第132話 お守り
「ダメだ、さっぱり分からない」
ボンネットを開けて出てきたエンジンや補機類を前に、ヨハンナ先生が言った。
エンジンスタートボタンを何回押してもエンジンが掛からないから、ボンネットを開けて中を調べた。
でも、煙が出てるとか、どこかが焦げてるとか、目に見えるような異常はない。
さっき僕達の記念写真を撮ってくれたバイク乗りのお兄さんも様子を見に来てくれたけど、原因は分からなかった。
これはもう、エドにでも来てもらうしかない。
先生が、この車を借りたレンタカー会社に電話した。
今の時刻が、十一時五十五分。
帰りの時間を考えると、十二時半くらいが、タイムリミットだ。
「近くの営業所の人が来てくれるって」
通話を終えて、先生が言う。
「よかったですね」
僕が言っても、先生の表情は晴れない。
「ここに来るまで一時間くらい、かかるみたいだけどね」
ヨハンナ先生が、肩を竦めた。
飛行機の時間には、絶望的だ。
「よし、ラーメンでも食べよう!」
先生が言った。
駐車場の前に、何件か食堂がある。
「待つしかないんだもん、お腹減ったし、食べて備えとこう。腹が減っては……ってね」
僕達は数件ある中の、一軒の大衆食堂に入った。
四人掛けのテーブル席が六席、小上がりに四席あるそこそこ広い食堂で、僕達が入ったとき、テーブル席で観光客と思われる二組が食事をしていた。
僕達は、小上がりの一番奥に座る。
中年の女性が注文を取りに来て、ヨハンナ先生が、ここの名物らしいホタテラーメンを頼んだ。
僕と新巻さんも、同じ物を頼む。
魚介系スープの塩ラーメンで、具材はその名の通り、ホタテが丸ごと一個と、ネギ、なると、メンマというシンプルなラーメンだった。
しばらく強い海風に吹かれていたから、温かいラーメンが美味しい。
「すみません。私がここに来たいって言ったばっかりに」
運ばれてきたラーメンに手を付けずに、新巻さんが言った。
「車が故障したのは新巻さんのせいじゃないよ。ここに来るのはみんなで決めたことだしね」
ヨハンナ先生が言う。
「新巻さんがここに来たい、って自分から意思表示してくれたことが、先生、嬉しかったし。それだけでここに来た甲斐あったよ。飛行機に乗り遅れるくらいなんでもない。さあ、麺が伸びちゃうよ。そっちのほうが大変だ。はやく食べなさい」
先生が言った。
それでようやく、レンゲでスープを一口飲んだ新巻さん。
「美味しい」
新巻さんが、ほっぺたを桜色にして言った。
「仕方がない。ここは先生が怒られるよ。まあ、教頭先生から、お小言を二時間も聞いてればそれで終わるし」
先生が言う。
それはなんて酷い拷問なんだ。
「右から左に、するっと聞き流しちゃうから、大丈夫だけどね」
さすがはヨハンナ先生。
「ねえ、このウニ丼っていうの、一つ頼んで、みんなでシェアして食べない」
先生が言って、僕達はラーメンに加えて、ウニ丼も食べた。
食べ終わって、辺りを散策していたら、しばらくして、レンタカー会社の車が駐車場に来る。
「どうも、お待たせしました」
「中村」というネームプレートを付けた、二十代前半の、背の高い男性の社員さんが車から降りてきた。
肌寒いのに、中村さんはジャケット脱いで、ワイシャツの袖を腕まくりしている。
ヨハンナ先生が事情を話した。
中村さんは、ボンネットを開けて、バッテリーを点検する。
セルモーターを見たり、ヒューズボックスを開けたりした。
でも、首を傾げるばかりで、原因は分からないみたいだ。
「すみません、ここでは修理できません。私が乗ってきた車を使ってください。こっちはレッカー車を呼んで持っていきますから。飛行機の時間には、間に合いそうもありませんけど……本当に、すみません」
中村さんが、頭を下げる。
「まあ、仕方ないですね」
ヨハンナ先生は、中村さんに突っかかったりしなかった。
元々僕達のスケジュールに無理があったこともあるけど、先生はこういう場面で立場の弱い人にキレたりしない人だ。
荷物の載せ替え作業をしていたら、なぜか中村さんが、僕のほうをジロジロと見てきた。
「君、その首から提げてるのは?」
中村さんが僕に訊いた。
「お守りです」
これは、弩が僕に貸してくれた名刺だ。
弩の母、「弩あゆみ」の名刺。
大弓ホールディングス代表取締役会長兼CEOの名刺だ。
ラミネート加工された名刺にチェーンが付けてあるのを、僕はお守り代わりに首から提げていた。
「ちょっと、見せてもらっていいかな?」
「いいですけど」
僕は、首からチェーンを外して、名刺のお守りを見せた。
中村さんは目を近づけたり、裏返したりして、確かめる。
「ちょっと、待ってくれる」
そう言うと、中村さんはスマートフォンを取り出して、どこかに電話をかけた。
僕達に背を向けて、何かひそひそと話している。
「飛行機の時間に、間に合うかもしれませんよ」
通話を終えて、中村さんが僕達に笑顔を見せた。
「予定変更です。みなんさん、車に乗ってください」
中村さんは僕達を車に乗せて、自分が運転席に座った。
そのまま、乗ってきた車を走らせて、どこかに向かう。
十分くらい走ったところで、中村さんは車を停めた。
