第70話 虎穴

 虎穴に飛び込むといっても、当然、河東先生と萌花ちゃんは、洞窟の中で暮らしているわけではない。

 河東先生も、そこまでワイルドではなかった。



 学校からほど近い、庭付きの一戸建てが二人の住居だった。

 多分、住宅メーカーの建物だと思われる二階建てで、家の周囲にはゴールドクレストやオリーブ、ブルーベリーなどの庭木が何本も植えてある。

 それらの庭木には手入れが行き届いていて、落ち葉も綺麗に掃いてあった。

 青々とした芝生の庭には、煉瓦で組まれたバーベキューコンロもある。

 芝生の上にはデッキチェアが広げてあったり、陶器のカエルが幾つも置いてあったり、虎穴どころか、平和な一軒家だ。


 少し他の家と変わっている点といえば、二台分の駐車スペースの片方に、十五人乗りのハイエースが停めてあることだった。

 ハイエースは車体が大きくて、庭にまではみ出している。

 河東先生は、女子バレー部の遠征などのために、自腹を切ってこの車を買ったらしい。普通免許では十五人乗りのハイエースを運転できないから、中型免許を限定解除したのだとか。


 生徒のためにそこまでするのに、主夫部に大して容赦ようしゃなく妨害してくる。

 それは僕達にとって、せないところだけれど。




「本当に、ご迷惑をおかけします」

 ドアを開けて中から顔を出した萌花ちゃんは、いらっしゃいの挨拶の前に、まず、僕達に謝った。


 淡い黄色のエプロン姿の萌花ちゃん。


 垂れ目気味の童顔で、河東先生の面影は全くといっていいほど、ない。

 太めの眉毛に唯一、親子の共通点を見出せそうだけど、萌花ちゃんの眉は先生とは反対で、やさしそうに眉尻が下がっている。

 背丈は弩と同じか、少し高いくらい。

 長い髪を両側で二つに結んでいて、それは校則を忠実に守っているようだ。


「どうぞ、上がってください」

 彼女はフランクに僕達を招き入れる。

 敵陣に乗り込むつもりでいた僕達は、少し拍子抜けしてしまった。


 家の中も綺麗で、掃除が行き届いている。

 同じ先生の家でも、誰かのマンションとは大違いだ。



 僕達はリビングのソファーを勧められた。

 構わなくていいというのに、萌花ちゃんは冷たい麦茶で僕達を迎えてくれる。


 夕飯の支度の最中だったんだろうか、台所の方から、甘辛い醤油の香りが漂ってきた。

 生姜の香りも混ざっているから、煮魚でもしているらしい。



「この家の家事を一週間、代わって欲しいということだけれど」

 主夫部を代表して母木先輩が切り出した。

「はい、私の大好きな写真家が、ワークショップを開くんです。それにどうしても参加したいんです」

 萌花ちゃんはお盆を胸に抱いて言う。


「君が将来、写真家を目指しているという気持ち、それは本気かな」

 先輩が訊いた。

「はい、本気です」

「ただ格好いいから、とか、なんとなく目指している、とかではないんだね」

「はい、違います」

 萌花ちゃんは力強く言う。


 その力強い感じには、母親の血筋が見えたかもしれない。


 リビングのテーブルの上には、萌花ちゃんのものと思われるカメラが置いてあった。

 一眼レフカメラのニコンD3300だ。

 よく見ると、カメラの本体は新しいデジタルカメラなのに、付いているレンズは、マニュアルフォーカスの50ミリレンズだった。

 古いレンズで、鏡胴が傷だらけ。レンズの表面にも細かい拭き傷がついている。


 僕がそれを不思議そうに見ていると、

「そのレンズ、父が持っていたレンズなんです」

 萌花ちゃんが言った。

「マニュアルだけど、使いやすいし、F1.4で明るいレンズだから、普段使いのレンズにしています」

 萌花ちゃんはそう言って、カメラを手に取る。


「父の形見、みたいなものです」


 弩から聞いていた事前情報によると、萌花ちゃんの父親は、数年前に病気で亡くなっているらしい。

 それから、河東先生と、母子、二人の生活だとか。


「写真家をしていた父は、私に使わないカメラをくれて、使い方も教えてくれました。小さいころから、私はカメラが遊び道具でした」

 萌花ちゃんは、古いレンズを愛おしそうに撫でながら言う。


「写真家をしていたといっても、父は全然売れてなくて、それで稼ぐことは出来なかったから、この家は母の収入で支えていました。その代わり、この家の家事は父がしていました。私は料理とか、掃除とか、洗濯とかも、父から教えてもらいました。母から習ったという記憶はあまりありません」

