第141話 歴史
スウェーデン大使館の職員として来日した青年、インゲマル・アレニウスは、ある休暇の日、住居のある東京から足を伸ばして湯河原を訪れ、霧島屋という一軒の旅館に泊まった。
創業明治十九年、多くの
青年は、そこで温泉に浸かっては、部屋で本を読み、散歩をして、仕事から離れた静かな時間を過ごし、英気を養って、また都会に帰っていった。
当時、霧島屋には、東京の女子大を卒業して、家に戻ったばかりの節子という一人娘がいて、母親である女将の下で旅館の仕事の修行をしていた。
英文科だった彼女が、インゲマルの通訳を買って出ることも多く、二人は互いの国の言語ではない、英語を使って、意思の疎通を図った。
そんな青年インゲマルが、旅館の娘、節子と恋に落ちるのに時間はかからなかった。
ひっそりと、隠れるように愛を育んだ二人は、やがて結婚を誓い合うようになる。
しかし、周囲は当然のように反対した。
今のように、結婚が個人の自由になるような時代ではなかったし、外国人との結婚など、想像出来ない時代だった。
さらには、当時、節子には親が決めた許嫁のような存在があって、当然、それと結ばれるべきと、周囲は考えていたのだ。
それでも二人は、結婚の誓いを諦めなかった。
むしろ、周囲の反対が、二人の愛を強くした。
二人の決意が固いと見た節子の両親は、結婚を許す代わりに、青年インゲマルに、仕事を辞してこの家に婿に入り、若旦那として旅館を守り立てていくことを要求した。
無論、そんなことは出来ぬだろうと、高を括っていて、無理難題をふっかけたのだ。
しかし彼は、いとも簡単に外交官のキャリアをなげうって、婿養子に入ることを決意した。
嘱望された外交官への道を捨てて、節子を選んだ。
それには節子の両親も、舌を巻くしかなかった。
その結果、霧島屋は異国の青年、インゲマルを婿として迎えることになる。
青年インゲマルは異国の地で、旅館の若旦那としての生活を始めた。
当初、言葉さえおぼつかなかった彼は、この地にとけ込もうと必死に努力した。
旅館の手伝いの後で、夜遅くまで節子から日本語を習った。
旅館の若旦那衆の集いには必ず参加したし、地域の祭や神事にも、欠かさず顔を出した。
霧島屋の門の前には、早朝から竹箒を持って道を掃除するインゲマルの姿が、雨の日も、風の日も、毎日見られた。
彼の実直な人柄と勤勉さに、周囲も徐々に彼を受け入れていった。
そして彼は、霧島屋にも、この湯河原の旅館街にも、欠かせない存在となる。
やがてインゲマルと節子との間に産まれたのが、娘の霧島イヴォンネだ。
父から金色の髪と青い瞳、母から端正な顔立ちを受け継いだイヴォンネは、成長して、老舗旅館の金色の髪の若女将として、霧島屋の顔になる。
母と父のような大恋愛ではなかったけれど、イヴォンネは地元の高校の幼なじみと結婚して、三人の娘を儲けた。
「その三人娘の真ん中が私で、今この霧島屋の若女将をしてるのが、長女のペトロネラよ」
ヨハンナ先生が言った。
ヨハンナ先生から、車の中で聞いた霧島家の歴史は、大体こんな感じだ。
僕は霧島屋旅館の玄関に立って、建物を仰ぎ見た。
歴史を感じさせる、三階建ての数寄屋造りの建物。
格子戸の両脇に、屋号を書いた提灯が下がっている。
格子戸の奥には、よく磨かれて鏡のように輝く檜の床材が、奥に向けてどこまでも続いていた。
ヨハンナ先生と僕を玄関に認めた仲居さんが、頭を下げる。
「あら、ヨハンナちゃん、おかえりなさい!」
抹茶色の着物のベテランの仲居さんが、ヨハンナ先生に気付いて声をかけた。
「お志乃さん、ただいま」
先生がそう言って、その仲居さんとハグをする。
随分親しい仲居さんらしい。
「若女将を呼んできますね」
一頻り抱き合ったあとで、先生に志乃さんと呼ばれた仲居さんが奥に消えた。
しばらく待っていると、奥から、一人の女性がしずしずと歩いてくる。
金色のまとめ髪、朱砂色の着物に茶の帯。
青い瞳にキリッとした目元で、一目でヨハンナ先生のお姉さんだと分かった。
先生を、少し落ち着かせた感じ。
背丈は先生と同じくらいか、少し先生のほうが高いかもしれない。
でも、この老舗旅館を仕切る貫禄というのか、お姉さんのほうが、大きく見えた。
所作もゆったりしていて、美しい。
年齢は、先生より、二つか、三つ上にしか見えないけど。
「いらっしゃい」
その人が、僕に向けて言った。
声をかけられただけで、僕は自分の顔が耳まで真っ赤になったのが分かった。
「彼が、私の婚約者の篠岡塞君」
先生が、僕を紹介してくれる。
嘘だと分かっていても、先生に婚約者と紹介されると、身が引き締まる思いがした。
「姉のペトロネラです。ヨハンナがいつも、お世話になっております」
先生のお姉さんが、丁寧に頭を下げる。
「こっ、ここちらこそ。先生にはお世話になりっぱなしで……」
僕は噛んで上手く言えなかった。
「へえ、あなたがヨハンナの、ねえ」
お姉さんが、僕を笑顔で見る。
客商売のプロだから、その笑顔から何かを読み取ることはできない。
気に入られたのか、訝しがって見られたのかは、分からなかった。
「それで、そちらの小さなお嬢さんは、どなた?」
先生の姉、ペトロネラさんが訊いた。
小さなお嬢さん?
ペトロネラさんの視線は、僕とヨハンナ先生の後ろの辺りに注がれていた。
僕とヨハンナ先生は、振り返ってその視線の先を見る。
僕達の後ろに立っていたのは、弩だった。
白いブラウスに紺のチェックのスカート、臙脂のベレー帽を被った弩が、しれっと立っている。
「妹の、枝折です。篠岡枝折といいます」
弩が言った。
ペトロネラさんの視線を受けて、少し下を向いて、はにかんだようにしている。
「兄のことが心配で、付いてきました」
弩が続けた。
僕はいつから弩の兄になったんだ。
「そ、そ、そうなの。妹さんが付いてきたいって言ったから、連れてきたの」
咄嗟にヨハンナ先生が取り繕った。
「突然すみません。妹の枝折です」
僕も、どうにか話を合わせる。
「そう、仲のいい、ご兄妹なのね」
先生の姉のペトロネラさんが言った。
「はい、兄妹とても仲がよくて」
僕はそう言って、弩の肩に手を置く。
「はははは」
「うふふふ」
僕と弩は、顔を合わせて笑い合った。
顔を合わせながら僕は弩に、どうやってここまで来たんだ、どうして来た、と電波を送る。
もちろん、通じなかったけど。
「それじゃあ、とりあえず一部屋用意してあるから、そこで休んでくださいな」
ペトロネラさんが言った。
「すみません。お世話になります」
その部屋で弩を問い詰めよう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます