第9話 戦場

「うわぁ」と御厨。

「なるほど」と僕。

「これは、中々……」と錦織。

「………」無言で、倒れそうになる母木先輩。


 学校から二駅離れた、郊外にある築二十年の賃貸マンション。

 ヨハンナ先生が一人暮らしをする部屋。

 鍵を開けて忍び込むマンションの一室は、もう何回か泥棒の襲撃を受けたみたいに散らかっていた。

 それも、かなり執念深いタイプの泥棒に。


 入ってすぐのキッチン。

 シンクには洗っていない食器が層を成して溜まっている。

 半分汁の入ったカップラーメンの容器や、開封した空のレトルトパウチも突っ込んであった。一杯になった三角コーナーには黒ずんだ「何か」が捨ててある(それが何かは知りたくない)。

 小型の冷蔵庫の前には、様々な種類の空き瓶が並んでいる。

 ビール瓶に日本酒の一升瓶、焼酎の瓶、ウイスキーの瓶、泡盛あわもりの古酒の瓶。主にアルコール関係が多い。

 床を埋めるように複数置いてあるスーパーのレジ袋の中身は食品だろうか、それともゴミだろうか。おそらく、その両方が分別されることなく混在しているみたいだ。


 キッチンから右にバスルームのドアがある。

 ドアを開けた母木先輩は、青ざめてそのまま閉めてしまった。

 潔癖症の母木先輩からすれば、地獄の門を開けて中を覗き込んだ心地だったに違いない。


 横に奥行きがあるキッチンに添って二部屋が並ぶ。

 ヨハンナ先生は左側の広い方の部屋をリビングとして使っていて、右側の一回り狭い部屋にベッドを置いて寝室にしているようだった。


 まず、左側のテレビとソファーが置いてあるリビング。

 新聞と雑誌が一面に散らばっていて、床面が見えない。

 その上にはコンビニ弁当の空の容器が積み重なって、層を成していた。

 飲みかけのペットボトルが十数本、当たり前のように転がっているし、飲みかけのコーヒーらしき液体の入ったマグカップが数個、アクセントのように配置されている。

 リビングの隅に掃除機が置いてあるけど、それ自体にうっすらと埃が積もっていた。

 床の上ばかりではない。

 リビングの空中には対角線上に洗濯紐が渡してあって、沢山の洗濯物が吊されていた。乾いているものものあり、湿っているものもあり。冬用のダウンや、半袖のシャツなど、季節も様々だ。

 そして見覚えのあるまったく同じ型のスーツも四着、並べて釣り下げてあった。

 少し皺になっているものもあれば、クリーニングのビニール袋に入ったままのものもある。

 先生は学校で毎日同じスーツで過ごしているけれど、それは同じ型の五着を着回しているのであって、同一のものを毎日着ているわけではないのだと分かって、なんだか少しだけほっとした。

 本当に、少しだけ。



「うわぁ、すげぇ」

 錦織が開けた隣のベッドルームは、ベッドのある部分、寝る場所以外に足の踏み場がなかった。

 しかし国語教師らしく、ここは本棚や、積み上げられた本、書類で埋まっている。

 本のジャンルは主に文芸書が多いけど、専門書や学術書、画集なども目立った。

 本に埋もれて原稿用紙一枚分くらいの作業スペースが残った机もあるから、見ようによっては文豪の書斎に見えないこともない。


 ベッドの上の布団は何時干されたのか、たっぷりと湿気を吸っていそうだし、ベッド脇にいる灰色のクマは、元は純白のぬいぐるみだったと思われる。



 忙しくて行き届かないところもあるんだろう(特に最近の忙しさには、僕が一翼を担っている部分がある)。

 けど、ものすごく控えめに言ったとしても、汚い。


 ヨハンナ先生に彼氏がいるのか、いないのかという、僕達男子高校生の果てしない論争には、今ここで完全に終止符が打たれた。


 いるはずがない。


「これはやり甲斐があるな」

 錦織が言った。かなり前向きな言い回しだ。

「そうですね、これは僕達が試されます」

 御厨は冷蔵庫を開けて中を確認する。

 ビールに日本酒、紙パックのワインなど、冷蔵庫の中もアルコール類が占めていた。他に入っている食品も、酒の肴というべきものばかりだ。

 それでも、僅かに野菜の類、漬け物、味噌、ハムなど、食材になりそうなものも入っている。

 御厨はキッチンの棚を開けて、調味料や小麦粉、乾物などが入っていることも確認した。

「どうにか、ここにあるものでなんとかなりそうです」

 ガスコンロが使えるか試してみて、御厨が言う。


 僕の担当、洗濯機の中には、蓋が閉まらないくらい洗濯物が一杯に溜まっていた。

 洗濯機の横のカゴには、洗って干したまま、たたまれずに重ねてあるだけの衣類もある。

 見た瞬間、すぐにでも洗濯してしまいたい衝動に駆られた。

 全部真っ白にして、シャツなどパリパリにアイロンをかけたい。

 タオルをふかふかに仕上げたい。

 畳んできっちりと、収めるべき場所に収めたい。


 本当に、やり甲斐に満ちている。

 満ち満ちている。


 母木先輩はマスクを付けた。目にはゴーグル。手にはゴム手袋をはめて、足にはゴムが入ったビニール袋を履く。

 完全防備体制だ。

 フルアーマー母木先輩だ。


「よし、かかろう!」

 僕達は一斉に作業に取りかかる。

 そう、これは家事ではなくて、作業だ、戦いだ。



 最初の作戦では、長くても二時間程度で終わると予想していたけど、戦いは七時過ぎ、先生が帰宅する直前までかかってしまった。


 ヨハンナ先生の車が下の駐車場に入る、本当に直前で、どうにか滑り込みで終えることができた。

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