第75話 黄昏の外国語教師

 河東先生は、その日のうちに萌花ちゃんの荷物をハイエースで運び出した。

 十五人乗りのハイエースだけあって、萌花ちゃんの部屋の家財道具も、お父さんの部屋から持ち出すカメラ関係の器材も、一回で全部載ってしまう。


 林の入り口に乗り付けたハイエースから、主夫部と寄宿生が総出で荷物を寄宿舎まで運んだ。

 こんなとき、勉強机を一人で軽々と持ち上げてしまう縦走先輩の腕力が頼もしい。

 逆に自分の非力さを思い知らされる。



 萌花ちゃんの部屋は、110号室に決まった。

 弩の部屋から、「開かずの間」だった111号室を挟んだ、二つ隣の部屋だ。

 こんなふうに、いつ寄宿生が増えてもいいように、母木先輩が空き部屋を全部、塵一つない状態に保ってあるから、希望者があればすぐ入居出来る。


「反抗的な娘がいなくなって、清々するわ。部屋も空いたし、バレー部員を招いて、ワイワイ出来て丁度いいし」

 最後の段ボール箱を車から下ろしたあと、河東先生は、萌花ちゃんに聞こえるよう、そんなふうに言った。

 萌花ちゃんは、それが聞こえてないかのように振る舞う。

 まったく、頑固な母娘だ。


「それじゃあ、せいぜい頑張りなさい」

 先生はそう言い残して、ハイエースで帰った。


 あんな言い方をしているけれど、河東先生は毎日の家事が萌花ちゃんの負担になっているって、前から考えていたんだろう。

 それが、萌花ちゃんが何かにチャレンジするための足枷あしかせになるって考えて、今回の騒動を切っ掛けに、寄宿舎に入れる決断をしたんだと思う。


 それは正しい選択だ。


 萌花ちゃんにとって家事が負担になっているなら、負担にならない僕達がやればいいだけのことだし。

 負担にならないどころか、それに生き甲斐を見付けている僕達主夫部に任せればいい。

 夫として僕達は、萌花ちゃんが夢を叶えるのを全力で支える(ホントの夫じゃないから、寄宿舎にいる間だけだけど)。

 それで萌花ちゃんも僕達もWin-Winだ。


 だけど、萌花ちゃんを家から出さなければならない河東先生にとっては、これは辛い選択だったかもしれない。

 先生は今頃、家で枕を濡らしているかもしれない。


 いや、河東先生に限って、それはないか。



「好きな食べ物と、どうしても苦手な物、教えてもらえるかな?」

 110号室で、本棚に本を並べながら御厨が萌花ちゃんに訊いた。

 御厨の壮大な計画、すべての女性をぽっちゃりにする計画に於いて、それは重要なデータだ。

「好きな食べ物はロールキャベツです。苦手な物は、特にありません」

 萌花ちゃんが言うと、御厨はうんうんと嬉しそうに頷いた。


「後で体を細かく採寸さいすんさせてもらうけど、いいよね」

 窓に萌葱もえぎ色のカーテンをかけながら、錦織が訊く。

「あっ、えっと、はい」

 萌花ちゃんは恥ずかしそうに答えた。

 スリーサイズを訊くどころではない、体を丸裸にするようなデータを収集は、錦織が萌花ちゃんの体にぴったりと合った服を作るためだから仕方ない。


「これは主夫部がいるこの寄宿舎に入るための通過儀礼つうかぎれいだと思って諦めるしかないわね。でも安心して、基本的にこの人達、自分の仕事に熱心なだけで、下心はないから」

 床を雑巾掛けしている鬼胡桃会長が、萌花ちゃんに言った。

 会長が最近着ているボルドーのワンピースも錦織作で、以前着ていた既製服よりも数段かっこいい。


 でも、下心がないだなんて、なんだか心外だ。

 無害な人間みたいな言い方はやめて欲しい。

 僕達にだって下心は少しはある。

 歴とした男子高校生なんだし。


「あれ? 篠岡先輩は萌花ちゃんに何か訊かなくていいんですか?」

 段ボールから縫いぐるみを取り出して、窓際に並べている弩が、僕に訊いた。

「ああ、もう訊くことはないな。この前、洗濯物の畳み方の好みについては教えてもらったし、さっきから萌花ちゃんの匂いを嗅いでるけど、使っている柔軟剤はもう分かったし」

