第4章
第39話 妖精さん
我が主夫部の部室がある文化部部室棟から、プールをまたいだ反対側に運動部の部室棟がある。
一階、二階に十五部屋ずつ。それにシャワー室やトイレ、給湯室に会議室などがあって、建物はアパートというか、小規模なマンションくらいの規模があった。
文化部部室棟より新しくて、設備が充実している。
そんな運動部部室棟、一階奥から二番目の部屋の前に立っていた弩が、窓ガラス越しに手を挙げて僕達に合図を送った。
小指を骨折していて包帯を巻いた弩の手はよく目立って、合図を送るのにちょうどいい。
プールのポンプ室の影に隠れて合図を待っていた僕達主夫部の男子四人は、そこを飛び出して素早く運動部部室棟に忍び込んだ。
いや、忍び込むといっても、僕達はこの学校の生徒だし、別にやましいことがなければ部室棟に入るのは自由だけれど、僕達にはやましいことがあるのだ。
部室棟の廊下を音を立てないよう、静かに走って弩と合流する。
「中には誰もいません、無人です」
弩が立っていた部屋のドアを指した。
そこは女子バスケットボール部の部室だ。
「よし、行こう」
母木先輩がドアを開けて中に入り、僕達もすぐ後に続いた。
先輩はマスクをしていて、大きなリュックサックを背負っている。
「今度は誰か来ないか、見張っていてくれ」
最後に部室に入った僕が言うと、弩が「はい」と頷いてドアを閉めた。
忍び込んだ女子バスケット部の部室は、制汗剤の爽やかな香りで満ちている。
これが女子運動部の青春の香りなのだろう。
部室の両側は、ロッカーとクローゼットが並んで壁を埋めていた。
奥の窓の下に、荷物入れになっているチェストが四つあって、その上に今までバスケット部が獲得してきたトロフィーやら、優勝カップやらが誇らしげに飾ってある。
部屋の真ん中には大きなテーブルがあって、長椅子の上に部員の鞄だとかスポーツバッグがまとめて置いてあった。
別に汚くはないけど、雑然としている。
掃除はされていても、部屋の隅々まで行き届いてないみたいだ。
「よし、それでは各人、計画通りに事を運んでくれ」
母木先輩が声を潜めて言って、僕達他のメンバーが頷く。
母木先輩と御厨はさっそく部室の掃除に取りかかった。
先輩のリュックサックには掃除用具が満載されていて、先輩は中からガラス用洗剤を取り出すと、それをガラスに吹き付けた。
錦織はクローゼットのユニホームを確認する。
ほつれていたり、破れていたりする部分はないかと探って、それがあったユニホームを修繕した。
さあ、僕も自分の役割を果たそう。
部屋のあちこちに散らかっていたタオルやビブス、Tシャツや靴下などを集めて、持ってきた
運動部の部室だけあって、洗濯物が多い。
一つ目のランドリーバッグがすぐに一杯になって、二つ目を広げた。
これは洗濯のし甲斐がある。
腕が鳴るというものだ。
小柄な弩が入れるくらいの大きさのランドリーバッグに二つ分、たっぷりと洗濯物を詰め込んで、僕は部室を出る。
なんだか札束が詰まったバッグを運び出す、銀行強盗みたいだ。
部屋の外では弩が周囲を監視していた。
背伸びをして、爪先立って外を見ている。
「誰もいません。今、チャンスです」
弩の言葉を「おう」と受けて、僕は廊下を足早に歩き、部室棟を出た。
目立たないよう校舎の裏を伝って、林の中へ、バッグをさげて寄宿舎に戻る。
寄宿舎のランドリールームでは、すでに蓋を開けてスタンバイしていた洗濯機にランドリーバッグの中身を放り込んだ。
洗濯機が動いている間も無駄にはできない。
僕は、特に汚れていたTシャツの染み抜きをする。
白いTシャツに茶色い染みがついているのは、血液の染みのようだ。
染みの部分に酸素系の漂白剤をかけて、歯ブラシで擦る。
擦るたびに汚れが少しずつ薄まっていくのが気持ちいい。
Tシャツを傷めないよう、丁寧に擦ると、茶色い染みのあった場所が分からないくらい白くなった。
白くなるのが楽しくて夢中になる。
もっと染みはないかと、ランドリーバッグを漁る。
ピーピーピーと、電子音がして我に返った。
無心で染み抜きをしている間に、一回目の洗濯が終わる。
洗濯物は天日干ししたいところだけど、時間がないからここは乾燥機を使った。
乾燥機を回す間に、次の洗濯物を洗濯機へ。
洗濯機をフル回転させる。
かつて五十人からの生徒が暮らしていたという寄宿舎の施設が、ここで役に立った。
乾いた洗濯物はきちんと畳んで、裏返したランドリーバッグの中に詰めていく。
淡々と作業を繰り返して、ふかふかの洗濯物が詰まったランドリーバッグが二つ、完成した。
