第37話 一本背負い

 深夜二時を回った寄宿舎は、明かりが消え、時々台所の古い冷蔵庫がブンと低い音を発するだけで、ほかに物音はせず、完全に寝静まっていた。


 そんな寄宿舎の中で、暗闇を幸いと蠢く一つの人影があった。


 骨太のずんぐりとした体格は、男であるのだろう。

 男は、何もない殺風景な部屋の床から顔を出すと、音を立てぬよう、忍び足でドアに近付き、ゆっくりドアノブを回した。


 ドアを開け、部屋から寄宿舎一階の廊下に出る。



「そこまでだ!」


 待ち構えていた主夫部男子が声で威圧して、男にネットを被せた。

 ネットが真上から被さって慌てた男は、手足をバタつかせて抜けようとする。

 しかし、被せたネットはサッカー部から持ってきた頑丈なゴールネットだったから、男がどんなに暴れようと、簡単には解けない。


 ネットの端は、主夫部の四人が力一杯押さえている。


「観念しろ! もう逃げられないぞ!」

 母木先輩が一喝した。

 廊下に明かりが点く。

 騒ぎに気付いて自分の部屋を出たヨハンナ先生が、明かりを点けたのだ。


 廊下の照明に反射して、男が光るモノを握っているのが見えた。

 ナイフだ。

 母木先輩が男の手を踏んづけて、手からナイフを落とす。

 ネットの端を押さえていた御厨と錦織が、男の上に乗って、床にうつぶせで組み伏せた。


「ひっ、平田先生!」

 ヨハンナ先生が声を裏返す。


 その顔は紛れもなく、我が校の教師、平田教諭のものだった。

 普段から神経質そうな顔が、捕まったことでさらに引きつっている。


 年齢は四十前後で、身長百七十くらい。

 硬そうな髪を油分でテカテカした整髪料で無理矢理撫でつけて、オールバックにしている。

 服装は上下黒いジャージを着ていて、肘や膝の部分に土が付いて汚れていた。

 僕は習ったことがないけれど、確か、数学科の教師だったと思う。



 騒ぎが伝わって、部屋の中にいた寄宿生が寝間着のまま出てくる。

 一階、111号室の前、開かずの間だった部屋の前に、皆が集まった。


 鬼胡桃会長も、縦走先輩も、古品さんも、弩も、平田教諭を捕まえた状況に驚いて、眠気が吹っ飛んだようだ。


「先生、なぜこんなところに? どうして……」

 ヨハンナ先生がかすれた声で訊く。


「この寄宿舎に入って、鬼胡桃さんの部屋に生徒会の備品を置いたのは先生ですか?」

 ヨハンナ先生が訊くけれど、平田教諭は返事をしない。

 否定せず、返事をしないというのは、それを認めたということだろうか。


「なぜ、そんなことをしたんですか? 今日もまた、鬼胡桃さんの部屋に侵入しようとしたんですか? それも、ナイフなんか持って!」

 ヨハンナ先生が語気を強めた。


「いや、違うんだ。ナイフは、ナイフは彼女を傷つけるつもりで持ち込んだんじゃない。せいぜい洋服を切り刻んで、怖がらせてやろうと思ったくらいで……」

 平田教諭が言う。


 服を切り刻むと聞いた途端、寒気がした。


「なぜ、こんなことをしたんですか?」

 ヨハンナ先生が睨み付ける。

 先生の手が怒りで震えていた。

 温厚な先生には、普段見られない態度だ。

 こんなヨハンナ先生を、初めて見た。



「鬼胡桃が私との約束を破って、主夫部の設立を認めたからだ。最後まで主夫部の設立を妨害しなかったからだ」

 平田教諭が、ぼそっと言う。


「おかげで私は、河東先生の派閥にいられなくなった。もう職員室で立場がない」

 河東先生とは、三年の学年主任の強面で、バイタリティの塊のような人物だ。

 その声の大きさと同じで、教職員の間でかなりの発言権を持つらしい。

 バレー部の顧問で、指導に体罰を使っているとも噂されていた。


「私は先生と主夫部の設立を妨害する約束なんてした覚えはありません」

 パジャマ姿の鬼胡桃会長が否定する。


「嘘だ、言ったじゃないか!」

 平田教諭は子供のように口を尖らせた。


「私は、彼らの主夫部が学校の品位を貶め、名誉を傷つけるものなら許さないと言っただけです。面白半分に中途半端な部活を作るなら無駄だからやめさせようとしていただけです。先生が主夫部設立を妨害してくれと、生徒会に頼んできたのは覚えていますが、それを聞き入れたわけではありません」


