第105話 夏休みの宿題

 8月31日の我が家は、まだ夏の終わりなんて想像できないくらい、賑やかだった。


 リビングのテーブルでは、鬼胡桃会長が、花園と弩の宿題を見ている。

 テーブルには、公認会計士試験の勉強をする枝折も並んでいて、三人は三姉妹みたいだ。

 静かに勉強したいと言って我が家に来た鬼胡桃会長だけど、ずっとみんなの面倒を見ていて、いいんだろうか。


 ダイニングテーブルでは、萌花ちゃんと古品さんが、ブログに載せるフェスの写真を選んでいた。

 萌花ちゃんのノートPCの画面を見ながら、二人であれこれ話し合っている。


 客間ではヨハンナ先生が、明日からの新学期の準備で、書類を引っ掻き回していた。新学期早々にある小テストの草稿を書いているけど、これは見ないでおこう。


「みんな、なんか飲む?」

 忙しそうなみんなに、僕が訊いた。

「今はいいわ」

 鬼胡桃会長が言う。


「萌花ちゃん、おやつとか、食べる?」

「いえ、ちょっと今、忙しいのでいいです」

 萌花ちゃんと古品さんは、パソコンの画面から目も離さなかった。


「花園はアイス食べるよな?」

「ちょっと、お兄ちゃん邪魔しないで」

「弩、クーラー寒くないか? 湯たんぽ代わりに、僕にくっつくか?」

「先輩、少し、静かにしていてもらっていいですか?」

 弩は、ノートに目を落としたままだ。

「枝折ちゃん……」

 枝折は無言で僕を睨む始末。


 色々とみんなの世話を焼きたいのに、全然相手にしてくれない。

 そんなに邪険にしなくてもいいじゃないか。



「篠岡、暇なら一緒に走りに行かないか?」

 そんな僕に声をかけてくれたのは、縦走先輩だった。

 先輩はタンクトップとランニングパンツで、屈伸運動をしながら言う。


「はい………でも……」

 時刻は午後二時を回ったところだ。

 真夏のような暑さは緩んできたとはいえ、まだ昼間は暑い。

「いいじゃないか、たまには付き合ってくれ。主夫業には、体力だって必要だ」

 先輩にそんなふうに言われて、僕はTシャツと短パンに着替えた。



 外に出るとジリジリと太陽が照りつける。

「先輩、やっぱり……」

「さあ、行くぞ」

 先輩はそう言って走り始めた。

 仕方なく僕は付いていく。


 焼け付くアスファルトの上を、僕達は走った。

 縦走先輩は速くて追いつくのがやっとだけれど、これでも僕に合わせてペースを落としてくれているんだろう。


 相変わらず、先輩の走りは美しい。

 後ろから、腕や脚の筋肉にも見とれてしまう。


 炎天下の中を三十分くらい走っただろうか。

 汗でTシャツがびっしょりになった頃、先輩が公園の前で足を止めた。

「よし、ここで少し休もう」

 そこはどこにでもあるような、街の小さな公園だった。

 中央に噴水があるけれど、故障中の札が掛かっていて、水は止まっている。


 僕達は木陰のベンチを見付けて座った。

 炎天下に出かける人もいないらしく、公園には誰もいない。

「飲むか?」

 先輩がそう言って、自販機で買ったペットボトルのスポーツドリンクを差し出してくれた。

「はい、ありがとうございます」

 受け取って僕は、さっそくキャップを開けて飲む。

 喉がカラカラで、冷たいスポーツドリンクが体を通って行くのが分かった。


 隣で縦走先輩も、ゴクゴクと豪快にスポーツドリンクを飲む。

 先輩は、口の端からスポーツドリンクが滴り落ちるのも気にせずに飲み続けた。

 先輩の顎から胸元まで、褐色の肌を伝ってスポーツドリンクが流れていく。

「あー、おいしい」

 先輩はそう言って口をぬぐった。

 一見がさつだけれど、この先輩の豪快な所には惹かれてしまう。

 どんな困難にぶち当たっても、こんな先輩なら守ってくれそうな気がする。

 縦走先輩がパートナーだったら、優柔不断な僕を、どんどん引っ張っていってくれるんだろう。


 でも、改めてこうして二人っきりになってみると、先輩と何を話していいのか分からない。

 弩とかだったら、どんどん突っ込めるし、ヨハンナ先生だったら、軽口も言えるのに。


「そういえば、前に、篠岡に助けてもらったことがあったな」

 縦走先輩のほうから、話題を振ってくれた。

 そういえば、そんなこともあった。

 縦走先輩が下級生から告白されて、ぼーっとして鉄柱にぶつかって倒れたときだ。


「あのときのことは忘れないぞ。君は上履きのまま駆けつけてくれて、私を負ぶって保健室に連れて行ってくれた。ぼんやりとだけど、君の背中を覚えている。君は、私のヒーローだからな」

