかったけど、お湯は柔らかくて、いつまでも入っていられそうだった。
檜のいい香りがして、お湯が溢れる音以外、余計な音が何もきこえない。
ヨハンナ先生はここで子供の頃から、毎日こんな贅沢な温泉に浸かっていたんだろうか。
僕くらいの高校生の時、笑ったり悩んだりしながら、女子高生のヨハンナ先生は、この湯船の中で、汗や涙を流したんだろうか。
それだから、先生みたいな、あんな大らかな人が育ったのかもしれない。
生意気だけど、先生の実家の湯船で、僕はそんなことを考えた。
このままずっと入っていたかったけど、これ以上入っていたらのぼせそうだから、出ることにして立ち上がったら、脱衣場の引き戸が開く音がした。
誰かが脱衣所に入ってくる。
風呂場の曇りガラスから見ていると、金色の髪の女性のシルエットだ。
ヨハンナ先生……
さっき一緒にお風呂に入る? とか訊いてたけど、先生、ついに強硬手段に出てきたのか。
シルエットの女性が服を脱いで裸になるのが、磨りガラスと温泉の湯気越しに見えた。
先生に「塞君、背中を流してあげましょうか?」そんなこと言われたら、どうしよう。
「いつも髪を洗ってもらってるけど、今日は私が洗ってあげるね」なんて言われたら、どうしよう。
のぼせそうだし、鼻血でも出して倒れるかもしれない。
風呂場のガラス戸が開いた。
風呂場に入ってくる。
金色の髪、青い瞳。
あれ。
でも、ヨハンナ先生じゃない。
先生そっくりだけど、先生より幼い顔で、目が垂れ気味の優しい目をしている。
背は先生より小さい。
僕とその金色の髪の彼女は、風呂の中と、ドアのすぐのところで、目が合った。
「キャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
彼女の高い声が、風呂場に響く。
そのあとで、洗い場にあった洗面器が飛んできた。
視界が真っ黒になって、残念ながら、そのあとの記憶がまったくない。
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