「あ、はい」

 当たり前のことを言っただけなのに、弩はなぜかあきれた顔をして僕を見る。

 最近、弩の僕に対するツッコミが厳しくなっている気がする。


「でも、良かったじゃないか。これで寄宿生が一人増えた」

 ベッドを組み立てている縦走先輩が言った。

「そうね、私達三年生が卒業したら、この寄宿舎は弩さん一人だけになっていたものね」

 鬼胡桃会長が続ける。

 そうか、来年三年生が卒業してしまうと、鬼胡桃会長も、縦走先輩も、古品さんも、そして母木先輩もいなくなってしまうのだ。

 寄宿生は、弩一人になってしまうところだった。


「僕達残った三人で、弩一人を徹底的に世話するのも、いいかもしれないけどな」

 僕が言うと、弩はそれを想像したのか、「ふええ」とこぼした。

 一体、それの何が不満なんだ。



「そうだ、萌花ちゃん、私とか『ぱあてぃめいく』の写真撮ってよ。ブログの写真をスマホじゃなくて、ちゃんとしたカメラで撮ってもらえたら、嬉しいし」

 衣類をチェストに仕舞っていた古品さんが言う。

「えっ、いいんですか?」

「うん、オフショットとか、本物のカメラマンさんの前だと緊張して出来ない表情とかも、これから一緒に暮らす萌花ちゃんの前なら、出来ると思うし」

「はい、こちらからお願いしたいくらいです。撮らせてください。お願いします」

 そう言って、萌花ちゃんは、さっそく首から提げているカメラで、古品さんを撮った。

 引っ越し作業をしながら、古品さんだけではなく、鬼胡桃会長や、縦走先輩、弩にもレンズを向ける。

 萌花ちゃんは女性陣だけでなく、主夫部の男子部員も撮った。

 僕なんて撮っても仕方ないのに、僕の写真も撮ってくれる。

 萌花ちゃん曰く、被写体として魅力的、なのだそうだ。


 男として魅力的、ではなく、被写体として魅力的。

 なんか、微妙な言い回しだ。



「先生、先生も一枚いいですか?」

 手伝いもせず、玄関にぼーっと立っていたヨハンナ先生を萌花ちゃんが撮ろうとするから、僕は先生の部屋からカーディガンを持ってきて、先生の肩に掛けた。

 さすがに、スリップ一枚ではまずいだろう。


 このときヨハンナ先生を撮った萌花ちゃんの写真が、後に小さな写真コンテストの大賞を取ったのだけれど、そのときの審査員の批評が秀逸しゅういつだった。


 それは、こんな文章だ。



 先生、とタイトルがついたこの作品。

 その容貌から見るに、北欧辺りの国から来日した、外国語教師だろうか。

 古い洋館の玄関ホールに佇む彼女の視線がぼんやりとしているのは、遠い祖国に思いをせているのだろう。

 気候も、習慣も、生まれ故郷とはまるで違う環境の中で、少し疲れているような物憂げな表情を切り取ったこの写真は、教師の使命感と、望郷の念の間で揺れ動く、彼女の本質をよく表している。



 いや、ヨハンナ先生は日本生まれ日本育ちの日本人だから!

 表情が冴えないのは前日の二日酔いから抜け出せない間に、河東先生との厄介やっかいごとに巻き込まれて、呆然としているだけだから!

 そして、先生が考えているのは、多分、今日の夕飯のこととかだから!


 批評に対して、先生を知る全員が一斉にツッコミを入れたのは、言うまでもない。



「よし、それじゃあ、今日はこれから、萌花君の歓迎パーティーにしようじゃないか」

 萌花ちゃんの部屋が大体片付いたところで、母木先輩が言った。


 それには大賛成だ。

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