 先輩が言う。

 そんな、あの時はただ必死で、先輩を助けなきゃと思って行動しただけだ。


「君のパートナーになる人物が羨ましいな」

 先輩が言う。

 いや先輩、それはこっちの台詞です。


 二人でベンチに座って、ぎこちない時間が過ぎていった。

 昼下がりの静かな時間が流れる。

 僕は今頃気付いたけど、もう、アブラゼミは鳴いていなかった。


「先輩、もうそろそろ、帰りましょうか?」

 たまらず僕が言う。

 三時を回って、夕飯の支度もしないといけないし。

 このままずっと縦走先輩といたって、いいんだけど。


 僕が立ち上がろうとすると、

「篠岡、まだ、いいじゃないか」

 先輩はそう言って、僕の手を握ってきた。

 僕の手を引っ張って、ベンチから立ち上がらせないようにする。

「まだ、こうして一緒にいてくれ」

 縦走先輩が言った。


 この状態は何なんだ。

 僕はベンチの上で、縦走先輩と手を繋いで座っている。

 先輩の頬がほんのり赤かった。

「こんなことをするのは初めてだから、緊張するな」

 縦走先輩が言う。

 握った手を通じて、先輩の鼓動が聞こえてきそうだ。


 僕達が手を繋いで座っていると、買い物帰りで公園を横切ろうとする親子が前を通った。

 母親に手を引かれた麦わら帽子の女の子が、僕と縦走先輩を見て立ち止まる。


「お姉ちゃんたち、付き合ってるの?」

 女の子が訊いた。

 ませた女の子だ。

「ああ、付き合ってるぞ。ラブラブだ」

 縦走先輩が僕達の握った手を掲げて言う。

 女の子は「ふーん」と言って、母親に手を引かれて行ってしまった。


 縦走先輩、どういうつもりなんだ。


 いきなり手を握ってきて、ラブラブだとか言って……

 ここは僕が、先輩の言葉に応えるべきなのか。

 たとえば僕は、先輩との距離を詰めたり、寄り添ったりするべきなのか。

 まさかとは思うけど、肩を抱いたりするべきなのか。


 そんなことを考えていて、僕は結局なにも出来ない。

 そうして、僕達は木陰のベンチで、一時間くらい、手を握っていただろうか。


「それじゃあ、そろそろ帰るか」

 縦走先輩が言った。

「はい」

 ほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちだ。

「なかなか、楽しかったな」

 先輩が言う。


 日が陰った分、涼しくなった中を、僕達はゆっくりと走って家に帰った。

 アブラゼミが退場して、聞こえるのはひぐらしの声だけだ。

 ひぐらしが鳴くのを聞いて、これで夏も終わってしまうんだと、なんだか急に寂しくなる。



 玄関を上がってリビングに入ろうとすると、

「あっ、おかえり」

 リビングから、ヨハンナ先生が出てきた。


「もう、塞君、汗だくじゃない。お風呂に入って汗流して来なさい」

 ヨハンナ先生が言う。

 

 風呂でシャワーだけ浴びようと思ったら、もう湯船にお湯が張ってあった。

 誰かがお風呂を入れてくれたみたいだ。

 僕は脱衣所で服を脱ぐ。


「今日は塞君が一番風呂ね。ゆっくり入りなさい」

 突然、ヨハンナ先生がドアを開けてきた。

「きゃっ!」

 僕は思わず、変な声を出してしまう。

 脱いだばかりのTシャツで、体を隠した。

 セクハラだ。セクハラ教師だ。

「背中、流してあげようか?」

 脱衣所のドアを半分開けたまま、ヨハンナ先生が訊く。

「いえ、いいです」

 丁重にお断りしておいた。

 妹とか、みんながいなかったら、お願いしていたかもしれないけど。


 汗を流して風呂から上がると、脱衣所に僕の着替えがちゃんと用意してある。

 風呂を入れてくれたり、着替えを用意したり、一体、なんなんだ。

 さっき僕に冷たくしたことを後悔して、気を使っているのかな?