「うるさい! 河東先生に主夫部設立の妨害を命じられて、生徒会長のお前に頼んだのに、あっけなく設立されて私は立場がなくなったんだ。認めてもらえるチャンスだったんだぞ!」

 うつぶせで組み伏せられたまま、平田教諭は手足をバタつかせる。


「それで鬼胡桃さんを逆恨みして、生徒会の備品横領の罪を被せ、さらに今回はナイフまで持ち込んだというわけですか」

 ヨハンナ先生が冷めた目で見下ろしていた。



 職員室で力を持った教師に認められることが、平田教諭にとって、どんな意味を持つのかは、生徒である僕には分からない。

 でも、それは生徒を傷つけてまで求めるものではないことくらいは、未熟な僕にも解る。


「うるさい、うるさい、うるさい……」

 平田教諭は壊れたサンプラーみたいに繰り返す。


 それにしても、河東先生は、なぜ、僕達主夫部を目の敵にするのだろう。

 熱血の運動部顧問にとって、僕達の主夫部は、なよなよした許されざる集団に映っているのだろうか。



「でも篠岡君、どうして、犯人が111号室から出て来るって分かったの? この部屋はどうなってるの?」

 ヨハンナ先生が僕に訊いた。


 僕達主夫部の男子四人は、ここ二日間、寝袋を持ち込んで、密かに寄宿舎111号室の前の廊下で寝泊まりしていた。交代で見張りを立て、111号室から犯人が出てくるのを待っていたのだ。


 まさかそれが教師だったとは、想像も出来なかったけど。


「この寄宿舎に外から入れるドアは二箇所あります。その鍵はちゃんと管理されていて、ドアにもこじ開けたような痕跡はないので、ドアから入ったのではないと考えました。となると、第三の入り口がある筈です。そこで思い浮かんだのが、『開かずの間』です。『開かずの間』である111号室です」


 その111号室のドアが、今は半開きになっていた。

 僕はドアを開けて中に入る。


「この『開かずの間』は鍵が掛かっていて、今ではその鍵もなくなってしまって、こちら側からは開けられません。だから『開かずの間』なのですが、こちら側から開けられなくても、部屋の中からは開けられるんです。中から見れば、『開かずの間』ではないんです。部屋の中の人物が鍵を開けて廊下に出て、また部屋に戻って鍵を閉めれば、『開かずの間』は『開かずの間』のままです」

 入ってみると111号室の中は空っぽで、家具などは何もない。


「でも、部屋の中の人は最初にどうやってその中に入ったんだ? それに、ずっと中にいたのか?」

 母木先輩が部屋の中を覗きながら訊いた。


「そうなんです。それが疑問だったんですが、そこで古品さんの話を思い出しました。五十年前、ここに住んでいた寄宿生が、忽然と消えたという話です。ドアの前には監視の目があって、窓も内側から鍵が閉まっている状態で、寄宿生が消えたあの話です。でも、話のように寄宿生が部屋からいなくなったとしたら、111号室には抜け道があったんです。だって人が消えるわけありませんから」

 部屋の中には何もなかったけれど、部屋の隅の床が正方形に切り取られて、持ち上がっている。


「想像ですが恐らく、ここ、111号室には戦時中に作られた防空壕か何か、地下施設へ続く入り口があるんだと思います。ここは明治期に建てられた古い建物で、戦争も経験していますから、あっておかしくありません。大切な良家の子女を預かる場所でもありましたし」

 床に開いた正方形の穴から、暗闇が覗いていた。


 相当深い。


「そして、それは弩の部屋112号室の方へ続いているんです。弩の部屋の床が沈んで、弩が本棚の下敷きになったことがありましたが、それを思い出しました。この寄宿舎の他の部屋の床は頑丈なのに、弩の部屋だけ床が沈むのはおかしいんです。恐らく、地下の防空壕を支えていた梁の一部が腐って折れて、地面が陥没したんだと思います。それで床を支えていた土台の一部が浮いたんでしょう。111号室から112号室にまたがる地下には、広い空間があるはずです」


