第107話 決断

「僕は統子と、鬼胡桃統子と結婚しようと思う。結婚しようと思うんだ」

 僕達主夫部部員を集めて、母木先輩が言った。


 部室の中で一人だけ立ち上がっている母木先輩が、テーブルに両手をつく。

 先輩は、決してふざけているふうではなかった。

 その茶色い瞳は少し遠くを見詰めて真剣そのものだし、表情もキュッと締まっている。

 先輩が少し遠くを見詰めているのは、未来を見ているからだろうか。


先輩の突然の発表に際して、部室のテーブルを囲む僕達部員は、一言も発することが出来なかった。身動きすら出来ない。


 部室の中を沈黙が包んだ。


 みんな、言葉の意味を確かめるように、空で考えている。

 「結婚」という言葉の意味を問い直した。

 僕はといえば、母木先輩が鬼胡桃会長と結婚するのは当然だろうな、という思いと、高校在学中にそれを選んだという驚きで、混乱している。



 沈黙を破ったのは、部室の窓際のソファーに座っていた、ヨハンナ先生だった。

「またまた、変な冗談言うのは、母木君らしくないよね」

 先生が薄ら笑いで言う。

 この緊張感の中で、そういうふうに会話に入っていくしかなかった。

「そうですよね。ホントに」

 錦織も声を絞り出す。


「いや、冗談なんかじゃありません。僕は本気です」

 母木先輩が、ヨハンナ先生を睨むようにして言った。


「せ、先輩、落ち着いてください。とりあえず、お茶を入れましょう」

 御厨が立ち上がって、部室のパーティションで区切られた給湯スペースに向かう。

 ティーカップとソーサーがカタカタと擦れあう音がして、御厨の手が震えていると思ったら、ガシャンと、カップがシンクに落ちて、派手に割れた。

「す、すみません」

 御厨が震える声で言う。

 御厨は完全に動揺していた。

 その後で御厨が僕達に入れてくれた紅茶は、渋みが際立っていて、全然おいしくなない。

「ほら、弩。紅茶、こぼれるぞ」

 弩が目測を誤って、ティーカップを頬っぺたに当てて飲もうとしているから、僕はカップを口に持っていってやった。



「詳しく話してもらいましょうか。どうして突然、そんなことになったのか」

 渋い紅茶で喉を湿らせたあとで、ヨハンナ先生が言う。

 やっぱり、こういうとき、ヨハンナ先生は落ち着いていて、頼りになる。


「はい、もうすぐ、夏休み明けの二者面談があります。僕達三年生は、その面談で、最終的な進路を決めることになります」

 母木先輩は言った。

 僕達下級生が、夏休みボケとか言ってるこの時期、三年生にとっては、将来に向けての大切な時期なんだろう。

 大学受験にしても、就職にしても、或いは他に道を選ぶにしても、面談で方向性を示す必要があるのだ。


「面談を前に、僕は将来のこと、改めてよく考えてみました。真剣に考えました。その結果僕は、主夫になろうと思いました。面談で僕は、担任の先生に主夫になると言うつもりです」

 母木先輩は言った。

 時期が時期だけに、四月に僕が進路アンケートに「専業主夫」と書いたのとは重みが違う。

 でも、母木先輩はそれを選んだのだ。


「そして、僕が主夫になる場合、その相手は統子しかありえないと思いました。だから僕は、統子と、鬼胡桃統子と結婚します」

 母木先輩が言った。

 言い終わって、母木先輩は、なにかすっきりしたような、やりきったというような顔をしている。


「みんな、どうした? 僕達は主夫部だぞ。この主夫部から、初めて主夫になる人間を排出するんだ。喜んでくれないのか?」

 母木先輩が、部員の僕達を見回して言った。


「野球部からプロ野球選手のドラフト指名があったり、サッカー部の部員がJリーグチームからスカウトされたら、みんな喜ぶだろう? だからみんなも、もっと喜んでくれ」

 母木先輩は言って、笑顔を見せる。

 爽やかな笑顔だ。

 校外にも知れ渡るイケメンの母木先輩の笑顔には、釣られそうになった。

 だけど、先輩に言われても、僕達はリアクション出来ない。

 先輩の将来のことで、軽々しく喜んだりしたらいけないと思ったのだ。


「母木君、ひとまず、大学に進学して、主夫になるにしても大学を卒業してからとか、その後で考えるわけにはいかないかな? 大学で何か、他にやりたいことが見つかるかもしれないし、鬼胡桃さんの他に、心ときめくような相手が現れるかもしれない」

 ヨハンナ先生が、先輩をなだめるように言った。

 先生の立場としては、こう言うしかないんだと思う。


「いえ、大学に行っても、他にやりたいことが見つかるとは思えません。それに、僕が主夫になるとしたら、パートナーは統子以外に考えられません。それは大学でどれだけたくさんの女性と知り合おうが、変わらないと思います」

 母木先輩はそんなふうに言い切った。

 なんという、ストレートな。

 でも、カッコイイ。

 それだけ一人の女性を思うことが出来る先輩が、輝いて見える。


「だから僕は、統子と結婚します」

 先輩が言うと、誰からともなく拍手が沸き起こった。

 僕達は、堰が切れたみたいに拍手した。

 ヨハンナ先生以外、部員全員で祝福する。

 弩と御厨なんて、目をうるうるさせていた。

 立場上、渋い顔をしていたヨハンナ先生だけど、やがて僕達の拍手の輪に加わって、最終的に母木先輩を祝福する。


「在学中に三年生の二人が結婚って、大問題になって色々面倒なことになりそうだけどね」

 ヨハンナ先生はそう言って肩を竦めた。

 僕達が先生を主夫部の顧問に引き込んだときから、面倒なことにはたくさん巻き込まれていて、先生も馴れっこになってしまったんだろう。

 本当にヨハンナ先生には、頭が下がる。



「で、結婚式はいつなんですか? どこでやる予定ですか?」

 御厨が訊いた。

 もちろん、結婚式をやるとなったら、僕達は招待を受けるだろう。

 親戚の結婚式以外に出るのは初めてだから、なんか緊張する。

 スピーチとか、頼まれたらどうしよう。

 場所が海外とかだったら、パスポートも取らないといけないし。


「いや、まだそれは決まっていない」

 母木先輩が言う。

 結婚式は卒業してからとか、そういうことだろうか。

 とりあえず、籍だけ入れるとか。


「でも、鬼胡桃会長のお父さん、恐そうな人でしたけど、よく結婚を許可してくれましたよね。会長のご両親に報告に行くときは、緊張しました? 後学のために教えてください」

 僕が訊く。

 市議会議長をしている会長のお父さんは、以前、寄宿舎に会長を連れ戻しに来たときに見た。

 目元が鬼胡桃会長にそっくりな、恰幅のいい男性だ。

 結婚、などと言おうものなら、問答無用で拳が飛んできそうな人だったけど、大丈夫だったんだろうか。


「いや、まだ、統子の両親には挨拶に行っていない」

 母木先輩が言った。

 なるほど、許可はこれからか。

 だとしたら、これからまだ一悶着ありそうだ。

 あのお父さんが、黙っているとは思えない。

 また寄宿舎に怒鳴り込んで来るかもしれない。


「先輩、鬼胡桃会長には、どんな言葉でプロポーズしたんですか?」

 興味深げに錦織が訊く。

「あっ、それ、私も訊きたいです!」

 弩も、興味津々で、キラキラした目で母木先輩を見る。

「ホント、教え子の分際で、教師の私より先に結婚するなんて、プロポーズの言葉くらい隠さず話さないと、許せないわよね」

 ヨハンナ先生が笑顔で言う。

 でも、目が笑っていない。

 ってゆうか、先生、目が恐いです。


「いや、まだ、統子にはプロポーズしていない」

 母木先輩が言った。


 あれ?


 なんだか、雲行きが怪しい。


「プロポーズはまだだとしても、告白はしたんだよね? 恋人同士として、これから付き合って行こうって。結婚を前提に付き合ってください、みたいな」

 ヨハンナ先生が訊いた。


「いえ、告白してません」

 母木先輩が、はっきりと言う。


「はっ?」

 母木先輩以外、そこにいた全員が、某カ○ナシみたいな、無表情な顔になった。

 そのとき一瞬、部室は色がなくなって真っ白になっていたと思う。


「結婚するといっても、結婚の日取りが決まっているわけではない。ご両親への報告もしていないし、鬼胡桃会長にプロポーズもしていない。それどころか、告白もしていない。鬼胡桃会長は何も知らない、ってことですか?」

 確認のために、僕が訊く。

「先輩と鬼胡桃会長の関係は、以前と同じままってことですか?」


「ああ、その通りだ」

 母木先輩が言って、頭をかいた。

 爽やかな、笑顔で。


「はーい、解散、解散」

 ヨハンナ先生が死んだ目で言った。

「まだ、打ち合わせ終わってないといいなぁ」

 先生は書類の束を抱えて、そそくさと部室を出て行く。


「僕、Party Makeのみんなと次の衣装の打ち合わせしてたんで、戻ります」

 錦織も先生に続いて、部室を出て行った。


「僕は、夕飯のお米をとがないといけないので……」

 御厨も立ち上がる。


「弩、そろそろ弩のタンス、夏物と秋物の服、入れ替えようか?」

「はい、そうですね。朝晩、涼しくなりましたもんね。篠岡先輩、お願いします。私、お手伝いします」

 僕と弩が、連れ立って部室を出て行く。



「おい、みんな……ちょっと……」

 部室には、母木先輩が一人、取り残された。


「おいって……」

 人騒がせな母木先輩には、少し一人で反省してもらいたい。


「おーい」

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