 風呂上がりでリビングのドアを開けたら、中からいい匂いがしてきた。


 見るとリビングのテーブルに、料理が並んでいる。

 そこに夕餉の用意が、整っていた。


「いいお湯でしたか?」

 エプロン姿の弩が聞く。

「うん、いいお湯だった」

 僕は答えた。

「みんなで作ったの。すごいでしょ」

 花園が言う。

「料理とかしてみたけど、は、初めてだから、味は保証できないわよ」

 鬼胡桃会長が、顔を真っ赤にして言った。


 なるほど、そういうことか。

 僕は悟った。


 縦走先輩が僕を外に連れ出して、その間に残ったみんなで、こんなサプライズを仕込んでくれたんだ。

 僕のために、みんなで一生懸命料理をしてくれた。

 公園で縦走先輩が手を握ってきたのも、このための時間稼ぎが目的だったんだろう(それはちょっと残念だけど)。


「これはけじめだから言っておきます。夏休みの間、ありがとう。大変お世話になりました」

 鬼胡桃会長が言って、弩と萌花ちゃん、縦走先輩とヨハンナ先生が頭を下げる(あんまりお世話できなかった古品さんもついでに)。

「おかげで、楽しい夏休みが過ごせました」

 弩が続けて言った。


「妻のお世話をするのは、主夫として当然ですから」

 母木先輩の真似をして言ってみたけど、僕だとなんか全然、様にならない。

 感動して、僕の目はうるうるしてたし。



「それじゃあ、みんなで頂きましょう」

 ヨハンナ先生が言う。

「はい!」

 みんなが一生懸命作ってくれた夕食を頂く。


「これは、私と萌花ちゃんで作った、ちらし寿司です」

 古品さんが言って、寿司桶から、僕の分を取り分けてくれた。

 少し甘いけど、ちゃんとお酢が利いてるし、しゃきしゃきしたレンコンがおいしい。


「こ、これは私が作ったハンバーグよ。食べればいいじゃない!」

 鬼胡桃会長が言う。

 表面が焦げて黒くなったハンバーグに、デミグラスソースがかけてあった。

「べ、別に焼きすぎたわけじゃないんだからね! 少しビターな、大人の味を表現しただけよ!」

 会長が言った。

 本当に、少しビターだけど、中にチーズが入っていたり、デミグラスソースの味が深くておいしい。


「これは、私が作りました!」

 弩が自信たっぷりに皿を差し出してくる。

「なんだ、小籠包か? おいしそうだな」

「いえ、餃子です」

 そう言って、弩がいじけてしまった。

 ぷっくりと膨れたこの形は、小籠包にしか見えないのだが。

「うん、おいしい、お肉たっぷりで、お店の餃子よりもおいしいよ」

 僕が褒めて、弩はなんとか立ち直る。

 お世辞じゃなくて、味は本当においしい。


「塞君、これは私が」

 ヨハンナ先生もお皿を差し出してきた。

 先生が作ったのは、オムライスだった。

 薄焼き卵が破れてないし、形もちゃんとラグビーボールみたいな形でまとまっている。


 ただし。


「先生、これはなんですか?」

 薄焼き卵の上に、ケチャップで「大スキ」と書いてある。

「なにって私の、き・も・ち」

 先生が言う。

 まったく、冗談にしても酷すぎる。

 年下の男子をからかって面白いのだろうか。

「ほら、あーんして」

 先生はそう言って、スプーンで一口すくって、僕の口に突きつけてくる。

 おいしいけど。

 中のチキンライスの玉ねぎが絶妙の歯ごたえだけど。


 他にも、花園が作ったロールキャベツや、枝折が作った筑前煮など、夕食のテーブルは豪華だ。


「それじゃあ、みんなで食べましょう」

 鬼胡桃会長が言って、夏休み最後の晩の宴が始まった。

 結局、その宴は夜まで続く。

 寿司桶いっぱいのちらし寿司とか、量が多すぎるかと思ったのだけれど、縦走先輩が残り物を全て食べ尽くしてくれた。

 最後にはテーブルの上に、ご飯粒一つ残らない。


 食後には食器の後片付けも、全部、女子がやってくれた。

 僕が手伝おうとすると、座っててくださいと、怒られる。



「さあ、明日は始業式だし、今日は早めに寝ましょう」

 ヨハンナ先生が言って、最終日も、リビングに布団を敷いてみんなで寝た。

 僕の右隣は弩で、左隣がヨハンナ先生だ。


 早めに寝ましょう、と言いながら、僕達は夏の想い出をしゃべっていて、全然眠らなかった。

 電気を消して横になって、みんなで延々、話し続けている。

 ガールズトークに交じって話を聞いていると、楽しい。


「そういえば、篠岡先輩は夏休みの宿題、終わったんですか?」 

 弩が何気なく訊いた。

「えっ?」

「いえ、先輩、家事とか私達の世話とかで忙しかったのに、よく宿題やる時間あったなと思って」


 しゅ、宿題………


「まさか」

 と、ヨハンナ先生。

「やってないの?」

 鬼胡桃会長がそう言って、みんなが布団から起き上がる。

 枝折が電気を点けた。


「やってません」

 みんなのことばかり気にしてて、自分の宿題のこと、すっかり忘れていた。

 ほとんど、手を付けていない。


 そのとき丁度、リビングの時計が午前零時を指した。

 8月が終わって、9月1日になる。

 あと数時間で、僕は学校に行かなければならないのだ。


「みんなで、分担して手伝えば、朝までには何とかなりますよね」

 弩が言った。

「そうね。私達が徹夜すればいいだけのことだものね」

 鬼胡桃会長が言う。

 女子達は手伝う気、満々みたいだ。

 僕のために……本当に、感激して泣きそうになる。


「いいから、今日はもう寝なさい。みんなも、落ち着いて」

 ヨハンナ先生がそう言って、僕を布団に寝かせた。

 仰向けになった僕に、布団を掛ける。

「でも……」

「私を誰だと思ってるの? あなたの担任教師だよ」

 ヨハンナ先生が、そう言って僕にウインクした。

「まあ、ゆっくりやって、冬休みが始まるまでに提出してくれれば、それでいいよ」


 僕の夏休みは、こんなふうに終わった。

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