第9章
第106話 Tシャツと、枕と
「おかえり」
僕が言うと、弩が「ただいま帰りました」と、笑顔で答えた。
紺のスーツ姿で、長い髪を後ろで結んだ弩が、マンションの玄関で靴を脱ぐ。
弩は気丈に笑顔を見せてるけど、相当疲れているみたいだ。
シャツの襟がよれてるし、スーツに皺が目立った。
朝、ここを出るときに完璧だったメイクも、ずいぶん落ちている。
「お風呂にする? それとも、ご飯?」
僕が訊くと、
「お風呂に入って、さっぱりしてからご飯食べます」
弩がそう言うから、僕はスーツや鞄を預かって、そのまま弩を脱衣所に導いた。
僕は風呂の様子を窺いないながら、弩が風呂から上がる時間を見計らって、料理に火を入れる。
今日のメインは、豚の角煮だ。
角煮は口に入れるとほろほろと解ける柔らかさに仕上がっている。
チンゲン菜と半熟の煮卵も添えてあった。
風呂場のドアが開いた音を聞いて、僕は冷蔵庫から食前酒のワインを取り出す。
「わあ、おいしそう!」
風呂上がりで、艶々の肌の弩が声を弾ませた。
僕はワインをグラスに注ぐ。
「いただきます」
ダイニングキッチンで、僕達は向かい合って座って、夕食をとった。
夕食といっても、もう十時を回っている。
それでも、日を跨がないうちに食事が出来て、今日はまだ早いほうだ。
弩は、仕事でどんなに遅くなっても、僕の作るご飯を食べるために、外で食べずに帰ってくる。どんなに空腹でも、我慢して帰ってきてくれた。
だから僕も、食事を作って、ずっと弩の帰りを待っている。
「弩、ワインのおかわりは?」
僕がワインボトルを傾けると、弩は自分のグラスを手で塞いだ。
「先輩、結婚してもうすぐ一年経つんですから、そろそろ私のこと、『弩』じゃなくて、『まゆみ』って呼んでください」
弩が言った。
顔が赤いのは、酔ったからか、それとも、今の発言が恥ずかしかったんだろうか。
「それに、今は先輩だって『弩』じゃないですか」
確かに、僕の名字は篠岡から弩に変わっている。
「それを言うなら、『弩』だって僕のこと、『先輩』じゃなくて、他の呼び方で呼んだらどうなんだ?」
僕は言った。
「先輩」っていう響きもいいけど、僕達はパートナーなんだし、弩は働いていて、もう僕の後輩じゃない。
「先輩のこと、私は、なんて呼んだらいいですか?」
弩が訊いた。
「そこは、あれだよ。弩がいいように、呼べばいいと思う」
僕は答える。
「あなた」でもいいし、名前で「塞さん」とか、「とー君」とか。
「ダーリン」って呼ばれるのは、ちょっと恥ずかしいけど。
「お兄ちゃん」
弩が言った。
「お兄ちゃん?」
僕が聞き返す。
「お兄ちゃん」
弩は、もう一度言った。
「お兄ちゃん」
弩は繰り返す。
「お兄ちゃん、っていうのはどうだろう?」
僕は投げかけた。
なんか、枝折や花園に呼ばれてるみたいだし。
他の人に聞かれて、僕がお兄ちゃんって呼ばせていると思われたら、シスコン扱いされかねない。
「お兄ちゃん」
それでも、弩はお兄ちゃんと呼んでくる。
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん! 目覚まし鳴ってるよ!」
目が覚めると、僕の部屋のドアを叩いて、枝折が怒鳴っていた。
夢か。
僕の部屋の目覚ましが鳴りっぱなしで、枝折が部屋のドアを叩いていたらしい。
「枝折、ごめん」
僕はドアの外にそう呼びかけて、目覚まし時計を止めた。
五時にアラームをセットした目覚まし時計が、五時七分を指している。
早朝に、寝ていた枝折を起こしてしまった。
寝坊だ。
僕はまだ、夏休みの生活のペースから完全に戻っていない。
あくびをして、伸びをする。
さあ、お弁当の準備と、朝食の支度を急ごう。
それにしても、新学期が始まって、弩の夢ばかり見る。
夏休みのあいだ、弩がずっと僕の部屋を使っていて、僕のベッドで寝ていたからか、部屋やベッドに弩の匂いが染みついていた。
そのせいで嗅覚が刺激されて、弩の夢ばかり見てしまうのかもしれない。
無意識に弩を思い浮かべてしまうのかもしれない。
だけど、僕が弩と結婚してる夢を見るなんて。
弩が仕事から帰ってきて、主夫の僕が迎える夢。
なんか、すごく幸せな夢だった。
もっと続きを見たかった気もするけど……
夏休みボケが完全に直らないまま、学校に行ってみると、僕以上の症状に悩まされている人物がいた。
「先輩、先輩のTシャツください」
放課後、部活のために寄宿舎に寄ったら、玄関ホールで、弩が僕を見るなり、そんなことを言った。
「お願いします。先輩のその、シャツの下に着ているTシャツ、ください。脱ぎたてTシャツください」
弩が真剣な顔で言う。
セーラー服の弩が、僕に縋り付いてきた。
わけが分からないから、落ち着かせて詳しく訊いてみる。
