第72話 カメラの博物館
翌日から、萌花ちゃんの家事代行は、主夫部部員一人ずつが交代で担当した。
火曜日は母木先輩が一人で担当して、水曜日は御厨、木曜は錦織。
みんな、
萌花ちゃんは写真家のワークショップに順調に通っていて、
それだけで、僕達が家事を変わった意義があったと思う。
そして、金曜の今日は、僕の番だった。
「それじゃあ、行ってきます」
「おう、がんばってこい」
母木先輩以下、部員全員が部室で僕を見送る。
「先輩、一人だからって、萌花ちゃんの部屋をいじくり回したり、萌花ちゃんのベッドの上を転がり回ったりしないでくださいね」
弩が言った。
「するか!」
まったく、弩は僕を、どんなふうに見ているんだ(確かに、ベッドの上を転がり回るのは魅力的だけど)。
失礼な!
「弩こそ、ちゃんと河東先生の見張りを頼むぞ。居眠りなんかして、先生を見逃すんじゃないぞ」
僕が仕返しすると、弩は「分かっています」と言って、ぷいっと横を向く。
なんだか今日の弩は、いつもより機嫌が悪い。
さっきから、妙に突っかかってくるような気がする。
先日来たときと同じように、僕は勝手口から河東宅に入った。
室内は綺麗だけれど、母木先輩がやりすぎていない、普通の綺麗さだ。
僕はとりあえず脱衣所に行って、洗濯機を回す。
洗濯機が回っている間に、掃除をしてしまおう。
風呂場の窓を開けて、シャワーで水を撒く。
梅雨の蒸し暑い中で、水浴びをしながらの風呂掃除が気持ちいい。
風呂には黄色いプラスチックのアヒルと、ゼンマイ仕掛けで泳ぐペンギンのおもちゃがあるけど、これは萌花ちゃんの趣味だろう。
そうであって欲しい。
これで遊んでいる河東先生は、想像したくない。
風呂掃除のあとは一階のリビング、ダイニング、客間の畳の部屋に掃除機をかけた。
その間に洗濯が終わって、洗濯物を乾燥機に入れる。
途中、誰かがこの家のチャイムを押したから、僕は息を潜めて居留守を使った。
まさか、出て行くわけにもいかない。
訪問者は三回チャイムを鳴らしたあと、諦めて帰っていった。
何かの訪問販売の勧誘だったみたいで、胸をなで下ろす。
一通りの掃除を終えたところで、洗濯物の乾燥が終わった。
リビングに洗い上がった洗濯物を持っていって、そこで畳んでいく。
自分の家で洗濯物を畳もうとすると、仕事から帰って家にいる母や父がだらだらと床に寝転がっていたり、花園がちょっかい出してくるから中々片付かないのだけれど、今日は一人でサクサク終わった。
畳んだ洗濯物は、二階の萌花ちゃんと河東先生の部屋に届ける。
萌花ちゃんの部屋を出て一階に下りようとしたら、隣の部屋のドアが、少し開いていた。
ドアを閉めようと近づくと、部屋の中が見える。
部屋の中には、防湿庫になっているガラスケースが幾つも並んでいて、その中にカメラの本体やレンズが、整然と仕舞ってあった。
カメラは古いフィルムカメラも含めて、二十台くらい、レンズは五十本以上ある。
他に、三脚や雲台、照明やストロボなど、八畳程の広さの部屋いっぱいに、カメラ関係の機材がぎっしりと詰まっている。
もしかしたらここは、萌花ちゃんのお父さん、つまり河東先生の旦那さんの部屋だったのかもしれない。
ドアを閉めるつもりが、僕は誘われるように、部屋の中に入ってしまった。
防湿庫の中には、まるで博物館みたいにカメラとレンズが並んでいる。
一眼レフカメラだけではなくて、ライカやニコンの古いレンジファインダーカメラもあるし、ローライの二眼レフカメラもある。
レンズは、バズーカ砲みたいな長い望遠レンズから、パンケーキみたいに薄くて小さなレンズまで、色々揃っていて、見ていて飽きない。
萌花ちゃんはここからレンズを持ち出して、自分のカメラに付けているんだろう。
お父さんが残してくれたものを、大切に使っているみたいだ。
防湿庫の棚の前には、二十枚くらいの写真立てが並んでいた。
写真立ての中の写真には、萌花ちゃんと河東先生が写っている。
そこに並んでいる大小様々な写真立て、その全部が、萌花ちゃんと河東先生の写真だった。
二人の写真しかない。
撮影者が誰かは、訊かなくても分かった。
僕は写真立ての一つを手に取る。
それは中学校の入学式の写真だった。
少し大きめの制服を着た萌花ちゃんと、紺のスーツの河東先生が、桜の舞う校門の前に並んでいる。
河東先生は萌花ちゃんの肩に手を掛けて、カメラに向かって、微笑んでいた。
その笑顔は、萌花ちゃんにも、撮影者にも向けられていた。
河東先生にもこんなに柔らかい表情が出来るんだと思った。
笑顔になると、確かに、河東先生と萌花ちゃんに血縁関係があると納得する。
どこか人懐こいような二人の笑顔は、親子でよく似ていた。
ぶるぶるとスマートフォンが振動して、僕は我に返る。
勝手に部屋に入ったのを、誰かに
僕は写真立てを棚に戻す。
スマートフォンの画面を確認すると、非通知で電話がかかっていた。
普段なら、非通知の着信とか、無視するんだけど、その時は何かの予感を感じて、僕は電話を取る。
「今すぐ、その家を出なさい」
低くて、聞き取りにくい声だった。
ボイスチェンジャーのアプリか何かで声を変えてるようで、声の主が女なのか、男なのかも分からない。
「ちょっと待って、誰ですか?」
僕は訊いた。
「誰でもいい、今すぐ荷物を持ってその家を出なさい。その家の主が、そっちに向かっている」
「えっ、どういうことですか? 本当に?」
その家の主とは、つまり河東先生のことだろう。
でも、先生を見張っているはずの弩からは、何の連絡も来ていない。
メールも、着信もない。
「本当かどうかは、家を出てから考えればいい。今はとにかく、そこから避難しなさい」
声を変えてるけれど、別に僕をからかっているふうではなかった。
それに、主夫部部員の中には、こんな面白くない悪戯をする人物はいない。
僕は自分の荷物をすぐにまとめた。
僕がいた痕跡は残っていないか、萌花ちゃんの部屋、河東先生の部屋、先生の旦那さんの部屋を確認する。
一階に下りてリビングを確認して、脱衣所と、風呂場も見回った。
最後に洗濯機の中を確認して、次に乾燥機の中を確認したら、乾燥機の底にへばりつくようにして、パンツが一枚、残っている。
どうして僕はこんな見落としをしたのか。
乾燥機の入り口の縁に沿うように隠れていたから、気付かなかったのかもしれない。
とにかく、急いで乾燥機からパンツを取り出したときだった。
不意に脱衣所の扉が開かれた。
なぜか河東先生が立っている。
いや、この家の主だし、ここに立っているのは当然で、僕のほうが異物なんだけど。
「ご苦労様です」
なんて声を掛けたらいいのか混乱していて、そんな言葉が僕の口から、出た。
ご苦労様って、意味が分からない。
先生は緑のジャージ姿で、体育館から走って来たらしく、汗をかいていた。
車の音がしなかったから、気付かなかった。
河東先生は僕の手元を見る。
僕の手には、パンツが握られていた。
このパンツは、たぶん、河東先生のパンツだと思われる。
萌花ちゃんがあの可愛らしい顔に似合わず、この黒パンツをはいているというなら、話は別だけれど。
「先生、僕は今こうして、パンツをこの手に握っていますが、僕は毎日、妹のパンツを洗濯していますし、寄宿舎で寄宿生やヨハンナ先生のパンツも洗濯していますので、見慣れています。これで性的に興奮したりはしません」
勘違いされたらまずいから、一応、僕は説明しておく。
でも、それは逆効果だったかもしれない。
なぜなら、河東先生の眉毛が、あり得ない角度で、釣り上がっていたからだ。
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