 ということは、萌花ちゃんのお父さんは、主夫みたいな存在だったのか。


 僕達の先輩だった。


 主夫部を嫌っている河東先生の旦那さんは、主夫だったのだ。


 河東先生が僕達を嫌うのはその辺に理由があると、短絡的に結び付けて考えたくはないけど、無関係ではないだろう。

 その辺に僕達の行き違いの原因があるかもしれない。


「でも、父の夢を私が叶えよう、なんて思ったわけではありません。私は写真を撮るのが好きです。これは私の夢です。将来の仕事にしたいです。そして、それで将来、家族を支えます。支えてみせます」

 萌花ちゃんは言った。きっぱりと断言する。そこには強い意志があった。


 彼女は確実に、河東先生の娘だと確信する。



「それで、僕達が家事をするのは来週からでいいんだね」

 母木先輩が訊いた。

「えっ、受けてもらえるんですか?」

 萌花ちゃんが訊き返す。

「ああ、僕達はそのつもりだが」

 先輩は、僕達ほかの部員の意志を確認せずに言った。

 でも、反対する意見はだれからも出なかった。


 それどころか、

「一週間分の夕飯の献立とレシピを教えてもらっていいかな? 河東先生にばれないように、出来るだけその味を再現するから」

 御厨が言った。

 御厨はもう、夕飯の支度したくを萌花ちゃんと変わる気、満々だった。


「掃除で、特になにか気をつける点はあるだろうか?」

 負けずに母木先輩が訊く。

 母木先輩が全力で掃除をすると、この家から細菌一つなくなりそうだから、少し手加減する必要はあるかもしれない。


 それなら、僕もだ。

「箪笥の中を見せてもらっていいかな。洗濯物の、収納の仕方が見たいんだ」

 僕が言うと、萌花ちゃんは少し怪訝けげんな顔をした。

「先輩、失礼ですよ」

 弩が眉をしかめる。

「いや、収納方法の違いは重要だぞ。萌花ちゃんがやった洗濯ではなく、他人の洗濯だとばれる。身近な習慣だけに、その違いはすぐに感づかれてしまう。たとえば、弩のパンツの収納方法と鬼胡桃会長のパンツの収納方法は違うから、僕は洗濯して畳んだあと、いつもそれを考慮して仕舞うようにしてるし、特にヨハンナ先生のブラジャーの収納方法は、独特の方式で……」


「先輩、それ以上、言わなくていいです」

 弩に冷たく言葉をさえぎられた。

 弩は呆れ果てた顔をしている。


 すごく、重要なことなのに。


「二人、仲良しなんですね」

 まあ、萌花ちゃんが僕達のやり取りを見て笑ってくれたから、いいとしよう。



 その後、僕達は二時間かけて、萌花ちゃんから、この家の家事のレクチャーを受けた。

 違いや押さえるべき要点が分かれば、あとは僕達は毎日していることだから、教わる必要はない。


「そうだ、皆さんの写真撮っていいですか? 主夫部のみなさん、仲良さそうで素敵だし」

 帰り際に萌花ちゃんがそう言って、カメラの電源を入れた。

 僕達は萌花ちゃんの創作意欲を刺激したらしい。

 室内は暗いからということで、僕達は庭に並んで写真を撮った。

 虎穴に入るとか、意気込んでここに来たのに、今ではこうしてのんびりと庭で記念撮影なんかしている。

 何枚も写真を撮って、後でプリントしてもらう約束までした。


 そういえば、今まで主夫部で写真とか、撮ったことなかった。

 せっかく主夫部の記念写真なんだから、ヨハンナ先生も連れてくればよかった。

 まあでも、河東先生の家に行くって知ったら、ヨハンナ先生は柱にでもしがみついて、絶対にそこを離れなかったかもしれないけど。


「それじゃあ、来週」

 僕達はそう言って、家をあとにした。

 萌花ちゃんは、僕達が見えなくなるまで、門の前で手を振っていた。



「先輩、あとで、お話があります」

 萌花ちゃんが見えなくなったところで、まだツンツンしている弩が言う。


 僕は夫婦喧嘩の練習まで、したくないんだけど。

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