「夏休みの間、先輩のベッドとか、雑魚寝で先輩の隣に寝ていたせいか、環境が変わって寄宿舎のベッドに戻ったら、よく眠れないんです」
弩が言った。
その言葉通り、弩は目の下に隈を作っている。
心なしか、お肌も疲れているような気がした。
弩の匂いが染みついた部屋で、僕が弩の夢ばかり見るみたいに、弩は僕の匂いが染みついた部屋に慣れていて、自分のベッドで眠れなくなってしまったということか。
枕が変わって眠れなくなる、そんな感じか。
「先輩、先輩のTシャツください。それを自分の枕に被せて寝ますから」
弩が言う。
変なこと言うな、って切り捨てようとしたけど、弩は真剣で、すごく切実な目をしている。
弩が「ください」と言ってにじり寄って来ると、朝の夢のことを思い出して、なんだか、照れくさい。
「分かったよ。明日、いらないTシャツ持ってきてやるから」
僕が言うと、
「今着てる脱ぎ立てのがいいんですけど」
弩が言った。
重傷だ。
さすがにそれは、丁重にお断りしておいた。
可哀想だけど、時間が経って、元の体に戻るのを待つしかない。
「ところで、リフォームされた寄宿舎はどうだ?」
僕は話題を変えた。
「はい、快適です」
弩は言う。
夏休み中のリフォームで、寄宿舎は格段に使いやすくなっていた。
台所周りは完全にリフォームされていて、業務用の厨房機器や冷蔵庫が入っている。
それには御厨が飛び上がって喜んだ。
お風呂も綺麗になったし、給湯器も整備されて、温度が安定したお湯が出てくるようになった。
僕達が脱衣所に据えた洗髪台には、ちゃんと配管がされて、床に固定して本格的に使えるようになっている。
一階と二階、両方のトイレにウォシュレットが入ったし、薄暗かった照明や、換気扇も直された。
各部屋には有線LAN端子が通って、それとは別に無線LANの電波が飛ぶようになった。
一方で、古い洋館の佇まいは、そのまま残っている。
外装や内装に変化はない。
柱の傷も、そのまま残してあったし、ランプの傘や、真鍮の金具も、以前の物を使っていた。
開かずの間から続く地下通路も残されている。
寄宿舎の持つ、重厚で気品ある雰囲気は、前と変わらず、保たれていた。
その点は、寄宿生も主夫部も、全員が安心した。
「でも、よくこんな予算が出たよな」
つい先日まで、寄宿舎は朽ちるのに任せて、放置されていたのだ。
それが、五人しかいない寄宿生のために、結構大規模なリフォーム工事をするのは、学校側にどんな路線変更があったんだろう。
「OGを名乗る人物から寄付があったって、ヨハンナ先生が言ってました。その人は匿名を条件に寄付したから、誰だかは分からないそうですけど」
弩が言う。
この寄宿舎に大金をポンと寄付できる人物。
それは、もしかしたら弩の母親じゃないのか。
娘のために、設備を良くしようっていう親心と、自分の青春の場所をいつまでも残したいという想いで、寄付したとか。
「いえ、母はそんなこと、全然、言ってませんでしたけど」
弩は首を振る。
でも、だとしたら他に、誰がこんな寄付をしてくれたんだろう。
僕達が玄関ホールで話していると、いつもより少し遅れて、母木先輩が寄宿舎に来た。
寄宿舎での部活動に遅れて来るなんて、母木先輩には珍しいことだ。
先輩は遅れた分、さっそく掃除に掛かるのかと思ったら、
「主夫部のみんな、集まってくれ!」
寄宿舎の隅々まで聞こえるように大声で言って、僕達を集めた。
「ちょっと、みんなに話したいことがある。部室のほうに集まってくれないか」
先輩が言う。
「ここじゃ、駄目ですか?」
僕は訊いた。
「ああ、部室で落ち着いて話したい」
寄宿舎で話しても、遠慮する人なんかいないのに、あらたまって部室に集まるって、どういうことだろう。
寄宿生には聞かせられない、なにか、特別な話なのだろうか。
僕は、先輩にただならぬ雰囲気を感じながら、文化部部室棟に移動した。
錦織に御厨、弩、そして僕。
部員全員が集まる。
顧問のヨハンナ先生も、母木先輩から重要な話しがあると聞いて、他の先生との打ち合わせを中座して、わざわざ部室に来た。
僕達が会議をするときのように部室のテーブルに着くと、先輩は椅子から立ち上がる。
「部活動の途中、集まってもらって、すまない。私事だけれど、みんなに伝えたいことがあって、こうして集まってもらった」
母木先輩はそんなふうに前置きをした。
そして、眉間に皺を作った厳しい顔つきで、咳払いをする。
一体、なんなんだ。
これから、何がはじまるんです?
部員全員と、ヨハンナ先生が息を呑む。
「僕は統子と、鬼胡桃統子と、結婚しようと思う。結婚しようと思うんだ」
母木先輩が、言った。
先輩は二回言ったから、たぶんそれは、大切なことなんだと思う。
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