第76話 バブル
河東先生の娘、萌花ちゃんは、寄宿舎での生活に順調に
元々、弩とは友達だったし、他の寄宿生は一癖も二癖もある人ばかりだけれど、基本、面倒見がいいから、萌花ちゃんは「たくさんのお姉ちゃんが出来たみたい」って喜んで
僕達主夫部がする家事の手際の良さに、萌花ちゃんは最初、驚いていたものの、二、三日したら、だいぶ慣れたようだ。
僕達の家事に慣れて、空気みたいなものだと思ってくれればそれでいい。
初日みたいに、食事を作るたび、弁当を渡すたびに「ありがとうございます」って丁寧にお礼を言われたり、制服やパンツを洗うたびに「すみません」って謝られたら、こっちも疲れてしまう。
慣れすぎて感謝の言葉一つもなく、服を廊下に脱ぎ散らかすヨハンナ先生みたいになるのは、考えものだけど。
受け入れた側の僕達の主夫部のほうは、今までよりも一人、人数が増えたというだけで、あまり変化はなかった。
一人分増えたくらいなら、別に今までの家事の手順を変える必要もない。
ただ一つ、困ったのは、萌花ちゃんが寄宿舎の中で、ヨハンナ先生の写真を撮りまくることだ。
あの容姿で中年男性みたいな行動をするヨハンナ先生には、萌花ちゃんもその芸術的センスが刺激されるらしく、シャッターチャンスを見付けては
暑いこの時期、ヨハンナ先生は寄宿舎の中を半裸みたいな格好で歩き回るから、僕は萌花ちゃんが写真を撮ろうとする度に、先生に服を着せなければならなかった。
萌花ちゃんが来てから、先生に服を着せる仕事が増えたのが唯一の変化だ。
ヨハンナ先生に服を着せる仕事。
そこだけ抜き出すと、なんか、すごく夢のある
そして、あれ以来、河東先生からは、管理人であるヨハンナ先生や、寄宿舎への接触はなかった。
もちろん、主夫部に対する接触もない。
新しい環境で娘がどうしているか、とか、一度くらい見に来てもいいのに。
先生と萌花ちゃんは、学校ですれ違っても、他の生徒のときと同様、ちょっと
それだけでも、毎日、チラッとでも顔が見られるから安心なんだろうか。
元気でいることが分かるから、いいのか。
でも、萌花ちゃんのほうは、こうして僕達主夫部が鉄壁の家事でお世話しているからいいけど、一方で残された河東先生は、家で一人、どうしているんだろう。
ここ数日、僕はそれが気掛かりだった。
河東先生の家は、散らかったり、シンクに汚れた食器が溜まったりしていないだろうか。
洗濯機に洗濯物が溜まったりしていないだろうか。
先生はちゃんとした食事をとっているのか、それも気になる。
それで僕は、放課後の主夫部の会議で、河東先生の家を見に行ったらどうかと、提案してみた。
「ははは、篠岡。君はおかしなことを言うなあ」
母木先輩はそんなふうに言った。
「そうですよ、先輩。河東先生が僕達主夫部にしたこと忘れたんですか?」
御厨が言う。
「篠岡、何か
僕が純粋に河東先生を心配してるって信じない錦織は、
「篠岡、僕達は萌花君のためなら、どんなことだろうと、労を惜しまないが、河東先生に義理はないぞ。
母木先輩が言う。
僕だって先輩の言うとおりだと思う。
先輩のほうが100%正しい。
でも、気になって仕方がないのだ。
河東先生だって、一度は洗濯物を洗ってあげた
「分かりました。それじゃあ、僕一人で行ってきます。もちろん、主夫部には迷惑をかけません。これは僕の単独行動です」
僕が言うと、母木先輩の口元が、少し笑った。
ヤレヤレって感じで。
それに釣られて、みんなも笑う。
「篠岡先輩らしいです」
「篠岡だな」
御厨と錦織が言った。
「君がどうしても行くというなら、僕達は止めない。
先輩は、大人な忠告をする。
「はい。分かりました」
結局、部のみんなは許してくれた。
みんなに送り出されて、僕は河東先生の家に向かう。
