第7話 夜の洗濯

 洗濯は気持ちいい。


 真っ白に洗い上がったTシャツ。真っ白いシーツ。ふわふわのバスタオル。

 洗い上がったそれらを洗濯機から出して、パンパン叩いて皺を伸ばす。

 柔軟剤の甘い香りが、叩くたびに辺りに広がる。

 洗濯物が嬉しそうに風にそよぐ。

 夜空に浮かぶ白が眩しい。


 朝は三人分の弁当作りで忙しいから、夜のうちに洗濯を済ませて、二階のベランダに干してしまう。

 特にこれから夏にかけては、風呂に入ったあとの火照った体に夜風が気持ちいい時期だ。


 洗濯しながら心が洗われる。

 昼間にあった嫌なことや、面倒くさいこと、これからの不安、全て洗い流される。

 心も洗う。

 真っ白になる。


「本当に! 大人って、汚い!」

 洗濯で現実逃避していた僕を、妹の花園かえんが現実に引き戻した。

 花園は、まだ怒っている。

 プリプリ文句を言っている。

 夕飯の食卓で、僕が今日学校であったことを話してから、ずっとこの調子だ。

 まあ、僕のために怒ってくれてるんだから、ありがたいことなんだけど。


「卑怯なことしないで、直接言えばいいのに!」

 横に長い八畳ほどのベランダで、洗濯カゴを持った花園は洗濯物を干す僕の横にいる。いつものように、僕の洗濯物干しを手伝っていた。


「うー、腹が立つ!」

 ピンクのパジャマの花園が、干してあるバスタオルに、鋭い左ストレートを食らわせる。ウエルター級のボクサーくらいなら、倒してしまいそうなパンチだ。


 花園の洗い立ての髪からは、シャンプーの香りがした。

 まだ完全に乾いていない髪には、きついウェーブがかかっている。

 花園は、母譲りの癖毛なのだ。


「大体、主夫部が野球部とかサッカー部と、どこが違うっていうのかな」

 花園が言う。

 いや、それはかなり違うと思うが……


 くしゅん、と、怒っていた花園がくしゃみをした。

 その様子が可愛らしくて、思わず僕はにやけてしまう。

「お兄ちゃん、妹のパンツを持ちながらニヤニヤするの、お兄ちゃんでも、ちょっと引く」

 花園に言われた。

 僕は手にしてた花園のパンツを素早く干して、手を離す。



 そうして僕達が洗濯物を干していると、

「お兄ちゃん」

 と、受験勉強をしていたはずの枝折が、ふらっとベランダに現れた。

 枝折は寝間着の青いスエットを着ている。

 両手で愛用の湯飲みを持っていた。

 歴代総理大臣の似顔絵がプリントされた、国会のお土産のやつだ。

 勉強の合間に、飲み物を取りに部屋を出て、ついでにベランダに寄ったらしい。


「問題は一つ一つ解決していくべきだと思うよ。お兄ちゃんに問題解決する意志があるのなら」

 枝折が言う。

 もちろん、僕には問題を解決しようとする意志がある。


「そう、それならまずは顧問の問題から解決しましょう。お兄ちゃん、私には顧問になってくれそうな先生の当てがあるよ」

 枝折が言った。

 いや、当てがあると言っても、枝折は僕の高校の教師を誰一人知らない筈だ。

 僕の高校に足を踏み入れたことがないんだから、知りようがない。


「お兄ちゃんの担任、霧島ヨハンナ先生。彼女なら顧問にぴったりだし、断られたとしても籠絡ろうらくすることが可能だと思う」

「枝折はヨハンナ先生のこと知ってるの?」

「知ってるよ、よく知ってる。だって、お兄ちゃんがよく話してるし」

 確かに、僕はヨハンナ先生のことをよく話していたかもしれない。


 親代わりだし、僕は妹達とコミュニケーションを取ろうと、なるべくたくさん話をするよう心掛けているけど、どうしても話題は学校関係が多くなる。

 いや、というか、それが殆どだ。

 普通の親のように仕事の話とかはできないし、説教とかはしたくない。

 そうかといって流行のスイーツの話とかはできない。

 反対に、硬い国際政治の話とかもできない。

 だから話題が学校の出来事にかたよる。

 僕がする学校の話の中には、先生に関するものが多く含まれていたと思われる。

 意識してなかったけど、最近はそればかりだった可能性もある。

 枝折の記憶力は抜群だし、想像力が豊かだから、僕の話を元に担任の人物像を正確に組み立てたんだろう。

 会ってもいないヨハンナ先生の人物像を、把握しているのかもしれない。


「ヨハンナ先生にも頼んだけど、もう断られたよ」

 僕は枝折に言った。

 それは、頼もうとする言葉を発する前に断られた。

 交渉の余地はニュートリノの質量よりもなかった。


「頼み方の問題だと思う。もう一度、今度は方法を変えて頼むの」

 枝折が言う。

「どうやって?」

「すごく簡単。先生にお兄ちゃんの主夫としての実力を見せてやるの。見せつけてやるの。ただそれだけ」

 枝折はそう言うと、僕に詳しい作戦を話した。

 誰に聞かれるわけでもないのに、顔を寄せて小声で耳打ちする。


 それは驚くべき作戦だった。


 そして、声を落として耳打ちしたのが正しい、危険な作戦でもある。

「絶対に成功するからやってみて」

 枝折が言った。


 耳打ちで枝折が僕に顔を近づけたのに焼き餅を焼いて、花園が、

「枝折ちゃんばっかずるい!」

 と、飛び付いてくる。


 期せずして、兄妹三人、夜のベランダで顔をくっつけることになった。

 僕はベランダの柵を超えて落ちてしまわないように、踏ん張って二人を支えた。


 当たり前だけれど、もう、枝折も花園も、随分重たくなっている。

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