第8話 鍵

「先生、ジャケットの裾、ほつれてますよ」

 作戦通りのセリフを、錦織がヨハンナ先生に投げかけた。

 少し、棒読みだったかもしれない。


 帰りのホームルームを終えて職員室へ、廊下を歩いていたヨハンナ先生は、立ち止まって声のする方を振り返る。

 そこに錦織がいる。

 錦織が指す、ジャケットの袖の縫い目が確かにほつれているのを先生は確認する。

「ちょっと貸してください。僕、直せます。裁縫道具持ってますし、すぐに済みますから」

 錦織から意外な提案をされて、先生は少し戸惑う。

 錦織はお構いなしで、ブレザーの懐から携帯用ソーイングセットを出して、もう直す気満々という雰囲気を醸し出す。


「ああ、そう。じゃあ、お願いしようかな」

 ヨハンナ先生は戸惑いながらも、ジャケットを脱いで錦織に渡す。

 錦織はちょっと待っててくださいねと言って、廊下に置いてあった長机にジャケットを置き、先生に背を向ける。ジャケットの大部分が錦織の背中に隠れて、先生から見えなくなる。


 ここまで、ほぼ台本通りだ。


「あっ、先生、ちょっと」

 僕が廊下で偶然出会ったていで、ヨハンナ先生に話しかける。

 別に何か相談があったとか、質問があったわけではない。

 ただ先生の目を、錦織から逸らせるためだ。

 だから僕は、この前女子更衣室に閉じこめてすみませんでしたとか、適当な話をする。

 その隙に裾を直す振りをして、錦織が先生のジャケットのポケットを探る。

 ポケットの中に鍵束を見つけた錦織は、その七本の鍵の中から家の鍵らしき一本、それだけを抜き取って、鍵束はポケットに返しておく。

 そして、慣れた手つきで裾のほつれを手早く直す。


 ここまでも台本を大きく外れていない。


「先生、出来ました」

 と、錦織が修繕を終えたジャケットを先生に返す。

「ありがとう」

 錦織の裁縫は完璧だった。

 もう、どこを直したのか、修繕箇所も分からないくらいだ。

 その出来栄えには先生も感心する。

 当然、鍵が一本なくなっているという些細なことに気付く様子はない。


 錦織から、鍵があった、との目配せを受けて、僕は「それじゃ失礼します」と唐突に話を切り上げて、そこから去る。

 突然廊下でとりとめもない話をし始めて、わけの分からない生徒と思われたかもしれないけど、仕方がない(もうとっくに思われているか)。


 とにかく、これでヨハンナ先生のマンションの鍵が手に入った。



「鍵が先生のジャケットのポケットに入ってるって、よく分かりましたね」

 御厨が感心したように僕を見る。

「いや、簡単な推理だよ」

 僕は、余裕を装って言った。


 まだ部室がない僕達は、図書室の隅に集まっている。

 我が校の創立者が晩年著した本を集めた無駄に広い特設コーナーに四人、車座になっていた。

 ここは滅多に人が来ないから、このような密会には都合がいい。


「ヨハンナ先生はいつもスマートフォンをジャケットのポケットに入れていた。スマートフォンの液晶フィルムとか本体が傷だらけだったからね。ポケットの中で何か硬いモノと長い時間、擦れあってるのが想像出来たんだ。ポケットにいつも入れておくような大きさの硬いモノっていったら、鍵だからね」

「なるほど!」

 御厨は僕を尊敬の眼差しで見てくれる。

 でもこの推理は、僕の推理ではない。

 枝折の推理だ。

 昨日の夜、ベランダで枝折が披露してくれた推理だった。

 以前、僕がした先生のスマートフォンが傷だらけだったという話を覚えていて、そこから推測したのだという。

 まるで安楽椅子探偵のようで、我が妹ながら感心してしまう。


「それじゃあ、作戦を確認しよう」

 近くに人はいないけど、僕は声をさらに潜めた。

「只今から、ヨハンナ先生のマンションを急襲する。その一人暮らしの部屋を襲って、僕達の家事で、完璧な部屋に仕上げる」

 僕が言う。


 それが、この作戦の本体だ。


 先生のマンションはすでに調べてある。

 ストリートビューで最寄りの駅からの道順も確認してあった。

 今日、先生は会議があって、午後六時過ぎまで学校にいることも分かっている。


「僕達が本気で主夫になりたいと思っているのを、身をもって知ってもらう。体感してもらう。そうすれば先生も主夫部の顧問になることを認めざるを得ない。逆に、認めざるを得ないような家事で、先生を迎える」


 完璧だ。


 枝折が考えた作戦は完璧だ。

 脅しや暴力に頼らず、買収などもせず、僕達の持つ主夫力を以て、先生に要求を受け入れさせようというのだ。

 なんて平和的な作戦なのだろう(鍵は盗んだけど。これから部屋に不法進入もするけど)。


「御厨君は料理を頼む。帰宅したヨハンナ先生が思わずとろけてしまうような、美味しい夕飯を用意して欲しい」

 僕が言うと、御厨は「はい」と敬礼を返してくる。

「僕は部屋の掃除を担当しよう。潔癖症なりの完璧さで、部屋を綺麗にする」

 母木先輩が名乗りを上げた。

「お願いします。でも、先生の性格からして、だいぶ部屋が汚れてると思いますが、大丈夫でしょうか?」

 僕は先輩に訊く。

 ヨハンナ先生の部屋を見たことはないけど、彼女が学校に乗ってくるフィアットを見る限り、整理整頓されているとは思えなかった。車の外装は長らく洗車されてないみたいで、泥だらけだし、中には書類やら、コンビニのレジ袋やらが散乱している。


「望むところだ。どれだけ汚い部屋だろうと、半導体製造のクリーンルームのように塵一つない部屋にしてやるさ」

 先輩が言った。

 まったく、頼もしい限りだ。

「錦織は衣服のほうを頼む。おそらく先生の服の中には、ボタンが取れてたり、破れていたり、修繕が必要なのがあると思う」

「分かった。そっちは任せてくれ」

 錦織が力強く言う。

「僕は主に洗濯を担当する。そして適宜、みんなのサポートに入るから、どんどん仕事を言い付けて欲しい」

 僕が言って、皆が頷いた。


「よし、行こう」

 僕達は立ち上がる。

 これから、主夫部設立をかけた僕達四人の戦いが始まる。


 でも僕達の戦いの場所は、火薬の匂いがする戦場ではなく、家庭だ。

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