ソファーで今日のおやつ、ライチ風味の杏仁豆腐を食べていたヨハンナ先生は、もうなにも言わなかったし、なんの反応も見せずに、杏仁豆腐を食べ続けた。
たぶん、僕が変なことを言い出すのに、慣れてしまったんだろう。
これは先生の進化なのだろうか。それとも退化か。
念のため、家に行く前に体育館を覗いて、河東先生がそこにいるのを確認しておいた。
もう、前みたいに、先生が体育館を抜け出して、家の中でばったり出くわす、なんてことがないのを祈ろう。
河東先生の家の鍵は、以前、萌花ちゃんに教えてもらったままに、勝手口のカエルの置物の下に、あった。
それを使って家に入る。
家に入った途端、僕は異変に気付いた。
焦げ臭い匂いが鼻を突く。
卵か何か、タンパク質が焦げた匂いがした。
匂いの元は、ガス台の上のフライパンみたいだ。
ガス台の上に、焦げたフライパンが放置されている。
フライパンの中で、卵焼きを作ろうとしたような、長細い塊が炭になっていた。
僕は急いで換気扇を回す。
異変は焦げたフライパンだけではない。
ガス台の横のシンクには、洗っていない食器や、調理器具が、そのまま突っ込んであった。
三角コーナーにもゴミが
たぶん、ジャガイモの皮だろうけど、中身の部分が分厚く付いた皮が、山盛りに捨ててあった。
床には、塩か砂糖か、白い粉粒が床にばらまかれていたり、小麦粉のような細かい粉も散っている。
冷蔵庫が半開きになっていて、ピーピーと警告音が鳴り続けていた。
これは
いくら河東先生が忙しいとはいえ、一週間もしないうちにこんな荒れた状態になってしまうなんて。
萌花ちゃんが家事をしなくなっただけで、こんなに汚くなるとは……
ヨハンナ先生といい、この河東先生といい、先生という人種は、こうも整理整頓が出来ないんだろうか。
それとも、特別なツートップがこの学校に集まってしまっただけなのか。
駄目だ。
こんなに酷い家の中を見ていたら、我慢ができなくなった。
片付けよう。
母木先輩、言いつけを守れなくて、済みません。
我慢できない僕を許してください。
でもたぶん、この
体が勝手に動きます。
僕が心の中で先輩や主夫部のみんなに謝って、鞄に常備しているエプロンを広げたときだった。
「きゃーーーーーーーーー!」
脱衣所のほうから、悲鳴が聞こえた。
ちょっと鼻にかかった、でも可愛らしい声だ。
少なくともそれは、河東先生の悲鳴ではない。
萌花ちゃんの声でもない。
脱衣所に走っていってドアを開けると、中から真っ白な泡がどばっとはみ出してきて、廊下に溢れた。
泡は中からどんどん流れて、廊下に広がっていく。
これ以上、泡が廊下に広がったらいけないから、僕は脱衣場の中に入ってドアを閉めた。
脱衣場の床は、風呂場まで辺り一面、泡だらけだ。
泡は僕の膝の高さくらいまで積もっている。
泡の発生源は洗濯機みたいだった。
僕は動いている洗濯機の蓋を閉めて、緊急停止する。
泡はそのあともしばらく出続けて、漸く勢いが止まった。
「すみませーん。どなたですか? 助けてくださーい」
泡の中に、誰かいる。
さっき悲鳴の主か。
「転んじゃって、
泡の中から、助けを求める手がにょきっと生えてきた。
助けを求めている割には、随分とのんびりした声だ。
僕はその手を取って、助け起こす。
助け起こすと、その声の主は、僕よりも相当背が高く、百八十センチ以上あった。
百八十センチ以上ある大きな泡の塊が、僕の前に立っている。
僕と大きな泡の塊は、河東先生の家の脱衣所で
正体不明の泡の塊と、不法侵入者の僕と。
この場合、怪しいのは一体、どっちなんだろう?
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