第31話 出会った日のこと

 その日の朝から、すでに弩の様子はおかしかったという。


 放課後、クラスの日直の仕事をしていた僕の元に御厨が描けてきて、弩の異変を伝えた。

「先輩! 弩が変なんです。すぐに来てください!」

 御厨は第三次世界大戦が始まったと伝えに来たような、差し迫った口ぶりだった。

 僕は日直の仕事を途中で切り上げて、寄宿舎に急ぐ。



 当の弩は寄宿舎の食堂に続くサンルームで、本を読んでいた。


「声を掛けてみてください」

 御厨に言われて、わけも分からず僕は声を掛ける。


「おい、弩」

 僕が声を掛けても、弩は返事をしない。

 ぷい、と横を向いて聞こえないふりをした。

「おい、弩」

 もう一度呼びかけても同じだ。

 聞こえているはずなのに、僕を無視した。


「さっきから、ずっとこの調子なんです。僕が呼びかけても、母木先輩が呼びかけても、錦織先輩が呼びかけても駄目です。返事をしてくれません」


 僕達、男子に対してだけかと思ったら、部活を終えて帰ってきた縦走先輩の呼びかけにも応じない。

 古品さんの呼びかけにも応じない。

 ヨハンナ先生も駄目だ。


 そして、挙げ句の果てには、

「ちょっと、弩さん、私が呼んでるのに返事をしないというのは、一体、どういうことなの?」

 そう、鬼胡桃会長の呼びかけにも応じなかったのだ。


「ちょ、ちょっと弩さん……」

 鬼胡桃会長が面食らっていた。

 今まで、誰にもこんな態度を取られたことがない会長が、ショックだったのか言葉を失って唖然としている。


 誰の呼びかけにも応じない弩は、その後も無言で夕食を済ませ、食器だけ片付けて食堂を出て行ってしまった。

 そのまま、自分の部屋に入って、ドアをバタンと強めに閉める。



「一体どうして、弩君がこんなことになってしまったのか、原因を探ろうじゃないか」

 母木先輩が言って、食堂が臨時の会議室になった。


「心当たりがある者はいるか?」

 母木先輩が訊いて、全員が首を振る。


 もちろん、僕にも思い当たることはなかった。

「些細なことでもいい。弩と関わることで何かなかったか? 弩の機嫌を損ねるような何かが?」

 先輩が訊いて、皆それぞれ、空で考える。



「あのう、これは関係ないかもしれないんですけど……」

 しばらくして、御厨が恐る恐る手を挙げた。


「なんだ、御厨、話してみろ」

「はい。この前、弩が僕に、料理をするので、味見してアドバイスしてくださいと、頼んできたんです。僕は、弩が料理に興味を持ってくれたのが嬉しくて、喜んで引き受けました。僕は弩の作った料理を食べてみて、味に深みがないカレーだからこうした方がいいと、色々アドバイスしたんです。でも、どうやら、弩が作ったのはカレーじゃなくて『肉じゃが』だったみたいなんです。弩は『肉じゃが』のつもりで作ったようなのです。それから弩は料理を作るとか言わなくなったんで、もしかしたらそれが……」

「なるほど、それはショックだったかもしれないな」

 母木先輩が言う。


 確かに、ジャガイモとか、にんじん、タマネギとか、カレーと肉じゃがの材料は同じものが多い。

 でも、カレーと勘違いする肉じゃがとは?

 それに、そんなことで臍を曲げて口をきかなくなるものだろうか。



「そういう話だったら私も……」

 今度は古品さんが手を挙げた。


「いえ、私この前の夜、弩さんと二人で私の部屋で映画を見てたの。私のブルーレイコレクションのホラー映画。弩さんはホラーとか苦手って言ってたんだけど、私、大好きだから、全然怖くないよって、嘘ついて見せたのね。そしたら、弩さん、めちゃくちゃ怖がって、見ているあいだ、ずっと私にしがみついてたの。それで見終わったあと、『トイレに行けなくなっちゃったから一緒に付いてきてください』、なんて言うの。私、冗談かと思って、一人で行きなさいって言って、放っておいて先に寝ちゃったんだけど……」

 そのあと弩はどうしたのだろう。


 朝までトイレを我慢したのだろうか。



「実は僕も……」

 今度は錦織だ。錦織にもあるらしい。


「この前、知人に頼まれて洋服を作ってたんです。ちょうど頼んできた女の子の体型が弩と同じくらいだったんで、マネキンになってもらいました。細かいところを直すのに、作った服を弩に着せてチェックしてたんですが、弩が『この服は誰の服ですか?』って訊くんで、小学四年生の従姉妹の服だって答えたら、その後、弩の口数が少なくなってしまって……従姉妹は小学生にしては成長が早くて体格がいいからと、一応フォローはしておいたんですが……」

 フォローになってないかもしれない。



「もしかしたら……」

 縦走先輩にも、心当たりがあるのか。


「弩が自転車に乗れないっていうから、先日、自転車に乗る練習に付き合ったんだ。この前のトライアスロン大会を見て、弩も私のように自転車に乗りたいと思ったらしい。私は自転車の後ろを支えていたんだが、弩はそれに頼っていつまでも自力で走れるようにならないから、支える手を放したんだ。放さないでください、と頼む弩を無視して放した。見ると目の前は勾配20%の急坂で、弩は坂を落っこちるような猛スピードで下って行ったんだ。弩は『死ぬかと思いました』、って泣きそうな顔で抗議していた。荒療治だが、自転車に乗れるようになったから、いいと思っていたんだが……」

 縦走先輩……なんて酷い事をするんだ。



「みんなの話を聞いていたら実は、僕も……」

 次に手を挙げたのは母木先輩だった。


「弩が朝、いつも抱えている枕があるだろう? あれが汚い感じがして、よだれの跡とかも付いているようだから、弩がいない隙に部屋から持ち出して洗ったんだ。カバーだけではなく、枕を分解して、中の綿やら、ビーズまで徹底的に消毒して、仕上げに紫外線を照射して、菌の一つに至るまで存在しない、完全に無菌の枕にして、部屋に戻しておいた。そしたら弩は『これは私の枕じゃない』と意味不明なことを言っていたんだが、もしかしたら……」


「その枕は弩にとってライナスの毛布みたいなものだったんじゃないですか?」

 僕が言う。

「そうよ、まったく、デリカシーがないわね」

 鬼胡桃会長が母木先輩を睨んだ。


「そういうお前はどうなんだ?」

 母木先輩が会長に訊く。

「私は特にないけど………ああ、そういえば」

 あるのか!


「この前、弩さんと二人きりになったときがあったのね。そのとき、弩さんはどうにか私と会話をする糸口を探していて、突然、『ブルボンのお菓子で一番美味しいのはホワイトロリータですよね』なんてふざけたことを言ってくるから、私は『ブルボンのお菓子で一番美味しいのはレーズンサンドに決まっているじゃない』と言って、その後三時間に渡って、レーズンサンドというお菓子がどれだけ優れているかを説いてあげたんだけど、そうしたら最後には弩さん、涙ぐみながら『ブルボンのお菓子で一番美味しいのはレーズンサンドです』って言って認めたから、てっきり納得したと思っていたんだけど、納得していなかったのかしら」


「それは酷い」

「三時間に渡って説教されるなんて……」

「トラウマになりますよ」

 僕達に口々に言われて、さすがの鬼胡桃会長も言葉を返せない。



「まさか、先生はないですよね」

 僕がヨハンナ先生に訊いた。

「ええと……あれかな?」

 やっぱりあるらしい。


「弩さんに、いつも近くのコンビニまで買い物に行ってもらってるんだけど、この前、弩さんに一万円渡したつもりが、渡したのは千円札だったみたいなの。後で気付いたんだけど、三千円分くらいのお菓子を頼んだのに、どうやって買ってきたのかしらって、それが謎で……」

 酷い。


 先生が一番酷い。

 普段から弩をパシリにしてる上に、千円渡して三千円分買ってこいとか……



 だめだ、思い当たるフシが多すぎる。

 みんな弩をなんだと思っているんだ。


「みんな酷いじゃないですか!」

 僕が言うと、僕に対して、みんなの視線が集まった。

「いや、篠岡、普段君が一番、弩にちょっかい出してるように見えるが……」

 母木先輩が言う。

「自覚がない人が一番怖いのよね」

 鬼胡桃会長が僕を白い目で見る。

 みんなの目が冷たい。



「よし、こうなったら、みんなで弩に謝りに行こう!」

 僕が言って、みんなが同意した。


 112号室のドアをノックする。

 ドアを四分の一くらい開けて、弩が顔を出した。


「弩、君の作った肉じゃがをカレーと間違えてすまなかった」

「弩さん、夜中にホラー映画見せて放置してごめんね」

「弩、君を小学四年生のモデルにしてすまない」

「弩、自転車で坂から突き落としてすまなかった」

「弩君、君の枕を無菌にしてすまない」

「弩さん、この前はなんかご免なさいね。ほら、あなたの好きなホワイトロリータよ」

「弩さん、差額の二千円、お釣りはいらないから取っておいて」

「弩、色々すまない」

 皆、口々に謝る。

 しかし、弩はぷいと横を向いて、ドアを閉めた。

 ドアを閉める前に、鬼胡桃会長が差し出したホワイトロリータと、ヨハンナ先生が差し出す二千円を掠め取る。


 そこは受け取るのか!



「あれ、なんか違ったみたいだな」

 弩はこれらのことに怒っていたわけではないらしい。

藪蛇やぶへびじゃないか」

 錦織が言った。

「もう、知らないわ!」

 鬼胡桃会長は捨て台詞を残して、二階の自室へ戻っていく。


「弩君が落ち着くまで、しばらく時間をおいてみるしかないか」

 母木先輩が言った。

「でも、なんかこう、弩の頭をなでなでしないと落ち着かないというか、物足りないんだ」

 縦走先輩が言う。

「それ分かる。彼女が横でちょこちょこしていると安心するんだよね」

 古品さんが言った。


 弩の問題が解決しないまま、仕方なく僕達主夫部員は家路につく。





「へえ、それでお兄ちゃんは、受験勉強中の妹に、助けを求めに来たというわけね」

 枝折が言った。

 僕は夕食の後、枝折の部屋に押しかけている。

 風呂に入った後のスエット姿で、勉強机に着いたままの枝折。


「で、枝折ちゃんは、もう分かっているのか? 弩が僕達と口を聞かなくなってしまった原因を」

「分かってるよ。でも教えない」

 枝折はきっぱりと言った。

「毎日、お兄ちゃんが食卓でする話を聞いて、その話の中の弩さんや、周囲の人のことを知っているだけの私が分かったんだもの。お兄ちゃんが分からなくてどうするの?」

 枝折は逆に訊いてくる。

 そう言われても、まったく分からないのだ。


 僕は安楽椅子探偵の枝折とは違う。


「お兄ちゃん、ヒントをあげるよ。弩さんと出会った頃のことから遡ってみて。出会ったシーンから思い出して。そうすればなぜ、弩さんが口を訊かなくなったか、分かるから」

 枝折は参考書から目を離さずに言う。


 僕が弩と出会ったのは、まだ主夫部ができる前、部員の最後の一人を勧誘していた時だ。突然、僕の目の前に現れて、主夫部に入りたいと言った、あの時。


「それに彼女は、その後も何度も何度もシグナルを出しているじゃない」

 そこまで言って、あとは勉強があるからと、僕は枝折に部屋を追い出された。



 明日のお弁当の下準備をして、戸締まりの確認をして、僕はベッドに横になる。

 もう、枝折は話を聞いてくれない。

 僕はベッドの中で考えた。

 枝折に言われた通り、弩と出会った頃のこと、出会いのシーンを思い出す。

 そして、その後の、弩と過ごした日々の事を……



「そうか!」


 思いついて夜中に大声を出してしまった。

 心配した花園が僕の部屋をノックしに来るくらい大きな声が出た。

 すぐにでもベッドを飛び出して寄宿舎に行きたかったけど、真夜中だし我慢するしかなかった。

 おかげで中々寝付けない悶々とした夜を過ごす。



 翌朝。


 朝練で寄宿舎へ顔を出すと、相変わらず、弩は寄宿生にも主夫部部員にも、口を聞いていなかった。

 一人で黙って朝食のテーブルに着いている。



 僕が原因を掴んだと言うと、弩以外の部員と寄宿生が、僕の周りに集まってきた。


「本当だろうな?」

 母木先輩が訊く。

 はい、と僕は頷いた。

「で、原因はなんなんだ」

「はい、それは後ほど。でも、たった一言、弩に言葉をかけるだけで、弩は今まで通りの弩に戻ってくれます」

 僕が言うと、他の全員が懐疑的な顔をする。

「余計なことを言って、もっと臍を曲げたらどうするの?」

 鬼胡桃会長が眉をひそめた。

「大丈夫です、自信あります」

 僕は言った。

 たぶん大丈夫だと思う。

 恐らく。

 きっと……

 願わくば……



 僕は弩の前に立つ。

 咳払いして、喉を整えた。

 そして一言、


「なあ、ゆみゆみ」


 僕は弩に呼びかける。


「なんですか?」


 弩が口を開いた。そして、笑窪を見せる。

 久しぶりに聞く、弩の声だ。


 そうなのだ、弩は初めて出会ったときから、ずっと言っていた。

 初めて会って名前を訊いたとき、

「弩まゆみといいます。弩のゆみと、まゆみのゆみでゆみゆみと呼んでもらえると嬉しいです」と。

 その後も、弩は部員や寄宿生に自己紹介をする度に、それを言っていたのだ。

 けれども、僕達は誰も取り合ってあげなかった。


 ゆみゆみ、と呼んであげなかった。


「ゆみゆみって呼んで欲しかったんだよな」

 僕が言うと弩がコクリと頷く。

 そう呼んでくれるまで黙っていると決めていたらしい。


「馬鹿馬鹿しい!」

 鬼胡桃会長が言って、食堂を出て行った。


「分かるけど、今度はちゃんと口で言って欲しいな」

 古品さんが言って、弩が「ごめんなさい」と謝る。

「そうだ。意見があるときは面と向かって言ってくれ。遠慮するな。私達は同じ寄宿生だ。家族だ」

 縦走先輩が言った。

 弩が「はい」と頷くと、縦走先輩が弩の頭を撫で繰り回す。

 弩は「ふええ」と言った。


「篠岡、僕は評価するぞ」

 母木先輩が僕の肩に手を置いて、褒めてくれる。

「実際の夫婦生活でも、このように妻の些細な変化や言葉に気付いてあげられる観察眼が、僕達主夫には必要なのだろう。今回、それに気付いてあげられた君は、主夫部の得点王、エースストライカーと言っても過言ではない」

 母木先輩は少し大げさだ。


 それに、僕が気付いてあげられたのは、半分は枝折の助言のおかげだし。




 寄宿舎は危機を脱した。


 しかし、こんな危機よりも遙かに大きな危機がすぐそこまで迫っているのに、僕達は気付いていなかった。

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