第140話 助手席
「おーい、弩。開けてくれ」
僕は弩の部屋のドアをノックする。
けれど、ドアの向こうからは、なんの反応もない。
「おーい、弩、出てこいって。制服もパンツも、真っ白に洗い上がってるぞ」
洗い上がった洗濯物を届けにきた。
これから、ヨハンナ先生の婚約者(偽の)として、先生の実家に行くから、その前に洗濯を済ませて、洗い上がった分を持ってきたのだ。
他の寄宿生の部屋には届け終わったのに、弩の部屋には鍵がかけられていて、入れない。
「先輩、どうしたんですか?」
何度もドアをノックしていたら、廊下の向こうから来た萌花ちゃんに声を掛けられた。
「弩が、部屋に籠もって鍵かけてるんだよ。何度声を掛けても、返事をしてくれない」
僕が言うと、萌花ちゃんが「ちょっといいですか」と断って、弩の部屋のドアをノックする。
「弩さん、私だよ、萌花だよ。開けて」
萌花ちゃんが代わって声を掛けた。
ところが、弩は仲良しの萌花ちゃんの呼びかけにも、応えない。
「弩さん」
「弩!」
二人で何度声を掛けても、反応がなかった。
「それより先輩、時間いいんですか? もう、出発でしょ? もう、ヨハンナ先生も準備できてるみたいでしたけど」
萌花ちゃんが言う。
「ああ、そうなんだけど……」
玄関の壁掛け時計で見て、出発の11時が迫っているのは、分かっていた。
「洗濯物は私が後で渡しておきますから、先輩は行ってください」
「それじゃあ、お願いしようかな」
「はい、そうしてください」
僕は、洗濯物を萌花ちゃんに渡す。
「弩、それじゃあ、行ってくるから」
僕はドアの向こうに呼びかけた。
もちろん、反応はない。
「それにしても、弩はなんで、臍を曲げてるんだろうな」
僕が零すと、萌花ちゃんは僕をまじまじと見て、呆れたような顔をする。
「先輩………分からないんですか?」
「うん、全然」
「本当に、分からないんですか?」
「ああ、まったく」
「失礼な言い方しますけど、先輩は鈍すぎです。すごく鈍感です」
萌花ちゃんが、そんなことを言う。
わけがわからない。
食堂では、すでに準備を整えたヨハンナ先生が待っていた。
「塞君、悪いね。それじゃあ、そろそろ出ようか」
先生が言う。
先生は、白いボトルネックのニットに、黒いパンツ、グレンチェックのコートという、さっぱりとした服装をしていた。
一方、その婚約者役の僕は、制服のブレザーだ。
高校入学の時に買ってもらった一張羅のスーツで行くことも考えたけど、背伸びして大人っぽい格好をするより、着慣れた制服のほうがいいだろうというのが、寄宿生と主夫部で話し合った結果だった。
「先輩、これ、先生のご実家への手みやげです。黒門堂の羊羹。見繕っておきました」
御厨が言って、僕に紙袋を渡した。
「ありがとう」
ご両親に挨拶に行くなら手みやげが必要だろうと、御厨が用意してくれたのだ。
御厨の見立てなら、間違いないだろう。
「いいこと、ヨハンナ先生のためにも、そしてこの寄宿舎のためにも、ばれないように上手な演技をするのよ。あなたは、担任教師のヨハンナ先生との禁断の恋に落ちた生徒。先生とはラブラブよ。分かったわね」
鬼胡桃会長が言った。
鬼胡桃会長に言われたら、急に緊張してくる。
「禁断の恋」とか、ワードが重すぎるし。
上手な演技なんて、できそうにない。
「主夫部のためにも頼むぞ、篠岡」
母木先輩も言う。
当然、二人は手を繋いでいた。
「それじゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
みんなが寄宿舎の玄関で見送ってくれた。
その中に、弩の姿はない。
まだ、部屋に籠もってるんだろうか。
僕は一応、弩の部屋のほうに向けて手を振っておく。
窓が少し開いていたから、隙間から見ているのかもしれない。
僕達は林の獣道を抜けて、学校の駐車場に停めてあるヨハンナ先生のフィアットに乗り込んだ。
ヨハンナ先生の実家は、神奈川県の湯河原にあるという。
そこまでヨハンナ先生と一時間半くらい、二人でドライブだ。
天気もいいし、目的がこんなことでなければ、先生の隣で、最高のドライブなんだけど。
「先生の実家って、どんなところですか?」
走り出したフィアットの助手席で、僕は訊いた。
「そうだね。古くからある家だから、建物だけは立派だよ」
先生が言う。
「先生のお母さんとお父さんって……」
「心配しなくていいよ。二人とも優しい人だから。いきなり怒鳴ったりはしないし。本当にゴメンね、こんなこと頼んじゃって。顔見せるだけでいいから。それでもう、うるさいことは言わないと思うし」
先生は、昨日から何度も同じことを言っている。
「いえ、別に……僕は大丈夫です」
ちょっと緊張するけど、先生のご両親とか見てみたいし、先生がどんな家で育ったのか、とかにも興味がある。
「先生には兄妹は、いるんですか?」
