第77話 マイペース
「もう、あわあわで、たいへんです」
彼女は顔や体についた泡を払いながら言った。
泡の中から現れた、背の高い女の子。
泡を払ってみると、彼女は下がバレー部のジャージで、上はTシャツを着ている。
この前、バレー部の体育館を偵察したときに見た顔で、上級生の練習に、並んで声援を送っていた中の一人だから、一年生部員だと思われた。
「どうしてこんなことに? なんで君はここにいるの?」
僕は当然の質問をする。
「えっとー、河東先生の家事を手伝っていて、洗濯していたら、こんなことに……」
「えっ? 河東先生はバレー部員に家事手伝わせてるの?」
萌花ちゃんを寄宿舎に入れて家事をする人がいなくなったと思ったら、自分が顧問を務めるバレー部の部員にさせるなんて。
「あっ、いえ、違います。これは私達が自主的にやってるんです。先生はお忙しいだろうから、みんなで話し合って、まだ球拾いくらいしか出来ない私達一年生部員が、一人ずつ交代でしようって決めて」
「ホントに?」
「はい、無理矢理させられてるとかじゃありません」
彼女は強く言い切った。
言い方や表情を見る限り、嘘ではないのだろう。
「それで、僕は、篠岡塞っていうんだけど……」
突然、知らない男が家の中に現れたんだから、「誰ですか?」って訊かれると思ったのに、全然訊いてこなかったから、仕方なく僕は自分から名乗った。
なんか間抜けだ。
本来なら、先生の家に勝手に上がり込んだ僕に対して疑問を持って、悲鳴を上げるなり、その辺にあるものを投げつけたりするべきなのに。
いや、別に投げつけて欲しいわけじゃないんだけど。
「知ってますよー。髪を洗うのが上手い先輩ですよね」
彼女が無邪気な笑顔で言う。
髪を洗うのが上手い先輩?
僕のことは下級生の女子の間でそんなふうに広まっていたのか。
きっと文化祭の影響だろうけど、これは喜んでいいのか、戸惑うべきなのか。
かっこいい先輩とか、足が速い先輩、じゃなくて、髪を洗うのが上手い先輩……
「私は
百八十を越える身長で、僕は彼女を見上げる格好になる。
眉が全部見えるくらいに前髪を切ったショートカットの髪に、優しそうな目、真っ赤なほっぺた。
別に泡まみれになってるからじゃないけど、なんだか彼女はふわふわしている。
同じ運動部で背が高い女子なのに、縦走先輩とは全然違う。
正反対って言ってもいいくらいだ。
「それで、どうしてこんなことになっちゃったの?」
僕は床一面の泡を指して言った。
「えっと、分かりません」
「洗剤を全部入れたとか?」
そんなアニメみたいなことはあるのか。
「いえ、入れてません。ちゃんと説明書通り入れました」
「じゃあ、なんでこんなことに……」
「えっと、確か、台所で夕御飯の支度をしていて、卵焼きが焼ける間に、洗濯機だけ回そうとして、洗濯機に洗剤を入れてたら、台所で焦げ臭い匂いがして、慌てて火を消しに行って、帰ってきたらこんなことに」
火をつけたコンロの前を離れるなんて。
これが妹の花園か枝折だったら、本気で怒っているところだ。
「もしかして、台所に行くとき、洗剤は洗濯機の縁に置いたのかな?」
「そうかもです」
洗濯機の中を探ってみると、ほぼ空になった洗剤の容器が見つかった。
「慌てて走って行ったときに、倒しちゃったみたいだね」
「はい、どうしましょう」
なんだか危機感があまり感じられない言い方だけれど、彼女は本当に困ってるらしい。
彼女をそのままにしておくわけにもいかないから、脱衣所から風呂場に入ってもらって、風呂場のシャワーで体の泡を洗い流す。
「シャワー冷たくない?」
「はい、ちょうどいいです。すごーく、気持ちいいです」
泡を落としながら彼女は
僕は彼女に水をかける。
泡を落とす。
あれ、でも、ちょっと待って、この状況。
よく考えてみると、僕は今、河東先生の家の風呂場にいて、バレー部の一年生が全身泡だらけになっていて、その彼女の体に僕がシャワーで水をかけている。
なんか、ものすごく誤解を招きやすい気がする。
いや、気がするどころの話じゃない。
誰かに見つかったら、完全に誤解を招く。
100人中、100人が誤解する。
今はただ、この状況で、河東先生がここに帰ってこないことを祈ろう。
マジで祈ろう。心から祈ろう。世界中の神々に祈ろう。
祈りながら、僕は泡だらけの一年生にシャワーで水をかける。
そういえば、河東先生の家で何を見付けても手出しをしてはいけないという、母木先輩や部員との約束、結局、守れなかったな。
僕の祈りが通じたのか、彼女の体に付いた泡と、脱衣所の泡を大体流し終わって、誰にも見つからずに済んだ。
でも、彼女はまだ濡れたTシャツとジャージを着たままだ。
「着替えは持ってないよね?」
「はい、部活動の途中で、体育館からこのまま来たので持ってません」
「分かった。ちょっと見てくるから、その間に自分でシャワー浴びて最後まで流しちゃって」
僕はそう言って二階に上がる。
だけど、萌花ちゃんの衣類はすでに持ち出してしまった。
あったとしても、萌花ちゃんと彼女では体格が違いすぎて着られないだろう。
だとすると、河東先生の服だ。
河東先生の洋服箪笥から、部屋着のスウェットとパンツを借りて、一階に降りる。
