第71話 チョコミントアイス

「どうしても行くと言うなら、私を倒してからお行きなさい!」

 ヨハンナ先生はそう言って、部室のドアの前に立ち塞がった。

 手を広げて、部室を出て行こうとする僕達を全力で止めようとする。


「先生、早くしないと、おやつのチョコミントアイス、溶けちゃいますよ」

 僕が言った。


 部室のテーブルの上には、先生のおやつ用のチョコミントアイスが、ちょうど食べ頃の溶け加減で、用意してある。

 表面にはすっとスプーンが入って、中のほうはまだカチカチ、そんな感じだ。


贅沢ぜいたくにマリエンホーフのペパーミント・リケールを使った、御厨の最高傑作のチョコミントアイスですよ」

 錦織が畳みかける。


「ひっ、卑怯なっ! 私がチョコミントアイス大好きなのを知ってって……鬼! 悪魔!」

 これくらいのことで僕達を悪魔呼ばわりしないでほしい。


「先生、大丈夫です。絶対に河東先生にはばれませんから。それに僕達は、同じ学校の生徒が夢を叶える課程を、少し手伝ってあげるだけです。家事をして手伝うだけです。たとえそれが河東先生にばれたとしても、少しも後ろめたいところはありません」

 母木先輩がゆっくりと言った。

 いつも思うけれど、先輩の柔らかくて落ち着いた声には、素直に従ってしまうような、説得力がある。


 先生は黙って、ドアの前から退いた。

 椅子に座って、チョコミントアイスを食べ始める。


「それでは先生、行って参ります」

 僕達が言っても、先生は返事をせずに、チョコミントアイスを食べ続けた。


 許してくれた、ということでいいんだろう。




 萌花ちゃんから預かった鍵で、目立たぬよう、勝手口から河東先生宅に入る。


 手筈てはず通り、御厨と錦織は台所に、僕は脱衣所の洗濯機、母木先輩は風呂場に向かった。


 もう一人の主夫部部員、弩は学校に残って、今頃、体育館二階の観客席で、こっそりと河東先生を監視しているはずだ。

 大丈夫だとは思うけれど、万が一、先生の帰りが早まったりしたら大変だから、そのために弩を配置している。



 洗濯機が回っている間、僕は母木先輩の掃除を手伝った。


「先輩、少しやりすぎです」

「そうか? う~ん」

 先輩は風呂場の鏡を完璧に磨き上げようとしていた。

 そこまでしないで、隅のほうの水垢みずあかは残しておいたほうがいい気がする。


 先輩を手伝っている間に洗濯が終わって、僕は洗濯物を乾燥機に入れた。

 僕はいつも、花園と枝折を先に風呂に入れて、最後に自分が入ったあとで洗濯機を回して、夜のうちに干すスタイルだけど、この家では、その日の洗濯物は洗濯機に放り込んでおいて、翌日に片付けるスタイルらしい。