これから挨拶に行くというのに、先生の家族構成さえ知らなかった。
「うん、姉と妹がいるよ。姉は結婚してて、妹はまだ大学生」
ヨハンナ先生が言った。
先生、三姉妹の真ん中だったのか。
お姉さんと、妹さんも、先生みたいに金色の髪で、青い目をしてるんだろうか。
先生に似ているお姉さんと妹さんなら、近所でも評判の三姉妹だったんだろう。
先生みたいに部屋を汚す天才が三人いたら、カオスだけど。
「先生は、どうして教師になったんですか?」
「なに? 急に」
「いえ、だって、先生と恋人同士って設定だし、先生のこと、知っておいたほうがいいし」
僕は言った。
そんな言い訳をしたけど、本当は、ただ先生のことが知りたくて、この機会にどさくさに紛れて訊いてしまっただけだ。
車内なら、逃げ場がないし。
「そうだね。まあ、ありがちな話なんだけど……」
先生はそう前置きをした。
「私、こんな外見してるでしょ? 小学生の頃、それでからかわれたんだよね。クラスの男の子に虐められたんだよ」
先生が言って、表情を曇らせる。
それは、先生が可愛かったからだと思う。
気になる女の子に、ちょっかい出しちゃうあれだ。
「そんな時、助けてくれたのが担任の女の先生でさ。当時の私には、ヒーローに見えたの。ああ、女性だからヒロインか。とにかく、それで私も、仕事を持ったカッコイイ女性になろうと思ってね。その先生みたいになろうと、教職を志したの」
「安い話だよ」
先生が照れ隠しに言う。
「いえ、素敵です。お話、聞けて良かったです」
正直な気持ちだった。
「まだまだ、あの先生の足下にも及ばない教師だけどね」
先生が自嘲する。
「そんなことありません。先生がいなかったら、主夫部は成り立ちませんでした。他の先生に目を付けられるのも厭わないで、僕達生徒の味方をしてくれましたし。先生は僕達のヒロインです」
「生徒に婚約者のふりして両親に会ってなんて言う、どうしようもない教師だけどね」
先生はそう言って肩を竦めた。
信号待ちで車が止まる。
前の車や後ろの車には、休日を楽しむカップルや家族連れが乗っていた。
周りから、僕達はどういうふうに見えるんだろう。
少なくとも、婚約者同士には見えないし、恋人同士にも見えないだろう。
教師と生徒の関係にも見えないはずだ。
いつか僕も、本物の恋人とこうして一緒に車に乗るんだろう。
今みたいに助手席から彼女を見守るのかもしれない。
北海道のドライブの時も思ったけど、車を運転する女性を助手席から見ているのは、心地いい。
妙に落ち着く。
周囲に鋭く目を走らせて、スピードが出る大きな車を自由自在に操っている横顔が、凛然としていて見惚れる。
行き先を任せて、付いてこい、って言われているみたいだし。
体の全部を委ねているような気がするし。
それが大好きな人だったら、尚のことだ。
こんなことを考えるのは僕だけだろうか。
主夫を目指す僕だから、そんなことを考えるのか。
先生が少し強めのブレーキを踏んで、無防備な僕の首が前に持って行かれる。
無理な割り込みを掛けてきたドライバーがいたみたいだ。
「僕、寝てました?」
気が付くと、周りの景色がさっきまでと変わっていた。
「うん、寝てた。スースー寝息を立てて」
先生が言う。
「運転してる隣で、すみません」
「ううん、いいの。私の運転に全幅の信頼を置いてくれてるっていうのが分かって、悪い気はしないし。それに、塞君のカワイイ寝顔も見られるしね」
先生が僕をからかった。
「寝言で、『先生大好きです』とか、言ってたし」
それはたぶん、言ってないと思う。
一瞬だと思ったのに、寝ている間に、車は随分走っていた。
さっきまで、ファミレスや中古車販売店が並ぶ国道を走ってたと思ったら、車は川沿いの細い道を走っている。
浴衣を着た観光客らしき人達とすれ違った。
湯河原の、温泉街に入ったみたいだ。
「はい、着いたよ」
先生が言う。
目の前にあるのは立派な石垣に囲まれた、三階建ての数寄屋造りの建物だった。
よく手入れされた広い庭に囲まれていて、紅葉が綺麗だ。
「えっ? ここって……」
どう見ても、旅館の玄関だった。
先生は、その車寄せに、フィアットを停める。
「ここで、ご両親と会うんですか?」
僕は先生に訊いた。
実家に直接行くと思ってたのに、先生の両親はこの旅館に部屋を取って、ここで対面、となるんだろうか。
それとも、先生は休憩のつもりで寄っただけか。
せっかく湯河原まで来たんだし、僕を温泉に入れてくれるつもりなのか。
でも、先生と二人で温泉旅館に寄るなんて、それはちょっとまずいっていうか……
僕はまだ、お婿に行く前の男子だし。
「ここが実家だよ。私の家、温泉旅館やってるの。あれ、言ってなかったっけ?」
ヨハンナ先生が言った。
言ってない。
僕は絶対にそんなこと、聞いてない。
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