第30話 決戦
日曜、朝の東海道線の車内は、混雑などとは無縁で静かだった。
おそらく行楽地へ向かうのだろう、リュックサックを背負った親子連れが乗っていたり、仲の良さそうな老夫婦が手を繋いで座っていたりと、のんびりした空気が流れている。
そんな東海道線で横浜を目指す僕達、主夫部部員と、寄宿生と、ヨハンナ先生(古品さんだけ仕事でいない)。
これから縦走先輩のトライアスロン大会の応援と称して、先輩と
「ほら、弩、子供みたいだからやめなさい」
弩が座席の背もたれの方を向いて正座して、車窓を流れる風景を見ているから、注意する。
花柄のワンピースに、麦わらのカンカン帽の弩。
「すみません。電車に乗るのが初めてなもので、こうやって乗るのはいけないのですね」
弩が言って、前を向いた姿勢に座り直す。
「私は生徒会長として、我が校の部活動の現状を視察するのであって、別に縦走さんの応援に行くのではないし、まして、縦走さんと一矢とかいう男子との恋の行方が気になるわけでもないわよ」
ボーダーのトップスに黒スカートの鬼胡桃会長は、誰に聞かれるわけでもないのに、三十分おきくらいにその言い訳をしている。
御厨が僕達の手作り弁当が入ったバスケットを抱えているし、錦織は一眼レフカメラを首から提げてるし、ちょっとした遠足気分だ。
そして、この遠足気分をさらに濃くしているのが、さっきから横浜中華街のガイドブックを熟読している引率のヨハンナ先生だった。
「最低でも、三店舗は回りたいよね」
先生は言う。
完全に目的を忘れている。
ヨハンナ先生は白シャツにデニムという飾り気がない格好をしてるのに、その容姿からか、車内で人目を引いていた。
横浜駅でみなとみらい線に乗り換えて、元町・中華街駅へ。
大会のスタートやフィニッシュ地点がある山下公園に向かった。
駅を出てそのまま中華街へ行こうとするヨハンナ先生を、引っ張って戻す。
会場付近に着くと、すでに前のクラスのレースが始まっていて、自転車に乗った選手が僕達の前を通り過ぎた。交通規制されて道路がコースになっている。
選手が通るたびに、沿道から歓声が上がった。
前日のトップアスリートによるレースと違って、今日は一般参加の大会だから、お祭り的な雰囲気もあるようだ。
潮の香りが漂ってくるのが、海に近いことを感じさせる。
公園に沿った歩道を歩いていると、我が校のトライアスロン部の集団を見付けた。
公園の一画で、輪になって準備運動をしている。
手を振ると、縦走先輩が僕達に気付いて、こっちに来てくれた。
トライアスロン部の緑のウインドブレーカーを着た先輩は、レース前で気合いが入っているからか、いつも以上に逞しく見える。
「彼に例のことは言ったのか?」
母木先輩が訊いた。
「ああ、言ったぞ。一矢に、十代の部で優勝したら付き合うと約束した。彼は分かりましたと返事をした。大会の勝ち負けをこんなことに使うのは忍びないのだが……」
縦走先輩が少し表情を曇らせる。
でも、ここは心を鬼にするしかない。
縦走先輩はオリンピックを目指すのだ。
そして、我ら主夫部の妻を取られるわけにはいかないのだ。
「一矢のライバルだという彼はどこだ?」
母木先輩が訊くと、縦走先輩は輪になって準備運動をする部員の一人を指した。
「彼だ。
スリムな一矢に対して骨太な男で、彫りの深い顔をしている。
彼は手首足首を回して、リラックスした表情を見せていた。
体格的にも、そしてレース前の余裕を見ても、彼なら一矢を破ってくれそうだ。
「それはそうと、縦走、君もがんばれよ」
母木先輩が握った拳を掲げた。
「先輩、がんばってください!」
母木先輩の前に割り込んできて、御厨が言う。
一矢、黒金が出場する一般参加のクラスは男女混合で、縦走先輩も同時スタートだ。
先輩は二人の戦いを追いかけることになる。
「ああ、がんばる」
と笑顔を残して、縦走先輩は部員の方へ戻っていった。
「よし、僕達も沿道の応援ポイントへ移ろう」
僕達はバイクへの乗り換えやランのスタートとなるトランジッションエリアの近くに陣取った。ここなら参加選手が前を何回も通るし、バイクのコースにも近い。
錦織が手作りの昇り旗に竿を通す。
弩は昨晩、古品さんと一緒に作った応援のプラカードを掲げた。
鬼胡桃会長は「日に焼けちゃうわ」と日陰を探して、そこに逃げる。
そして僕は、中華街に行きたがるヨハンナ先生を「まあまあ」となだめた。
午前十一時。
縦走先輩や一矢がエントリーするクラスのレースがスタートした。
号砲と共に、桟橋の前で海に入って待っていた選手が次々に泳ぎ出す。
まずはスイムが0.75㎞。
桟橋から海上に係留されている氷川丸へ向けて泳いで、折り返して戻って来るコースだ。
海面に、選手が作る無数の白波が立つ。
泳いでいる縦走先輩や、一矢、黒金を確認しようとしたけど、スタート直後の団子だし、スイムキャップと水中眼鏡で誰も同じに見えて分からなかった。
スイムが終わって、選手達がトランジッションエリアに辿り着いたところで、漸く一矢を確認出来た。
黒金もすぐ近くにいる。
二人は成人男性に交じって、第二集団あたりに付けていた。
一矢達を見送ったあと、縦走先輩が少し遅れてトランジッションエリアに現れる。
先輩は、女子では全年齢で一位だ。
スイムスーツの先輩の、無駄のない逞しい体に見惚れる。
先輩は素早く靴を履いて、ヘルメットを被り、自転車を押して出て行った。
「縦走先輩! ファイトー!」
全員で声援を送る。
先輩は僕達のほうをチラッと見て、そのまま駆け抜けた。
ここから6.6㎞のコースを三周する、20㎞のバイク競技が始まる。
僕達は道路側の、コースが見える位置に移動して、自転車の周回を見守った。
街路樹の緑の中を、風を切って走り抜けて行く自転車の列に声援を送る。
縦走先輩は白いフレームの自転車に、純白のヘルメット。
先輩は周囲の男子選手の中に埋もれるどころか、男子選手を従えるようにして、走っていた。
そんな縦走先輩の姿が他の観客の心を捉えたのか、先輩が前を通るとき一段と大きな歓声が上がる。
それが、なんだか誇らしい。
異変は、バイクが二週目に入ったところで起きた。
一矢と一緒に走っていた黒金が来ない。
一矢が一人で通り過ぎたあと、数人のグループを置いて、縦走先輩が自転車で駆け抜けた。
「縦走先輩! ファイト!」
「縦走がんばれ!」
僕達は口々に応援するけど、黒金のことが気になって、応援に身が入らない。
「ちょっと、様子見てきます」
たまらず錦織が言って、コースを遡って行った。
ペースが落ちて、縦走先輩にも抜かれたのかと、しばらく見ていても、黒金は現れない。
しばらくして、様子を見に行った錦織が、走って帰って来た。
「黒金がリタイヤしました」
息を切らせた錦織が言う。
「ええっ!」
思わず御厨が声を上げた。
錦織の話によると、頼みの黒金は、一周目を終えようかという地点で腹痛に襲われて自転車を降り、そのままリタイヤになったらしい。
「このままだと縦走先輩は、一矢先輩の彼女に……」
御厨が振っていた旗を下ろした。
勝手に一矢の対抗馬にしておいて酷い話だけど、僕も、なぜこんな時に! と思ってしまった。本人が一番悔しいんだろうに。
「まだ、他の選手が一矢の優勝を阻んでくれる可能性はあるぞ」
母木先輩が言う。
バイク三周目の一矢が前を通り過ぎた。
その走りはスムースで、彼はレースを順調に進めている。
一矢は、先頭集団に続く、四人の第二集団につけていた。
もちろん、十代の部で一位だ。
その後に続く十代の選手は見当たらず、もはや、一矢のひとり舞台だった。
「最後の望みも絶たれた……」
御厨が力なく言う。
「いえ、まだ可能性はあります! 縦走先輩が一矢さんに勝てばいいんです!」
先輩に見えるよう、精一杯応援のプラカードを掲げていた弩が言った。
「えっ?」
と、僕達はその言葉の意味を考える。
「先輩が勝ってしまえば、問題ありません!」
弩が力強く言った。
「いや、いくら縦走先輩が強くても、男子とでは……」
体力の差がありすぎる。
それも、ただの男子ではない。
僕のようにへろへろの男子なら縦走先輩の足下にも及ばないけど、一矢は縦走先輩と毎日きつい練習を積み重ねている男子なのだ。
暦としたアスリートだ。
バイク三周目の縦走先輩が、コースの向こうからやって来る。
「そうだな、弩の言う通りだ!」
母木先輩がそう言って走り出した。
「縦走! あとはお前が勝つしかない! お前が一矢を抜いて、勝つしかないぞ!」
母木先輩が少し併走して呼びかける。
縦走先輩も、黒金がリタイヤしたのは分かっているようで、親指を一本立てた。
一瞬だけれど、口元に笑みがあって、この追い込まれた状況を楽しんでいるようにも見える。
「先輩! がんばれ!」
今、僕達にできるのは応援くらいしかない。
バイクで残りのコースを回った選手が次々にトランジッションエリアに戻って来た。
ここから、ランが5㎞。
僕達は縦走先輩が自転車を降りて順調にスタートしたのを見届けたところで、フィニッシュ地点に向かった。
ランのスタート地点で、縦走先輩と一矢の差は三分ぐらいあった。
その差を引っ繰り返すのはどう考えても無理だとか、そんなことは考えないようにした。
フィニッシュライン前は長い直線になっていて、柵で仕切られたコースの両側に、詰めかけた沢山の観客が選手を待っている。
先頭グループが帰って来た。
二十代三十代の男子の選手、五、六名の集団だった。
歓声と拍手が選手を迎える中で、一位の選手がゴールテープを切る。
けれど、僕達はそれを見ていなかった。
遠い直線の先に、一矢が見える。
こちらに向けて走ってくる。
もちろん、十代の部で一位だ。
もう駄目かと思った瞬間、そのすぐ後ろに、縦走先輩がいた。
二人の距離は十メートルない。
スイムとバイクで疲れ切っているところでの、ランで三分の差を縮めるのは並大抵のことではなかっただろう。
その証拠に、縦走先輩の美しいフォームが乱れていた。
いつもの、滑るように走る先輩の姿はそこにない。
手をがむしゃらに振って、動かない足を無理やり前に出していた。
もう、気力だけで走っているのが分かる。
一矢が後ろを振り返って、すぐ後ろに縦走先輩がいるのに驚いて、思わず、二度見した。
先輩がその隙を突いて、前に出る。
一矢も食い下がって、先輩に並んだ。
フィニッシュ地点前の直線で、二人は全力疾走する。
二人が競い合って、次々に前を走るランナーを抜いていった。
二人だけ、まるで短距離走をしてるみたいだ。
二人とも、もう、気力も使い果たしてしまって、ただ無心で走っている。
ほとんど同着と言っていいタイミングだけど、先にテープを切ったのは縦走先輩だった。
縦走先輩はそのまま、ゴールに倒れ込む。
一矢は惰性で歩きながら、空を見上げた。
縦走先輩が勝った。
男子も含めて、十代の部で一位だ。
黒金がリタイヤしたピンチに、縦走先輩は、自分で決着をつけてしまった。
絶望の状況から、自分で勝利をもぎ取った。
一矢が手を差し出して、倒れている先輩がその手につかまる。
がっちりと手を握って、一矢が縦走先輩を引き起こした。
まもなく二人は、トライアスロン部の部員に囲まれる。
その中心にいる二人は、両方とも笑顔だった。
声援も忘れて、固唾を呑んで見守っていた僕達も、術が解かれたみたいに喜び合う。僕は思わず、隣にいた弩を抱きしめてしまったけど、弩はなんの抵抗もせず、「ふええ」と嬉しそうな声を出している。
僕たちはもう、縦走先輩と一矢の事情なんて関係なく、すばらしい勝負を見せてくれた二人に、ただ賛辞を送った。
「よし、もういいよね。中華街行こう、美味しいもの食べよう!」
ガイドブックを掲げて、うきうきのヨハンナ先生。
もう少し、感動していたかったのに……
「いえ、すぐに帰りますよ。縦走を最高の夕飯と最高のお風呂と、ふかふかの布団で迎えます。すぐに帰って準備をします」
母木先輩が言う。
「ここからは僕達、主夫部の出番です」
先輩が言うと、ヨハンナ先生は親の
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