 河東先生が仕事で遅くなることもあるからだろうか。

 二人分の洗濯物は僅かで、乾燥機に掛けるのももったいないくらいだ。

 このまま、外に干してあげたい気もするけど、ここは仕方がない。


 僕は萌花ちゃんの指示通り、洗濯の終わった衣類や下着、タオルを、河東先生の分と、萌花ちゃんの分に分けて、それぞれの部屋のチェストの上に置いておく。

 そこから先は、各人がやる決まりらしい。



 そんなふうにしていたら、萌花ちゃんの代行の家事は、二時間かからずに終わってしまった。


「この様子だと、明日から、一人でいいかもしれないな」

 母木先輩が言った。

「そうですね。金曜まで、一人ずつで四日分、ちょうどいいですし」

 錦織が言う。


 家の中には、御厨が作ったポークジンジャーの香りが漂っていた。

 萌花ちゃんが作ることになっていた今日の夕食の献立は、ポークジンジャーと茄子の煮びたし、ほうれん草とコーンの炒め物に、冷や奴だ。

 御厨はもう一、二品作りたいところを、グッと我慢したらしい。



「暇ですね」

「暇だな」

 萌花ちゃんがワークショップから帰ってくるのを待って、僕達はリビングのソファーでくつろいでいる。

 暇つぶしに、ここで宿題を済ませてしまおうとみんなで持ち寄ったら、母木先輩のおかげで三十分足らずで終わってしまった。


 流石は学年一位。


 いよいよ暇を持て余して、トランプでもあれば、と思ったけど、先生の家だから、引っかき回すわけにもいかない。


 こう、暇になると、網戸についた埃とか、エアコンのフィルターの辺りが気になって、手を出したくなる。


「これだけ暇だから、あれ、やりませんか?」

 台所を点検していた御厨が言った。

 御厨は、萌花ちゃんに対する、ちょっとしたサプライズを提案する。

「なるほど、やろう」

 フットワークが軽いところが、主夫部のいいところだ。




「お帰りなさい!」

 七時を回って、全員で玄関に萌花ちゃんを迎えた。


「ただいま」 

 制服姿で、いつものように、首からカメラを提げている萌花ちゃん。

 全員に迎えられた萌花ちゃんは、目を見開いてびっくりしていた。

 その萌花ちゃんの大きな目に、うっすらと涙が浮かんでくる。


「どうしたの?」

 御厨が訊く。

「いえ、こんなふうに賑やかにお帰りなさいを言ってもらえたのは、久しぶりだったから」

 萌花ちゃんが言う。

 そんなことで感動してもらえるなら、僕達はいくらでも言う。


 帰ってきた萌花ちゃんに、さっそく、家の中を点検してもらった。

 キッチンで、食卓の上の夕食の出来具合を点検してもらい、洗い上がった洗濯物も見てもらった。

 風呂場や、各部屋の掃除状況も確認してもらう。


「本当に、ありがとうございます。私なんかより、ずっと丁寧です」

 ずっと丁寧だと少し困るけど、まあ、許容範囲だろう。



 そこで御厨が、背中に隠し持っていたものを、萌花ちゃんに差し出す。

「これ、僕達、主夫部からのプレゼント」


「えっ、なんですか? これ?」


「手作りのスペシャルスイーツ。時間があったから、台所を借りて、作っちゃった。初めて参加したワークショップで、疲れたかと思って。甘いものが欲しいかと思って」


 空いた時間で、萌花ちゃんへのサプライズとして、スイーツを一品作った。

 御厨が差し出した皿の上にあるのは、ブルーベリージャムが乗ったレアチーズケーキだ。

 この家の台所にある食材を少しだけ使って、作った。ばれない程度に、少しだけ。

 夕飯の前にスイーツを差し出すのもどうかと思うけれど、これは別腹に入れてもらうしかない。


「ほら、先生が帰って来る前に、早く食べて証拠隠滅しちゃって」

 僕が言う。


「本当に、ありがとうございます」

 萌花ちゃんはそう言って、涙を零しながら、レアチーズケーキを食べた。

「おいしいです」

 萌花ちゃんは言う。


 涙の塩味が加わったから、少し味が変わったかもしれない。



 萌花ちゃんが食べるのを見守っていると、僕のスマホが鳴った。

 弩からの電話だ。

「先輩、河東先生が、今、駐車場に向かいました。もうすぐ車に乗り込みます。すぐに撤収願います」

 電話口で弩が言う。


「よし、分かった。報告、ご苦労」


 萌花ちゃんが部屋着に着替えている間に、スイーツの皿とフォークを洗って、僕達はここを去った。

 家の中に僕達の痕跡がないか確認して、指紋一つ残さずに消える。


 スパイのような完璧さだ。




「まったく、お兄ちゃん達は緊張感がなさ過ぎるよ」

 夕御飯のテーブルで、枝折が言った。


 僕は、河東先生宅、寄宿舎と渡り歩いて、本日三件目の夕飯の支度をして、テーブルに着いている。

 今日起きたことを話してたら、枝折と花園は、河東先生と僕達の確執について興味津々みたいで、しつこいくらいに訊いてきた。


「そこが敵陣のど真ん中ってことは、決して忘れてほしくないんだけど」

 枝折が言う。

「枝折は少し考えすぎだよ。ちゃんと弩が見張りに立ってるし、必要以上の家事をやってしまわないようにセーブしてるから、平気だから」


「だといいけれど」

 枝折はそう言って生意気に溜息をついた。


 嫌いな椎茸しいたけを皿の端によけて残そうとするから、僕は枝折を目で牽制けんせいする。

 枝折は恨めしそうな目で僕を見て、我慢して椎茸を食べた。


「まあ、いざというときには、花園と枝折ちゃんで助けてあげるから、お兄ちゃん達は自由にやったらいいよ」

 花園も生意気なことを言う。


「きっと、黒ウサギが助けるよ」

 黒ウサギ? なんのことだ。


 花園は時々、エキセントリックなことを言うから、始末が悪い。

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