第137話 パエリアとスペインワイン
ヨハンナ先生と、見合い相手の男性が、ホテルのロビーで挨拶を交わしている。
「あら、イケメンじゃない。背も高いし」
鬼胡桃会長が言った。
男性は、身長185㎝くらいで、痩せ形のスリムな体型をしている。
チャコールグレーのスーツと白いシャツに、ピンクのネクタイを合わせていた。
鬼胡桃会長が「イケメン」と言う通り、彫りの深い顔で、眉毛がキリッとした精悍な顔をしていた。
週末にゴルフかテニスをして焼いたような肌の色で、笑顔になると、遠目からでも分かるくらい、真っ白い歯が口元から覗く。
ヨハンナ先生の叔母さんによると、三十六歳ということだけど、もう少し若く見えた。
ロビーで挨拶を交わす二人を、僕達は斜向かいのホテルのラウンジから見ている。
ヨハンナ先生を一目見て、一瞬で相手の男性のハートが射貫かれたのが分かった。
先生を見た瞬間、男性の目がぱっと見開かれる。
文字通り、目の色が変わった。
一通り挨拶の言葉を交わして、二人はロビーからラウンジに移動する。
ヨハンナ先生と相手の男性は、斜向かいのホテルのラウンジの、窓際の席に座った。
リサーチ通り、こっちのラウンジから先生達がよく見える。
先生が、紺のワンピースの上に掛けていた白いカーディガンを脱いだ。
二人は、向かい合って座って、コーヒーを頼む。
相手の男性が砂糖を入れますか? と訊いて、ヨハンナ先生が断った。
声は聞こえないけど、そんな会話がされたんだと思う(先生はコーヒーはブラックだし、日本酒は辛口だ。そんなことも分からないのかと、心の中で突っかかってみる)。
「時計は、ロレックスのデイトナですね」
御厨が言った。
御厨はオペラグラスで、二人を覗いている。
「スーツはテーラーで仕立てたフルオーダーでしょうね。体にぴったりと合ってますし、細かいところのデザインが凝ってるし、生地もこだわって、1970年代のビンテージを使ってるみたいです」
スマートフォンのカメラを最大にズームアップした画面を見て、錦織が言った。
「イケメンだし、背も高いし、お金持ってそうだし。お見合い相手としては、最高じゃないの」
鬼胡桃会長が言った。
相手の男性は、僕が持っていないものを、全部持っている。
「まあ、みー君には、敵わないけどね」
母木先輩を見詰めながら、会長が続ける。
「トーコったら、よせよ」
母木先輩が照れる。
「だってぇ、本当のことだもの」
二人共、それは、どこか余所でやってください。
「先生もいい笑顔で、楽しそうですね」
弩が言った。
僕は御厨からオペラグラスを借りて、ヨハンナ先生の顔を見る。
先生は、普段寄宿舎にいるときのような、リラックスした笑顔をしていた。
相手の目を見て、頷いたり、笑ったり、少し照れたり。
教室で教鞭を執っているときのカッコイイ先生ではなく、くつろいだ笑顔のヨハンナ先生だった。
そんな先生が見られるのは、僕達、主夫部や寄宿生だけだと思っていたのに……
ヨハンナ先生が、他の男性に対して笑顔を見せているのを眺めていると、なんかモヤモヤした。落ち着かない。
なんだこのNTRな感じ(まあ、先生は僕の妻でも、彼女でもないんだけど)。
「先輩、痛いです」
弩が言う。
いつの間にか、隣に座っていた弩の腕を握っていた。
跡がつくくらい、握っている。
「あ、ゴメン弩」
僕はすぐに手を放した。
二人は、ラウンジで小一時間話をして、席を立つ。
ホテルを出て、そのまま分かれるのかと思ったら、相手の男性が車を回して来て、先生がその車に乗った。
男性の車は、白いボディに真っ赤な本革の内装の、BMWのM5だ。
先生はドアを開けてもらって、エスコートされて助手席に座る。
男性の所作は慣れていて、わざとらしさがなく、自然だった。
先生は自分の車をホテルの駐車場に置いたまま、男性の車でどこかに連れて行かれた。
僕は別のホテルのラウンジから、それを見ているしかない。
「いい雰囲気だったな」
縦走先輩が言った。
「二人で、夕御飯でも食べに行くつもりかもね」
古品さんが言う。
御飯か、御飯だけなら、いい。
御飯だけなら。
叔母さんの紹介だし、先生も無下に断れないんだろう。
「やっぱり、大人の男性って感じでしたね」
新巻さんが言った。