 穴の中から黴臭い匂いがしてきた。ただ黴臭いだけではない、黴を煮詰めたような匂いだ。


「そしてその地下空間には、建物内の入り口の他に、外へ抜ける通路があったんです。五十年前の消えた寄宿生も、実は消えたわけではなくて、その防空壕や抜け道を見付けて、そこから外へ抜け出したんでしょう。消えていなくなったというのは後から尾ひれが付いた話で、本当は抜け出したものの、すぐに見つかって連れ戻されたり、実家へ返されたりしたのかもしれません。その後、当時の先生達は寄宿生が地下の防空壕から抜け道を通って外へ出たことに気付いたのですが、他の寄宿生が防空壕に入ると危険だからと、部屋を使わないことにして、鍵を掛けたのでしょう。そのうち鍵がなくなって『開かずの間』になってしまったわけです。そのことで怪しげな話がさらに膨らんでいったんです」


 僕は部屋を出た。

 そして床に組み伏せられている平田教諭を見る。


「平田先生、そうですよね。この穴は防空壕のような地下空間への入り口で、外に繋がるもう一つの入り口がありますね?」



「ああ、その通りだ。裏の物置の下に通じている」

 平田教諭は観念したのか、素直に話した。


「昔、年配の先生から寄宿舎に抜け道があるという話を聞いたことがあった。寄宿舎に忍び込もうと考えた時、その話を思い出して抜け道を探した」

 平田教諭はそこまで言って、深い溜息を吐く。



「すごい、探偵さんみたい!」

 弩が目をキラキラさせて僕を見た。


「いや、ここで起きていることを、少し整理して考えてみただけだよ」

 僕はちょっと格好つけて言ったけど、整理して考えたのは全部、枝折だ。

 凄いのは枝折なのだ。


 枝折、ごめん。


「平田先生、生徒に濡れ衣を着せたことを白状して、彼女の汚名をそそいでください。私達は警察ではないので、先生のことをこれ以上拘束したりしませんが、ご自身でなさらない場合、私がこの出来事を公にします」

 ヨハンナ先生が言って、組み伏せていた錦織と御厨に目配せをした。

 二人がその意を汲んで、平田教諭を起こし、ネットから外す。


 すっかり観念したように見えた平田教諭だったけれど、網から解かれた途端、


「うるさぁぁぁいぃぃ!」

 平田教諭は声を上げて、落ちていたナイフを拾った。


「どけ、そこをどけ!」

 そう叫んで、僕の方に突進して来る。

 教諭はナイフを腰に構えていた。


 僕はとっさのことで固まってしまう。

 手を前に出して体を守るのが精一杯だった。


 もう駄目かと思ったとき、僕と平田教諭との間に、弩が素早く体を入れた。

 ナイフを持って突っ込んで来る教諭の手を取って、もう片方の手の関節でしっかりと腕を決め、一本背負いの要領で空中に跳ね上げた。


 平田教諭が宙を舞ったのがスローモーションで見えて次の瞬間、背中から床に叩き付けられている。

 背中を強打してしばらく息が出来なくなっていた平田教諭を、全員が飛び乗って抑えた。

 ナイフを投げて遠くにやる。


 そこまでが本当に一瞬の出来事だった。


「弩、大丈夫か!」

 僕が訊く。

 弩は平田教諭に背負い投げを決めたあと、半身で構えて次の動作に備えていた。

 助けられておいて、大丈夫か、と訊く僕は間抜けかもしれない。


 それにしても、まさか、弩に柔道の心得があるとは……

 しかも、自分よりも大きくて重たい男を投げてしまうとは……

 これが柔よく剛を制すかと、僕はまだドクドクと鼓動を打っている心臓を押さえて考えた。


「大丈夫です。でも、ちょっとやっちゃったかもしれません」

 弩が眉間に皺を作って言う。


 よく見ると弩の小指があらぬ方向に曲がっていた。

 絶対にあることのない方向に小指の先がある。

 投げるときに服の袖かどこかに引っかかったらしい。

 ポッキっと折れたらしい。


「うわああああああ」

 そこにいたみんなが叫ぶ。

 僕が弩をお姫様抱っこして、ヨハンナ先生が車を出して、そのまま病院へ急いだ。


 もう、心臓が飛び出しそうだ。

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