周囲に何もない、牧草地の真ん中だ。
「荷物を降ろしましょう」
中村さんはそう言って、僕達のスーツケースを車から降ろす。
僕達は、スーツケースと共に牧草地に放り出された。
「中村さん、これはどういう……」
僕が訊いた。
「少し待ってみて。ほら、来たみたいだよ」
中村さんが言う。
遠くから、バタバタと空気を叩くような音が聞こえて来た。
音のほうを見ると、空に、白く輝く流線型の塊が浮かんでいる。
太陽を反射して光るそれは、ヘリコプターだ。
それが、こっちに近づいてくる。
「まさか、まさかね」
ヨハンナ先生の口がそう言ったまま、開きっぱなしになった。
やがて、顔に風圧を感じるようになって、牧草地の草が、地面に押しつけられる。
新巻さんが、チェックのスカートを押さえた。
真っ直ぐに飛んできたヘリコプターは、僕達の手前、二十メートルくらいのところに、ゆっくりと着陸した。
白にネイビーブルーとゴールドのラインが入った綺麗な機体で、後ろにファンが入った鮫の尾びれみたいな尾翼が付いている。
前の操縦席に二人が乗っているのが見えた。
ローターを回したまま、そのうちの一人がヘリから降りてくる。
「荷物、お預かりします」
ネクタイを締めたパイロットの制服の男性がそう言って、僕達のスーツケースを運んだ。
ヘリ後部のお尻の部分が観音開きになって、そのラゲッジスペースに、スーツケースを積み込む。
「急ぎましょう。乗ってください」
促されて、僕達は後部座席に乗り込んだ。
ヘリコプターの後部には、二列のシートが向かい合わせてあって、四人が座れるようになっている。
スペースは広くてもっと乗れそうなのに、四つの席が贅沢に広くとってあった。
VIPを乗せるヘリコプターなのだろうか。シートは落ち着いたブラウンの本革で、シートベルトや金具も、凝ったデザインが施されていた。
騒音対策も十分で、少し大きな声を出せば、エンジンが動いていても機内で会話できそうだ。
僕と新巻さんが進行方向に沿った席に座って、ヨハンナ先生が僕の対面に座った。
「シートベルトを締めてくださいね。すぐに離陸します」
制服の男性が、そう言ってドアを閉める。
お尻が浮く感じがして、ヘリコプターが地面を離れた。
下で、中村さんが手を振ってるのが見える。
牛舎や車が、みるみる小さくなった。
ヘリコプターはまっすぐ、旭川に向けて最短距離を進む。
高度は二百メートルくらいだろうか。
上空から、北海道の大地を眺めることができた。
飛行機は高すぎて実感が湧かないけど、このくらいの高さだと、車や建物が分かって、その上を飛んでいる実感が湧く。
人はゴミのようじゃないけど、豆くらいだ。
空から、畑のパッチワークを見る。
大雪山系の山々の紅葉を眺めた。
さっきまで、飛行機に間に合わないと悲嘆に暮れていたのに、今は優雅に空を飛んでいる。
隣の座席で、新巻さんはさっそくメモ帳を取り出して、細かい字でメモしていた。
目が、爛々と輝いている。
「レンタカー会社のサービスって凄いですね」
新巻さんが言った。
「いや、これは……」
説明すると、弩の正体まで明かして話が長くなりそうだから、僕はそれ以上、言わなかった。
「あれ、なにこれ」
シート周りを弄っていた先生が言う。
先生の席の横のコンソールボックスが、冷蔵庫になっているみたいだ。
中を開けると、冷えたシャンパンが入っている。グラスも二つ、あった。
「祝杯あげろってことかな?」
先生が言って、シャンパンに手を伸ばす。
「先生、駄目ですよ」
僕が言って止めた。
「なんで?」
「なんで? って先生は仕事中ですよ。僕達の引率をしてるんですから」
「それは、そうだけど……」
「空港に着いたら、クラスメートとか、教頭先生の前に立つのに、お酒臭かったら大問題でしょ」
「一杯くらい、分からないって」
「だめです!」
「ケチ!」
なんと言われようと、僕は譲らない。
「口つけるくらいは?」
「だめです!」
「鬼!悪魔!ち〇ろ!」
僕達のやり取りを、新巻さんが笑いながら見ている。
それにしても、どっちが教育者なんだ。
宗谷岬から、旭川まで約200㎞の距離を、ヘリコプターは一時間足らずで飛んだ。
僕達を乗せたヘリは、旭川空港にほど近いゴルフ場の駐車場に着陸する。
駐車場にはすでに迎えの車が来ていて、エンジンをかけて待っていた。
車に荷物を積み替えて、すぐに出発する。
弩の母親の名刺の力を思い知らされた。
ヘリコプターは、どこにでも勝手に着陸するわけにはいかないだろうし、色々と各方面に申請とかが必要なはずだ。
それを、名刺をチラッと見せただけで、何から何まで完璧に手配されてしまうなんて……
弩が僕に貸してくれたお守りが、本当に僕達を守ってくれた。
弩が僕を守ってくれた。
帰ったら弩のパンツを洗ってあげよう。
二回、洗ってあげよう。
結局、僕達はみんなより早く、旭川空港に着いた。
「あっ、篠岡君!」
バスから降りて僕を見付けたクラスメートの松井さんが、空港のロビーで手を振る。
二、三日離れていただけなのに、何もかも皆、懐かしい。
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