「着替え、ここに置いておくよ」
風呂場の外から声を掛けると、「はーい」って、明るい声が返ってきた。
彼女がシャワーを浴びている間に、濡れた衣類を洗濯機に入れて、脱衣所の泡の残りを始末する。
廊下にはみ出した分の泡もすくい取って、雑巾掛けしておいた。
廊下が綺麗になった頃に、彼女が先生のスウェットを着て、タオルで髪を拭きながら出てくる。
先生の服は、彼女のジャージが乾くまで借りておくことにしよう。
「でも先輩、先輩はどうして、こんなに河東先生の家に詳しいんですか? パンツがある場所とか、なんで知ってるんですか?」
「それはちょっと色々あって」
「色々ってなんですか?」
彼女が突っ込んで訊いてくるから、適当に誤魔化した。
複雑な事情があるのだ。
すごく複雑な。
「ところで、台所をこんなに汚くしたのは君なんだね?」
「はい、お料理も失敗しちゃいました。私が来る前はすごーく綺麗でしたけど」
良かった、だらしない教師は、いなかったんだ(ヨハンナ先生以外は)。
「じゃあ、こっちも片付けちゃおうか?」
「はい!」
すごく好い返事だ。
運動部らしい返事だ。
僕達は並んで台所に立った。
洗い物は僕が担当して、彼女が料理するのを横で見守って、時々アドバイスする。
彼女と台所に並んでいると、なんだか枝折や花園に料理を教えているときを思い出した。
僕の料理は、母から伝えられたものじゃなくて、本とかネットとかで調べたものを、自分なりにアレンジした料理だ。
だから枝折や花園が作る料理は、母の味じゃなくて、兄の味だ。
今日の先生の夕食の
御厨ならもっと凝った献立を考えるだろうけど、彼女達も一生懸命考えたんだから、仕方がない。
出来上がったそれらを、電子レンジで温めるだけにして、テーブルの上に準備しておいた。
あとは彼女にしばらく濡れタオルをぶんぶんと振り回してもらって、焦げ臭い匂いを消す。さすがバレー部だけあって、濡れたバスタオルを高速回転で振り回すから、まもなく匂いは消えた。
台所は綺麗になったし、これでもう、あの大惨事の
「あの、先輩、お願いがあります」
リビングのソファーで一息ついていたら、彼女が改まって言ってきた。
横に座った彼女からは、すごく良い匂いがする。
「もし、よかったらですけど、次の当番が私に回って来たとき、私の家事を見てもらえませんか?」
「えっ?」
「また、ここをめちゃくちゃにしちゃったら困るし、料理とか洗濯とか、色々教えてもらえると、嬉しいなって」
「いいけど」
働く女子を応援する。それが主夫部だ。
「良かった! お願いします! メアドと電話番号、教えますね」
彼女は、本当に嬉しそうに言って、メールアドレスと電話番号を教えてくれた。
僕のスマホの中には、登録した女子の名前が着々と増えている。
主夫部を作る前は、女子といえば妹の枝折と花園くらいしかなかったのに。
妹を女子のカテゴリーに加えざるを得ない、
「それと先輩」
「なに?」
まだ何かあるのか。
「いつか、髪を洗ってもらってもいいですか?」
「えっ?」
「すごーく噂になってたし、文化祭のとき行けなかったから、男子に髪を洗ってもらうのって、どんな感じなのかなーって、思って」
「文化祭のとき、来ればよかったのに。なんで来なかったの?」
「はい、バレー部の先輩達に止められてたんです。主夫部の人達はすごい女たらしで、何人もの女子を泣かせてる極悪非道な人達だから、近づいたらいけないって」
酷い。
酷い風評被害だ。
主夫部を妨害するためにそんな噂を流したんだろうけど、僕達は、こんなに清く正しい男子高校生なのに。
「でも、今日助けてもらって、篠岡先輩、すごーく良い人っぽいから、安心かなって」
彼女が言う。
女たらしも酷いけど、良い人もちょっと微妙だ。
どっちにしろ、恋愛対象にはならなそうだし。
「もちろん、いいよ。こんど寄宿舎の脱衣所で……」
「あっ、そうだ!」
彼女が僕の話を遮った。
「な、何かな?」
彼女には、どこかペースを崩される。
「今でもいいですよね。ここの、先生のお家のお風呂を借りて今、髪を洗ってもらっても」
彼女はあっけらかんとした顔で言う。
「いや、それはやめておこう」
まったく、なんてことを言うんだ。
河東先生が帰ってきて、風呂場で僕が女子バレー部一年生の髪を洗ってたら。
それを先生が見たら……
僕は
確実に殺られる。
三回殺られる。
僕はきっと、細胞の一つも残さず、この地球上から消されてしまうことだろう。
「風呂場で髪は洗えないけど、頭のマッサージなら、今でもしてあげられるよ。すごく気持ちいいから」
僕はそう言ってソファーに座る彼女の後ろに回ると、首筋に親指を当ててマッサージを始めた。
彼女は僕に完全に身を任せる。
首の筋肉から、力が抜けていく。
「先輩」
「なに?」
「もういいです」
「なんで? 始めたばっかりなのに」
「いえ、私の目の前で、さっきから弩さんが、なんかすごく怖い顔で睨んでるから」
「はぁ?」
いつの間に入ってきたのか、リビングの入り口で、腕組みの弩が、僕のことを親の
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