「余裕があって、スマートですよね」
萌花ちゃんが言う。
相手の男性のことは、女子達には好評らしい。
「絶対、女たらしだよ」
錦織が言った。
「浮気するタイプですよね」
御厨が言う。
「絶対、家事とかしないよな」
母木先輩が言った。
男子には、極めて不評だ。
先生が寄宿舎に帰ってきたのは、夜八時過ぎだった。
「おかえりなさい」
僕達は玄関で先生を出迎えた。
主夫部男子部員も、先生が帰って来るまではと、当然、全員残っている。
「ただいま。あーあ、疲れた疲れた」
着ていた服を脱ぎ散らかして、さっそくスリップ一枚になる、ヨハンナ先生。
そのまま食堂に行こうとするから、先生の部屋でスエットを着せた。
冷えてきてるし、風邪をひかせるといけないし。
「お食事は、済んでるんですよね」
御厨が先生に訊いた。
「うん、ごちそうになってきた。小洒落たお店で、パエリアとか食べてきたよ。スペインワインとかも勧められたけど、車で帰るから断った」
先生が言う。
「それじゃあ、晩酌の支度してあります」
「おお、ありがとう」
僕達は、先生に付いて食堂に集まった。
「やっぱり、この一杯のために生きてるよね」
ビールのグラスを空ける先生を、寄宿生と主夫部が全員で取り囲んでいる。
「それで、どうだったんですか?」
僕が訊いた。
「どうって?」
先生がとぼけて聞き返す。
「お見合いの相手です。どうだったんですか?」
僕が訊くと、先生は手酌でもう一杯、ビールを注いだ。
「そうだねぇ、イケメンだったし、お金持ちだし、紳士的で優しいし。知識も豊富で、話をしてて、面白いし。おしゃれなお店とか知ってるし。遊び慣れてるみたいだし……」
先生はグラスを傾ける。
「まあ、完璧だよね」
そう言って、一気にグラスの中のビールを飲み干す、ヨハンナ先生。
「向こうもこっちを気に入ってくれたみたいで、さっき帰る途中で、叔母さんが電話掛けてきた。先方がまた会ってくださいって言ってきたって。結婚を前提に、お付き合いしたいってさ」
先生は上唇の上に乗ったビールの泡を拭きながら言う。
「それじゃあ……」
先生、あの人と付き合っていくつもりなのか。
このままお見合いを進めるのか。
「だけど、お断りすることにした」
先生が言った。
「ええっ?」
そこにいた全員が、声を揃える。
「だって、確かにいい人だったけど、結婚するなら、今の仕事は辞めてほしい、って言うんだもの」
先生が言った。
先生が手酌で次を注ごうとするから、僕が注いだ。
「私は今のところ、教師を辞めるつもりはないし、これから先も、たぶん辞めない。結婚したとしても続けるつもりだし。学校から処分されて、辞めさせられるまでは教師でいるよ」
先生が言う。
「そ、そうですよね」
なんか、安心した。
なんだろう、この安心した感じは。
ここに先生と僕二人しかいなかったら、僕は先生を抱きしめていたと思う。
先生の胸に飛び込んでいた。
「先生が学校辞めたら、この寄宿舎の管理人がいなくなってしまうもの、絶対にそんな人だめよ」
鬼胡桃会長が言う。
「主夫部の顧問もいなくなりますもんね。他に顧問をしてくれる先生なんていないし。絶対にそんな人、だめです」
御厨が言った。
確かにそうだ。
でも、それで先生は幸せなんだろうか。
僕達に付き合わせるために、先生が幸せを逃していいのか。
ふと、僕はそんなことを考えた。
「さーてと、お風呂入ってこようっと」
先生はそう言って伸びをした。
あっという間に、瓶ビール一本を空にしている。
「先生、お風呂の前に、髪洗いますけど」
僕のほうから持ちかけた。
「ホントに? うれしい。それじゃあ、甘えちゃおうかな」
先生が言う。
甘えて欲しい。
今の僕には、そんなことしか出来ないから。
今の僕には、パエリアもスペインワインも用意出来ない。
先生の髪を、今日は特に丁寧に洗ってあげよう。
そして、気持ちよくて眠ってしまうくらい、頭をマッサージしてあげよう。
「結婚したら、こんなふうに髪を洗ってもらえないもんね」
洗髪台で、先生が言う。
「ああでも、塞君と結婚すれば、そんなことはないか」
先生は僕が困ると思って、そんなことを言う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます