第38話 空気は読まない

「小指の骨が折れただけなので、寝ていなくていいです」

 弩が掛け布団を払いのけようとする。

「駄目だ、大事をとって安静にしていろ」

 僕が言って、布団を掛ける。

「本当に、もう大丈夫ですから」

 弩が布団を払いのける。

「せめて、今日一日は寝ていような」

 僕が布団を掛ける。

 弩が払いのける。


 そんなことを何回も繰り返していたら、


「いい加減にしろ!」


 と、主夫部、寄宿生の、僕と弩以外全員から突っ込まれた。



 騒々しい一夜が明けた土曜の昼間、僕達は弩の部屋に集まっている。

 みんなで、ベッドに横になった弩を囲んでいた。

 寄宿生と主夫部部員、全員が中にいて、部屋は一杯だ。


「でも、無事で本当に良かったわ」

 ボルドーのワンピースを身に纏った鬼胡桃会長が言う。


 会長の名誉は回復した。


 鬼胡桃会長を解任した副会長が、土下座する勢いで謝ったのを、会長は快く受け入れた。

 やはり、鬼胡桃会長はセーラー服じゃなくて、このボルドーのワンピースでなければならない。

 そして、強気の態度で、僕達を罵倒していなければならないのだ。



 弩に投げ飛ばされた平田教諭は、あの後、宿直の先生に引き渡されて、今頃、校長や教頭の尋問を受けているのだろう。

 平田教諭の処分が決まるのは週明けだろうけれど、鬼胡桃会長も、怪我をした弩も、事を穏便に済ませることを望んでいた。



「大変! 大変よ!」

 誰かが廊下をドタドタと走って来る。

 やっぱり、廊下を走って来るなんてヨハンナ先生じゃないかと思ったら、ヨハンナ先生だった。


「弩さん、お母さんが来られるわ!」

 目を見開いた先生が言った。


「どうしよう、怒られる。確実に怒られる。私がついていながら、弩さんに怪我させちゃって。完全に怒られる。もう、どうしよう!」

 ヨハンナ先生が頭を抱える。

 先生は狭い部屋の中を、落ち着かない様子でうろうろと歩き回った。


「鬼胡桃さんのお父さんに続いて、また、こんな寄宿舎には娘を置いておけない。連れ帰る、なんて言われたらどうしよう」

 部屋の中をしばらく歩き回って考えた結果、ヨハンナ先生は黙って部屋を出て行こうとした。


「先生、逃げないでください!」

 錦織と御厨が先生の手を取って、部屋に連れ戻す。



 弩の母親はすぐに現れた。


 弩のそれをシャープにした印象の輪郭。

 自信に満ち溢れた強い眼差しの持ち主で、口元には余裕の笑みをたたえている。

 紺のトラッドなデザインのスーツに、眩しいくらいの白いシャツ。

 毛先でくるくるに巻いたパーマの髪が、胸元をコサージュのように飾っていた。


 姿勢が良くて、すっとした立ち姿が美しい。


「そう、ここここ、懐かしいわね」

 部屋を見渡して、弩の母親が言う。


 そうか、弩の家は四代続けてここの寄宿生で、同じ112号室を使ったと言っていた。

 弩の母親も、三年間ここで過ごしたのだ。


「みなさん、こんにちは」

 母親が言って、僕達が頭を下げる。

 そして、弩のベッドの前を空けた。


 ベッドの上で、弩が上半身を起こす。

「まゆみ、久しぶりねぇ」

 母親はベッドの脇で立て膝を着いて視線を合わせた。

「お久しぶりです。お母様」

 弩が本当に嬉しそうな顔を見せる。頬にはもちろん、笑窪が浮かんでいた。

 家を離れて数ヶ月ぶりの親子の対面なのだから、当然だろう。


「それで、怪我の具合はどう?」

「はい、小指の骨が折れただけなので、大丈夫です。こうして一ヶ月くらい固定していれば治るそうです」

 弩が包帯の手を見せた。

 添え木で固定された弩の小指が痛々しい。

「小指が折れただけ?」

 弩の母親が眉を寄せた。

「あら、怪我をしたっていうから、どんな大怪我かと思ったら、ただの掠り傷じゃない」

 母親が言う。


 いや、お母さん、小指でも骨折は掠り傷ではないと思う。



「娘さんに怪我をさせてしまって、本当に申し訳ありません」

 問われる前にと思ったのか、ヨハンナ先生が先に頭を下げた。

 顔が膝に着くくらいに体を曲げて、頭を下げる。

 そして、弩が怪我をした経緯を説明した。


「先生、頭を上げてください。怪我をしたのはこの子の不注意です。護身術にと柔道を教えていたのですが、自分が怪我をしてしまうなんて。これは先生の責任などではありません。お騒がせして、逆にこちらが先生にお詫びしなければならないくらいです」

 母親が、ヨハンナ先生よりもさらに深く頭を下げた。


「まゆみ、指の先まで神経を集中させなさいと教えてきたのにどうしたの? 長い休みでもあったら、また私が稽古を付ける必要がありますね」

 母親が言って、弩が神妙な顔をする。

「でも、男の子を守って出来た怪我なんて勲章だわ」

 母親が弩の包帯の巻かれた手を取った。

 両手で優しく怪我をした手を包む。


 窓から光がさしていて、神々しいばかりの母子の姿だ。


「僕のせいです。すみません」

 今度は僕が頭を下げた。

 弩に助けられたのが僕だと説明して、名乗る。


「へえ、あなたがまゆみが電話でよく話してる篠岡君なのね?」

 弩の母親は、頭の天辺から爪先まで、何往復も視線を行き来させて僕を見た。

 値踏みされてるみたいで、冷や汗が出る。


「篠岡君といえば、このあいだ、あなたのお母様ともお会いしたわ。立派な方ね」

 弩の母親が言った。

「母とはどのような……」

 僕が訊く。

「うちの大弓重工が、お母さんの船、護衛艦『あかぎ』を建造したのよ。その引き渡しのときにお会いしたの。女同士、色々と話をしたわ」


「うちの大弓重工……ですか?」


「ええ、大弓重工はうちのグループ会社よ。あら、自己紹介をしていなかったわね。私は大弓ホールディングスの代表取締役会長兼CEOの弩あゆみといいます。弩のゆみとあゆみのゆみで、ゆみゆみって呼んでもらえると嬉しいわ」

 弩の母親が言った。


 ゆみゆみって、ああ、やっぱり、弩はこの人の子供だ。


 でも、おおゆみ大弓おおゆみ

 大弓グループってあの大弓グループ?

 確か、大弓商事、大弓重工、大弓製鋼、大弓製紙、大弓自動車、大弓電機、

 アロー麦酒ビール、大弓光学、矢継海運………

 日本を代表するような会社が名を連ねる、あの大弓グループ?

 その代表取締役会長兼CEO?

 代々、一族の女性経営者が率いていて、現代に蘇った財閥と言われている、あの……


 僕もそうだけれど、僕以外のみんなも呆気にとられていた。

 ヨハンナ先生なんて、口が半開きで、よだれが垂れそうになっている。


 でも確か、弩は初めて会ったとき、将来は自分も仕事をすると言っていた。

 だから主夫部に入って、将来主夫となるパートナーとの関係を学ぶのだと言った。


 仕事って、もしかしたら弩がこの母親の後を継ぐのか?


 将来この弩が、大弓グループの最高責任者で、経営の舵取りをするというのだろうか?


 話が大きすぎて頭がクラクラしてきた。


「さて、私は帰ります」

 弩の母親は言う。

 まだ、来て十分も経っていない。

 けれど、大弓グループの最高責任者ともなれば、分刻みのスケジュールが入っているだろうから、ここに来るのも相当に無理をしたんだろう。


「久しぶりにあなたの元気な顔が見られて良かったわ。まゆみ、勉強に部活に、そして恋に、精一杯励みなさい」

 母親が言うと、弩が「はい」と返事をした。

 その目をしっかりと見据えて。


「それじゃ、みなさん、ごきげんよう。これからも娘をよろしくお願いします。仲良くしてあげてね」

 母親は僕達にそう言い残し、ヨハンナ先生に頭を下げて、部屋を後にした。


 まったく、竜巻のような訪問だった。



「さて、私はちょっと生徒会室に行ってくるわ。土曜日で休日だけれど、私が留守のうちに色々と仕事も溜まっているでしょうから」

 そう言って、鬼胡桃会長が部屋を出て行く。


「よし、僕は裏庭の片付けをしよう。強力な草刈り機を買ったんだ。あの威力を試したい」

 母木先輩が続いて出て行った。


「あっ、そうだ。錦織君、新しい衣装の採寸お願い」

 古品さんが言って、「はい、喜んで!」と錦織と二人で出て行く。


「それじゃ、私も一汗流してくるとしよう」

 縦走先輩が腕を回しながら出て行くのを、

「僕、夕飯の買い出しに行ってきます! 縦走先輩、何か食べたいものありますか?」

 御厨が追いかける。


 部屋は急に寂しくなった。



「あのな、弩」

「先輩、あのあの」

 僕と弩が同時に発して、言葉が被った。

「なんだ? 弩」

「なんですか? 先輩」

 また、言葉が被ってしまって、僕達はお互いに笑いあう。

 弩の頬に笑窪が浮かんだ。



「ところで、ヨハンナ先生。先生は何か用事とかないんですか?」

 いつの間にか、弩の部屋のソファーに脱力して寝転がっているヨハンナ先生に訊く。

「ないよ。なんか弩さんの部屋って落ち着くよね。ここでずっと寝てようかな」

 ヨハンナ先生はそう言って大あくびをした。

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