第69話 竹刀

「ほら、だらだらするな!」

 かすれた迫力のある声が、体育館に響いた。

「はい!」

 と、三十人ちょっといる女子バレー部員が、張りのある声を返す。


 その人は体育館の床に竹刀を突き立てて、つかの上に両手を置いていた。

 下は深緑のジャージで、上は白いTシャツ。

 Tシャツの袖は右手のほうだけ、肩までまくり上げている。

 引っ詰めた髪を後ろでまとめているけど、そのまとめ方が完璧で、後れ毛の一本も飛び出していない。


 髪の一本一本にまで規律を求める、という意志の現れなのかもしれない。


 その人は背筋を伸ばした姿勢でそこから少しも動かず、目だけを動かして、部員達一人一人の動きを見ていた。

 大きな目を見開いて、すべてを見通していると言わんばかりだ。


 身長は175センチくらいあって、僕よりも高い。

 腕の筋肉など見る限り、僕は腕相撲をしたら負けると思う。

 

 瞬殺される。


 床に突き刺している竹刀は、さすがに生徒に対して振られることはないけど、絶対的な力の象徴として手の中にあって、存在感を示していた。


 その人、河東かわとう薫子かおるこ教諭。


 これから僕達が立ち向かわなければならない相手だ。




 体育館の二階、観客席の最後列で、僕達主夫部は他の見学の生徒に隠れるようにして、河東教諭を見ていた。

 敵陣の視察に来たつもりだったけど、それはかえって僕達の戦意をぐような結果になってしまった。


 おかげでみんな無口だ。


 二階の観客席には、女子バレー部に声援を送りながら見学している生徒が、男女問わず大勢いた。

 背が高くてカッコイイ女子バレー部員は、人気の的なのだ。

 でも、生徒が送る声援も、度が過ぎると河東教諭の規制の対象となる。

 教諭が左手を少し上げると、それが「うるさい」っていう合図らしく、応援の生徒はピタリと声援を止めた。


 観客席まで、訓練されている。


「あれっ?」

 バレー部員を見ていたら気付いたことがあって、僕は思わず声を上げてしまった。

「どうした、篠岡?」

 母木先輩が訊いてくる。

「いえ、ちょっと気付いたんですけど、このバレー部員の中に、文化祭で僕のヘッドスパを受けた女子がいません」

 髪を洗った生徒の顔を僕はすべて覚えていた。

 髪の感触とセットで覚えている。

 ここにいる女子バレー部員の中に、その顔はない。


 三十人くらいいる部員の中に一人もいないのだ。


 主夫部には近づくなという指示が、河東教諭から出ていたのかもしれない。

 それとも、主夫部を嫌っているという河東教諭の意を察して、部員は自主的にこなかったのか。


 まあ、ただ単に僕が嫌われていたっていう可能性もあるけど。


「そう言われれば、みなさん、カフェの方にもいらっしゃらなかったような」

 カフェのフロアに目を配っていた弩が言う。

 やっぱり、主夫部は避けられてたのか。



「ほら、お前! 何度言ったら解るんだ!」

 河東教諭の声が、体育館に響く。

「はい、すみません!」

 教諭に怒鳴られた生徒は、直立不動で大声で謝った。


 顧問としての指導方法をヨハンナ先生と比べるのはナンセンスだけど、それにしても、違いすぎる。厳しい練習で有名な縦走先輩のトライアスロン部顧問の先生だって、こんな指導はしていない。


 僕達は見つからないように、静かに、体育館を出た。


 戦う前から、もう、敗北感が漂っている。

 体育館全体を包む雰囲気に、圧倒されてしまった。

 逆に恐怖を植え付けられてしまった。


 それを払拭ふっしょくしようとしたのか、母木先輩が言う。


「久しぶりに、あれ、やらないか?」


 顧問の河東教諭とバレー部員は、みんな体育館にいる。

 となれば、その部室はがら空きだ。

 誰もいない。

 僕達の思いのままだ。

 以前、新体操部や、女子バスケット部にしたように、女子バレー部にも、掃除や洗濯をしてやろう。

 汚く、乱雑な部室を綺麗にしてピカピカにしてやる。

 脱ぎ散らかされているTシャツや靴下を、真っ白に洗濯してやる。

 タオルをふかふかにしてやる。

 おまけとして、柔軟剤の良い香りをつけてやる。

 バレー部にはソフラン、アロマリッチのスカーレットにしてやろう。


 いい気味だぜ。

 主夫部の力を思い知るがいいさ。



 しかし、女子バレー部部室のドアを開けた途端、僕達のくわだては、木っ端微塵みじんに打ち砕かれた。


 部室内は、神経質なくらい整理整頓されている。

 中央のテーブルの上には、鞄の一つも置かれてなかった。

 部員の荷物は全部ロッカーにきっちりと仕舞ってある。

 床もピカピカだし、窓ガラスに指紋の一つもない。

 バレー部がこれまで獲得してきた無数のトロフィーは光り輝いていて、その上に埃の一つも見つからなかった。

 母木先輩基準でも手を出すところがないくらいに、綺麗だ。


「どうしたらこの輝きが出るんだ?」

 あの母木先輩が、床を見て困惑している。


 そして、部室の中に汚れた洗濯物なんて一枚もなかった。

 靴下どころか、ハンカチの一枚もない。

 窓の外の物干し竿に、タオルや、ユニホームが翻っているのが見えたから、きちんと、自分達で洗濯してるみたいだ。

 タオルを頬ですりすりしてみたけど、ふかふかに仕上がっていた。

 柔軟剤は無香料を使っているようで、香りがしない。


 完敗だった。


 悔し紛れに、隣のソフトボール部の部室をさっと片付けて、僕達は運動部の部室棟を出る。


 みんなの足取りが重い。


「さすがに、河東先生を相手にするのは無謀なような……」

 錦織が言った。

 僕も思っていたけど、言えなかったことだ。

「そんな、私、萌花ちゃんにワークショップ行かせてあげたいです」

 弩が言う。

「彼女の夢を叶えてあげたいです」

 けれど、その声は明らかに弱々しかった。

 弩にも、現実はちゃんと見えている。


「それを決める前に、萌花君、当人の声も聞いてみたいところだが」

 母木先輩が言う。

 そういえば、僕達はまだ、萌花ちゃんがどんな子なのか知らない。

 萌花ちゃんは河東教諭の生き写しのような、たくましい子なのか?

 それとも、教諭とは正反対の可愛らしい子なのか?


「私、電話してみます」

 弩がスマートフォンを取り出した。すぐに先方を呼び出す。

 留守電になってくれとか、電波が届かないところにいてくれ、とか、思ってしまった。


「今、萌花ちゃん、家で掃除をしているそうです」

 弩が言う。

 萌花ちゃんは、部活には出ずに真っ直ぐ家に帰って、家事の最中だった。


「萌花ちゃん、もしよろしければ、家に来てくださいって、言ってますけど。萌花ちゃんの家は、学校から歩いて十五分くらいの近所にあるそうです」

 弩が言って、僕達、男四人は息を呑んだ。


うかがう、と返事をしてくれ」

 母木先輩が言う。

 先輩は腹をくくった。


 僕達はこれから、虎穴に飛び込む。


 河東教諭は部活の最中だし、大丈夫だとは思うけど、念のため、行く前に電話で枝折と花園の声を聞いておこう。


 可愛い二人の妹に、大好きだと伝えてから、行こう。


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