しかし、ここまで二時間半かかっている。
日も傾いて、そろそろ部活も終わろうかという時刻だ。
僕は急いで、運動部部室棟へ引き返す。
「ご苦労」
母木先輩が声をかけてくれた。
部室に戻ると、部屋は見違えるように綺麗になっている。
曇っていたガラスはピカピカで指紋一つ付いていない。
ロッカーは整理されて、ちょっとしたセレクトショップの棚のようだ。
うっすらと埃を被っていたトロフィーや優勝カップは、磨かれてまばゆいばかりに輝いている。しかも、ちゃんと年代順に並んでいた。
床にはワックスがかけてあって適度な艶が出ている。
部屋の中央のテーブルは、僕の顔が映るくらいに磨かれていた。
流石は母木先輩だ。
僕は洗い上がったばかりの洗濯物をテーブルの上に並べた。
御厨が(お疲れ様です)というメモと共に、レモンの蜂蜜漬けも置いた。
これは御厨が昨日の夜のうちに仕込んでおいたものだ。
蜂蜜にみかんの花から取った蜜を使った、こだわりの一品となっている。
全てを並べ終わって一息ついたところで、弩がドアから顔を出した。
「先輩! 誰か来ます。バスケ部の部員のようです!」
「よし、引き上げだ!」
母木先輩の合図で、僕達は急いで部室を出る。
廊下の先に数名の女子生徒が歩いてくるのが見えた。
僕達は咄嗟に男子トイレに入って、その生徒達をやり過ごす。
危ない、間一髪だった。
彼女達をやり過ごして、僕達は静かに部室棟を出た。
後ろで部室棟からガヤガヤと声が聞こえる。
「きゃっ」
「なにこれ!」
「ここ、どこ?」
「信じらんない!」
悲鳴、感嘆、戸惑いの声、そんなものが交錯していた。
反応をもっと聞いていたかったけど、人が集まって来て見つかるといけない。
我慢してその場を去ろうとした。
その時だ。
「あなた達、何してるの!」
背後から声を掛けられて、恐る恐る振り向いた。
誰かと思ったら、良かった、ヨハンナ先生だ。
「見てたよ。女子バスの部室で何してたの?」
腕組みの先生が僕達を睨む。
白いブラウスにツイードのスカート、水色のカーディガンを羽織ったヨハンナ先生。もちろん、このコーディネートは錦織によるものだ。
「いやあ、掃除とか、洗濯とか……まあ、色々と……」
僕が誤魔化した。
誤魔化し切れていないけれど。
「もちろん、バスケ部に許可はとってないのよね」
「はい」
「でも、別に悪いことはしてません」
錦織が言った。
「名付けて、『部活をしている最中に妖精さんが部室を綺麗にしてくれた作戦』です!」
御厨が言う。
「名付けて、『部活をしている最中に妖精さんが部室を綺麗にしてくれた作戦』です! じゃないわよ、もう!」
先生が言って、頭を抱えた。
「なんでそんなことしてるの? 見つけたのが私だったから良かったようなものを、他の先生とか生徒に見つかってたら大事になってたよ」
「もう、朝練とか、寄宿舎だけでは物足りないんです。僕達、家事をしたくてしたくてしょうながいんです。だから……」
母木先輩が説明する。
「野球部員が部活の練習じゃ物足りなくて、居残りしてバットで素振りしたりするじゃないですか。そんな感じです」
僕が補足すると、
「どんな感じよ、もう!」
と先生に突っ込まれた。
「今のことは先生見なかったことにしておく。ばれて問題になっても私は知らないから。これからは誰にもばれないように上手くやりなさいよ」
ヨハンナ先生が言って、僕達は「はい」と声を揃えた。
さすが、先生は話が分かる。
「で、今日の晩ご飯はなに? そんなに家事がしたいなら、たっぷりとさせてあげる。さぞかし豪華な料理が待ってるんでしょうね?」
先生が言った。
「もちろんです」
御厨が目を輝かせて言う。
さあ、これから夕飯の支度だ。
また家事が出来て、寄宿生とヨハンナ先生の幸せな顔が見られる。
翌日、新聞部が発行する学校新聞の一面は、女子バスケット部部室に現れた『妖精』の記事が飾った。
「白昼堂々の犯行」
「再び現れた『妖精』の正体は?」
一面にそんな活字が踊る。
何者かが女子バスケット部の部室に潜入して、勝手に掃除と洗濯をして去るという奇妙な事件について、新聞は四面ある紙面の三つの面を割いて伝えていた。
普段はあまり生徒の手に取られることがない新聞が全部はけて、それをネタに校内のあちこちで話の輪ができている。
まあ、先日の新体操部に続いて二例目ともなれば、騒ぎが大きくなるのも無理はない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます