第一話「蜘蛛の糸」



 その日、普通の高校生である黒川 幸人(くろかわ ゆきひと)は日課のランニングに出ていた。

 着慣れた青のジャージを身に纏い、帰宅部のセオリーなど知らないとばかりにいつものコースをひた走る。

 車で二時間ほどの近くの街で避難勧告があったそうだが、彼は気にもしなかった。別段ドクターRは無抵抗の民間人を直接攻撃などはしないからだ。攻撃予定地に在住している者でもなければ関係のないものだと、既に日本国民の大半は割り切っていた。

 その理由の一つに襲撃予定地を予告し、避難勧告を出してからSGで襲撃をかける律儀さにあった。

 元々大量破壊兵器が存在しない国ということで、最初期のドクターRの攻撃対象から外されていたことも理由だろうか。

 核保有国の核貯蔵施設が当然のように真っ先に攻撃される中、日本はその一瞬だけは蚊帳の外だった。

 やがて抵抗しなければ安全だという教訓が世界中に広まった頃には、地震と津波に鍛えられた極東の民のほとんどは彼を天災のように捉えていた。

 短絡的なもので、行動の傾向から大都市でなければ安全だという情報が広まったことで田舎への疎開や脱サラが急増。SGに降下占領された東京、大阪などの大都市は人口の空白地帯となり、国会は一時的に他県で開かれていた。

(ここらも人が増えたな)

 ゴールデンウィーク明けのその日の夕暮れには、スーパーへの買い物帰りの人とよくすれ違った。

 大都市は人質であるのは明白だが、安全な田舎への人の流入は地方再生の流れを作り始めている。

 東京は首都のまま、しかしそこを攻撃して周囲一帯を瓦礫の山にするよりはと、未だに結論は先延ばしにされている。

 今国会で奪還作戦が自衛軍によってなされることはないだろう。むしろ、攻撃した後の報復を考えて先延ばしにしているのは明らかだった。

 ここ数代はその調子で、すでに国民は誰も期待などしていない。

 幸人もそうだった。

 そもそも、相手は空間転移<テレポート>まで利用してくる。

 重要拠点にピンポイントで武装した核ミサイルをデリバリーされては戦略も糞もない。

 いきなり大量破壊兵器が現れるという悪夢の戦略は、人類のどの軍にも対抗策は存在しないのだ。

 また、無尽蔵の兵力も問題だった。

 あれだけの物量を維持するための資源、数々のオーバーテクノロジーを所有する理由。

 それらは全て謎のベールにひた隠しにされたまま。

 現在行われているWDFの軌道降下妨害など、わざわざ襲撃予告をしてくれるドクターRの仕掛けた消耗戦でしかないと言うコメンテーターや評論家がいる。

 だが、彼らはだったらどうすればいいのかという質問には答えられない。

 いい加減、誰だって理解していた。

 本気になって攻められたら、誰も手が付けられない相手なのだと。

 だからこその天災か。

 過ぎ去ることを願う。

 あるいは鎮まることを願う。

 そういう民族性を発現させる理由が、少年にはなんとなく理解できるような気がした。

 唯一の救いは、ドクターRが地球の支配には興味がないということか。

 仮にもし世界征服などが目的であったなら、平和ボケ筆頭の日本人だとてここまでのんきには構えてはいられなかっただろうし、少年もランニングなどせず避難所にでも避難している。

「はぁっはぁっ」

 一車線しかない田舎道を、道なりにただ走る。

 いつからかずっと繰り返してきた日常。

 息苦しいだけの苦痛に、意味があるとただ信じて幸人は走る。

 そうして、幸人は見た。

 暁の空の中に、ひと際輝く閃光を。

 それは闘いの残光だった。

 ニュース映像で何度となく放送された望遠映像のそれと同じ、恐ろしい破壊力を有した兵器のあげる断末魔だった。

 遅れて轟いた微かな爆音に、土手道の下の河原で筋トレをしていた少年野球のちびっこたちが指さして慌てている。

(近い……な。WDFの妨害で降下軌道がズレたのか?)

 ジャージの袖で汗を拭い、思わず空を見上げて止まった足を幸人は再び動かした。

 少年が心持ち空を警戒するのは、落下してくるだろう落下物を気にしてだ。

 実弾の流れ弾、機体の残骸。

 地上に住むなら、運が悪ければ被害に合う事もある。街の遥か彼方の上空での戦いだからこそ、そういった危険性は常にあり恐怖心を掻き立てられる。

「……ん?」

 ふと、彼はまた足を止めた。

 見上げた夕空から何かが落ちてくるのが見えたからだ。

 WDFのマルクトの残骸かと思えば、それはまったく違っていた。

 WDFならオリーブ色。日本の自衛軍なら青だが、それはまるで夜の闇を凝縮したような漆黒だった。

 幸人は思わず声を失った。

 落ちてくる。

 堕ちてくる。

 そのまままっすぐに川上へと落ちていく。

 それは茫然とした少年を放置して砲弾のように着弾。

 遠方で盛大に水しぶきを上げたかと思えば、仰向けに寝そべったまま微動だにしなかった。

 無残の一言だった。

 背面にあったはずの三対ある鋭角なV字スラスターはへし折れ、所々に弾痕が穿たれた装甲は激戦の痕が伺える。

 野球少年たちが遅れて騒ぎだす中、自然と彼の足はその機体の方へと向かっていた。

 が、その途中で別の物が川に何かが落ちるのを見た。

 視力の良い彼は一瞬残骸か、とも思ったが、それは数秒もせずに浮かび上がってきた。

 幸人の足が止まる。黒瞳の先に居るのは、一匹の黒猫だった。

「――」

 一瞬の葛藤。

 機体への興味とその黒猫が天秤にかけられ、幸人は迷うことなく猫を選んだ。

 ジャージの上を脱ぎながら土手道から降りて河原に向かうと、放り出して飛び込む。

 春とはいえ肌寒い。それでも水をかき分け、ぷかぷかと浮いたまま流される黒猫を引っ掴むと頭に乗せて岸へと戻る。

「猫は無事!?」

「おう。ほーらこの通りだ」

 一部始終を見ていた野球少年たちが歓声で幸人を迎える中、抱いた猫は逃げ出しもせずニャーと鳴きもしない。

 しかしそのくりくりっとした瞳はしっかりと動いており、幸人や少年たちを目で追っている。なんとはなしに両手で抱えて目の前に持ってくると、何やら口元がシニカルに歪んだ。

「……お前、どこかで見たような顔だな」

 投げ捨てた上のジャージを回収して羽織ると、幸人は着水した機体へと目を走らせる。

 途中にかかっている橋の上には既に野次馬が集まっており、遠くからパトカーの鳴らすサイレンの音が聞こえてきた。

 機体への好奇心は勿論ある。が、その前に周囲に誰もいないことを確認して彼は言った。

「パンドラ、結局誰も及第点を突破しなかったのか?」

「ええ」

 簡潔な返答は、黒猫の口から発せられた。

「ならアレのドライバーは」

「死んだわ。時間もないから、多分貴方で決まりね」

「そうか。ならいい」

 ランニングを切り上げ、少年は家路を急ぐ。

 家に帰って、懐かしい住人を迎え入れる準備もしなければならない。

 その横を自衛軍の装甲車が走っていったが、幸人はもう気にもしなかった。




 M市は田舎とはいえ、全高二十メートルの機体が河原に倒れていれば嫌でも人目を惹く。ましてや着弾の衝撃で生じた音と振動は、付近の住人からすれば気づくなという方が不可能である。買い物帰りの主婦や学校帰りの子供たちだけではなく、帰宅途中のサラリーマンまでもがそれを遠目に伺っていた。

 念のためにと派遣された空自――航空自衛軍の立花 麗華(たちばな れいか)少尉は、青いカラーのマルクトのコックピットからその漆黒の機体――ディスペアを見下ろしていた。

 クレーンで釣り上げられたその機体は今、何事もなくトレーラーへと乗せられ、ワイヤーで固定されている最中だ。今のところ撃墜した敵機が現れる様子はない。

 けれど、それに安堵する余裕は彼女にはない。

「先輩……」

 こじ開けられたコックピットの中には、遺体の残骸しかなかったと無線で聞かされた。

 姉の恋人であるその男は、正義感の強い男だった。

 WDFへの出向も務め、悲惨な損耗率で名高い迎撃任務をも生き抜いた、彼女たちと同じ幸運の持ち主だったはずだった。

 現代の花形兵器SGのパイロットは長生きできない。

 教官にでもならない限りは、現状では戦地をたらい回しにされて死ぬ。

 だが、それでも戦わなければならないのが軍人としての務めだ。ドクターRが武器の管理を目的にして大量破壊兵器はおろか通常兵器の破壊を企もうと、やっていることはテロ行為でしかない。

 兵器の管理権を各国に要求するための脅しとして、ロボットを降下させる作戦もそう。

 極力民間人への被害を嫌っているのだとしても、それを止め、自国への大量破壊兵器の降下と自衛戦力を守るのが彼らの仕事だ。

『撤収準備完了。これより船に帰投す――なに!?』

 瞬間、鎮痛な面持のままだった彼女に緊張が走った。

 両手が握る操縦桿に力がこもり、すぐさまレーダーへと視線を落とす。敵、ではない。    

 だが、彼女はすぐに士官の驚きの意味を知った。

 モニターの向こう。

 光学センサーの故障でなければ、あの漆黒の機体が光の粒子となって夕闇に解けて消えていくのが見えたのだ。

『パンドラの奴っ――』

 彼女の姉、立花 凛華(たちばな りんか)の悲痛な声が無線越しに耳に届く。

 その叫びの意味が、同じパイロットとして麗華には分かる気がした。

 あの機体は、下手をするとドクターRの先兵よりもナンセンスだ。

 どこの世界に、ジャンクと化した機体が跡形もなく消える兵器があるというのか。

 だがしかし、その機体だけが唯一敵機とまともに交戦できるのもまた事実。その機体を手に入れられれば、ドクターRとも戦える。パイロットとしては喉から手が出るほど欲しいだけでなく、解析し、技術を模倣すればこの戦いへの光明が見出せる。

 生憎と自衛軍の研究チームではそれを解析することはできなかったが、手元にあれば何れは人類の叡智が解き明かすはずだった。

『――一旦帰投する。総員、撤収急げ! マルクト部隊は先に港へ帰投しろ』

「……了解」

 すすり泣く姉にかける言葉一つ出せないまま、麗華はことさら強い声で返答すると機体を操った。




「くぁぁぁ、やっと終わった」

 宿題を終えた幸人が居間へと視線を動かせば、座布団の上で丸くなっている黒猫の姿が目に入った。付けっ放しのテレビ番組には興味がないのか、それだけ見れば本当にただの猫のようにしか見えない。

 けれど、彼女がただの黒猫であるはずがないということを幸人は知っていた。

「風呂入るけど、お前はどうする」

「入るわ。私はこう見えて綺麗好きだもの」

「でもお前猫だけどな」

 首根っこを引っ掴んでぞんざいに言うと、幸人は浴室へと向かう。

「私、猫である前にこう見えて立派な淑女<レディ>よ」

「なんだそりゃ」

 貯めていた湯はちょうど浴槽にたまっていたので、一旦止めて服を脱ぐ。

 その間、浴室に入ったパンドラはすかさずプラスチックの桶の中に入り込んだ。

 まるで狭い場所が好きな本物の猫のような振る舞いだ。

 高貴なるレディの行動に苦笑しながら、幸人はパンドラ用のノミ取りシャンプーでもってその肢体を洗いにかかる。

 そうしていると、昔のことをふと思い出した。

 この家の家主が生きていた頃のことだ。

「お前、折原の爺さんにブラッシングされるのが好きだったよなぁ」

「ええ」

 折原 卓也(おりはら たくや)という、彼の幼馴染の祖父が居た。

 小さいころからよくしてもらっていて、仕事の都合で両親が引っ越すという時、彼が下宿するかと言ってくれた。そして死後も遺書に望むなら住ませてやってほしいとまで書いていてくれた。

 おかげで幸人は、学校の友人たちから離れることなくこの田舎で過ごすことができたし、この町から離れることなく生活ができていた。

 折原 卓也はフルダイブ型のバーチャルゲームの祖である。

 VR技術を開発し、技術の特許をとり、その集大成として作り上げたマシン『バーチャルダイバー』を世に出した立役者だ。同時に開発プラットフォームをフリーで解放し、ゲーム界はおろか、医療界などをも震撼させた。

 そうして、コアなゲームメーカー『フロッグソフト』に入社。バーチャルダイバーの第一人者として制作にかかわった。

 そのおかげか、退社後にフラフラと何かをしていた彼の作ったロボットゲームが幸人は好きだった。

 中には市販されていないものもあり、二度と手に入らないゲームとして大切に保存してある。VRゲーム解放世代の父親が羨ましがる程で、それもあってかゲーマーである両親にも信用されていた。

 彼との思い出は多い。

 隣近所だったこともあり、幼い頃の彼にとっては大事な遊び相手だったのだ。そんな彼は、パンドラという喋る猫を飼っていた。

 ニャーと鳴かないその猫は、エサを食べずにミルクと砂糖多めのカフェオレを飲む。折原が居ない間は彼女と、幼馴染の少女と一緒によく過ごしたものだった。

「そういえば美夏は?」

「家に居るぜ。明日にでも会いに行くか?」

「……止めておくわ」

「そうか。いや、その方がいいか」

 幼馴染の折原 美夏(おりはら みか)は猫が嫌いだ。

 昔はそうではなかったが、今はもう大嫌いになってしまっている。

「まぁ、でもメールだけはしとくよ」

「好きにしなさい」

 プイッとすまし顔で前を向いた彼女に、少しだけ困った顔で幸人はシャワーをかけた。




 幸人の夜は早く、その反動で朝も早い。

 帰宅後はランニングと筋力トレーニングの後に食事をし、宿題を済ませて風呂に入ってさっさと寝る。そうして、朝の三時には起きだしてフル大分型VRゲームに勤しむ生活だ。

 まずはフロッグソフト社の傑作オンラインゲーム『ダンジョンギアーズ』で慣らす。

 VRオンラインゲームの中でもメカアクションに特化したそのゲームは、まず難易度の高い操作感でプレイヤーをふるいにかける。

 フロッグソフトは孤高のメーカーだ。

 ユーザーに媚びず、むしろふるいにかけて厳選する。

 だが、その高難度を超えるとプレイヤーにフロッグ脳と呼ばれる現象を引き起こし、ユーザーを魅了して離さない不思議な魅力を持っている。特にメカアクションには定評があり、そのジャンルでは有名な老舗といってもいい。

「くそっ、親父の奴今日も強ぇぇぇ」

『年季が違うのさ。あと十年はやりこんで来い』

 ウィスパーから聞こえる声は、心なしか弾んでいる。

 ロートルと呼ばれる父親は、相手よりも弱い機体で倒すジャイアントキリングマニア。アリーナで彼に狙われた時は負けるときだ、などと囁かれる程度には強い。

『まぁ、お前もかなり上手くなったな。そろそろアリーナの上位陣を食えるんじゃないか?』

「この前『弾丸切り』のトップを食ったぜ」

『おおっ、あいつか。なら次はアリーナのトップ10辺りを狙ってみろ』

 親子の距離をゲームが埋める。

 既に黒川家でのコミュニケーションツールとして、そのゲームは機能している。彼の父親が母親をひっかけたのもVRゲームでだというのだから、黒川家はゲームには寛容だ。

『んじゃあな。五月病にはかかるなよ』

「そんな暇ないって」

 日課となっている闘いを終え、ゲームを切り替える。

 実戦から離れている日本の自衛軍が愛用するという、体感シミュレーションプログラムを模したゲーム――と教えられた教練ソフトを次々と流し、最後にまた別のメカアクションのゲームに切り替える。

 そのゲームはマルクトを使って一対多の戦場を駆け抜ける、折原 卓也が最後に残した高難度ゲーム。

 タイトルはなく、それにはクリアという概念さえもない。

 ただひたすらに、さまざまな戦場を戦い抜く。

 途中の補給はない。

 実機のシミュレーターそのもので、違うのは操縦形態が本物と同じマニュアル操作か、バーチャルダイバー特有の感応制御システムかを選べることぐらいだ。

 ただただ多勢に無勢を戦い抜く。

 考えられる限りあらゆる要素がプレイヤーを襲うその鬼畜な難易度は、ロボットゲームに慣れ親しんだ幸人でさえ気を抜けば一瞬で撃墜されるほどである。

 だが、それも実は限りがあるということは知っていた。

 少しずつ撃墜数は増える。

 ある一定量のスコアをたたき出すと、初めて機体がマルクトから別の機体へと切り替わるインターバルを得ることができた。そこで教えられたパスワードを打ち込めば、幸人は現行最強の機体でプレイすることができた。

――すなわち、MSG-00<ディスペア>。

 SGであるマルクトとは根本的に違う異質な機体。

 一対多という絶望的な状況下の中、多を殲滅するために作られたという最強機。存在してはならない、するはずのないオーバーテクノロジーの産物。

 注釈はそれだけだ。

 しかし、その機体は確かにすさまじい。

 敵機がドクターRの繰り出す対消滅エンジン機に切り替わってもなお、エネルギーが持つ限りは自爆特攻でさえ耐えきって戦える。

 まさに夢のような機体。

 核ミサイルの直撃を受けても平然としていられるその兵器は、実在するなら確かに一軍を圧倒して自軍を勝利に導けるだろう。

 きちんと扱いきれる腕があるのなら、だが。

 機体は強い。

 確かに強いが、そのポテンシャルを完全に引き出せるパイロットが存在するかどうかは別の話だ。現にその機体に乗ってなお数の暴威で最終的には撃墜される。

 それが普通だ。

 しかし、黒川 幸人はその当たり前に納得などしなかった。

『腕を上げたわね』

 回線に乱入してきたパンドラが素直に褒めるが、幸人は貪欲に言い放つ。

「どこがだ。たった今撃墜されたぞ」

『軍じゃ、五機も十機も落とせば十分にエースって呼ばれるのよ』

「親父ならもっと倒すさ。だいたい、まだまだ機体の反応速度には余裕があるだろ」

 それに実機に乗れば、リトライはできない。

 たった一回。

 一回こっきりのチャンスを彼はつかまなくてはならないのだ。そこに妥協はない。

 この勝負に全てがかかっていると思えば、自分の未熟が歯がゆくて幸人は堪らない。

『そろそろ学校の準備をしたら?』

「もうそんな時間か」

 ログアウトし、ダイブ接続を切る。

 脳量子を利用した接続は、従来のバーチャルゲームとは一線を駕す。

 視覚だけではなく、感覚もすべて没入し脳に錯覚させるこのフルダイブ形式の臨場感は最高だ。現実<リアル>に迫る仮想<バーチャル>は、フルダイブ技術の完成でシミュレーターの精度を格段に引き上げた。

 医療関係なら高度な義手・義足にも理論は応用され、軍では一等濃密な仮想訓練が行えるようになった。

 折原 卓也が人類にもたらしたそれは、それだけ価値のあるものだと言ってもいい。

 だが、彼が幸せだったかどうかを考えると幸人は途端に億劫になる。

 成功者としての彼を称える声は確かに多い。

 けれど、ならば。

 何故、人類の発展に寄与したはずの彼が自殺しなければならなかったのか。

「……ん」 

 眠りから覚めるようなログアウトの感覚の中、プレイする度に思う。

 その帳尻を少しでも合わせるために、今の自分が居るのだと。





 翌朝、立花姉妹は命令でブリーフィングルームへと集められた。

 戦死した自衛官、松田 剣(まつだ つるぎ)への満足な追悼もできぬままに、彼女たちは別の地で行われていた降下妨害作戦の失敗報告をも併せて聞いた。

「また全滅か」

「いったい、何度繰り返せばいいんだ」

「本当に上空で撃ち落とすより他に手がないのか?」

 だがWDFはそれを選択し加盟国はそれを承認した。

 するしかなかったのである。

 当然だが街中では戦えない。

 一部地域では歩兵を使ってで自爆まがいの方法で処理する場所もあるが、被害の出にくい上空で迎撃するのがもはやセオリーとなっていた。

 その理屈は、立花姉妹にもわかる。

 そのために迎撃用のレーザーおよびミサイル衛星、補給発進用の宇宙ステーションまで突貫して揃えられた。けれど現状では満足のいく結果など出せてはいない。

 シャトル打ち上げ用のマスドライバーが建設され、月旅行が可能となっていたとはいえ地球人類にできるのはまだその程度だった。

 本格的な宇宙戦闘などほとんど経験してはいなかった。

 それでも軌道迎撃を選んだのは被害が最小限であるということと、マルクトが宇宙戦闘も視野に入れた汎用機であったことが起因していた。それ相応の装備に換装すれば、大気圏外から突入装備で落下しながら迎撃できる。

 そう踏み切らせた要員の一つに空間歪曲バリアを持っていない敵のマルクト――SG-10-1<マルクトR>の撃墜が容易だという理由がある。

 ミサイル迎撃用の対空レーザーこそあるものの、それも絶対に迎撃できるわけではなく、バリアを使わないのでレーザーが通用する。

 なので一機撃墜できれば、編隊を組んでいる機体をまとめて誘爆させられる。

 問題は大気圏内ではレーザーが減衰することだが、そこは状況に合わせて長距離狙撃用のスナイパーライフルなどで誘爆圏の外から対応するのがSG部隊の仕事だ。

 数の降下を許せば、その分占領範囲を大きく取られる。それを防ぐための苦肉の策といえただろう。

 攻勢に転じようにも相手は人類の到達圏外で、遠征に出る準備も装備もどこの軍にも存在しない。今はただ耐え忍ぶことしかできないのが現状だった。

 増え続けるWDFの防衛予算とパイロットの消耗は、各国の頭痛の種である。

 加えて最近では、ドクターRの先発隊から分かれて火星に降下した彼の仲間らしき一団が火星に独立国家を作るなどという声明を発表したことで事態は混迷した。

 彼らは移民を地球に募っていて、実際に移住希望者を輸送機に乗せテレポートでいずこかへと運んで行った。

 ドクターRとは別の目的があるようだが、ネットでは冗談か本当かロボットを労働力としたニートピアを作っているなどという、訳のわからない情報が錯綜し、これまた世間に話題を提供している。

 日本の自衛軍としては、テラフォーミングさえできていない火星などよりもドクターRだ。とはいっても、日本人からも移民希望者が出ており予断は許さない。

 これは政府が隠しても執拗にネットで情報を相手が拡散させてくるためで、戒厳令も何も通じない。人海戦術で削除したりもしているが、焼け石に水だ。

 政府はこの一連の行動をドクターRとは違う意味で危険だと判断しており、注意喚起に余念がない。

「諸君、今度の任務は毛並みが違うぞ」

 軍帽をかぶりなおした将校は、ざわめく下士官たちを前に照明の光度を落とし、スクリーンに映像を用意させる。そこには、何故か黒猫の愛くるしいスナッフ写真が映し出されていた。

「……猫?」

 下士官たちは真面目腐った顔の上官に、小動物を愛好するような趣味があったとは露知らず、スクロールされていく猫のデジタル映像に何かの間違いかと上官の顔色を伺った。

「大佐殿、その映像は合っているのですか?」

 勇気ある兵士が問うと男はやはり、真面目な顔で頷く。

「諸君、これは間違いではない。今度の任務の最優先捕獲目標だ」

 ほとんどの下士官が訳が分からないという顔をした。

 が、立花姉妹だけは事情を察した。

「あいつを捕獲しろ、ということか」

 麗華の呟きに、姉である凛華が頷く。

「当然だ。奴がディスペアを手に入れるための鍵だ」

 松田 剣少佐――二階級特進した――と縁があり、知っていた二人は当然のように理解して視線を合わせる。

「既に保健所にも手配書が回っているが、軍の重要機密に属する存在だ。例の機体、ディスペアの墜落箇所を中心に捜索しろとの命令である。なお、この情報は秘匿事項だ。当然、民間人にもバレないよう、諸君らには私服で行動してもらうこととなる」

 補佐官によってプリントアウトした写真が配られる中、当然のような質問が上がる。

「見極めるにはどうすれば?」

「触って確かめればいい。この猫は心臓の鼓動が無いらしい」

「それ、なんで生きてるんです?」

「それは君たちが知るところではない」

 人工心臓のモルモットか何かか? などと彼らが疑問に思う間に補佐官が補足する。

「幸い、ここはK県。南国とも呼ばれサーファーもよく来る場所だ。下見に来たとでも言えば、海の好きな我が隊の連中なら容易に溶け込めるだろう。地元民も外からサーファーが集まってくるのはよく知ってるからな」

 補佐官は必要なら服も支給すると続け、立花姉妹以外の準備を先に進めさせる。

 元々自衛軍にも女性兵士はいた。

 近年では増えてきており、後方任務などだけではなく過酷な訓練を受け前線に立つ者も居る。人員の補充問題や男女の雇用均等化などの流れの中で、少子化社会に突入した日本としては兵数確保のために同盟国のような流れを回避することはできなかった。

 また、近年に生まれた新しい兵器『マルクト』もその流れを後押ししていた。

 軍縮、経費削減、無人化の流れで人員の削減はどこの国でも続いていたが、マルクトは無人化との相性が悪すぎた。そもそも運用ノウハウ事態が試行錯誤から始めなければならなかったのだ。結果、多くの人員が投入されたが、損耗率が彼らが当初考えていたものよりも高すぎた。

 経験豊富なパイロットから先に死に、優秀な者を集めていくとなると母数が大きい方が良いという結論から女性パイロットの枠も増え、採用数も増えてきている。

 その一環として広報用に女性パイロット特集を組み、小隊を作るなどという活動もあったが、それを抜きにしても自分たちだけが集められた意味がさすがに二人にも分からない。

「ここからは更に秘匿レベルが高い任務になる」

 大佐の言葉に並行して、スクリーンが猫からティーンの少女へと切り替わる。

 風邪でも引いている時に写したのか、やけに大きなマスクで口元を耳まですっぽりと覆っている。だが、彼女たちが目を引かれたのはその目だった。

 暗鬱たる瞳だった。

 快活な人間のそれとは違い、生きることを呪っているようなドス暗さがそこにはある。

 隠し撮りだったとしても、普段からここまでの表情をする理由などない。だが、今度は猫探しよりも二人にとっては理解できない案件だった。

 その、次の言葉を聞くまでは。

「この折原 美夏(おりはら みか)という少女を見張って欲しい。もしかしたら、件の猫が会いに来るかもしれないとのことだ」

「会いに……ですか?」

 麗華は驚いた。

 パンドラは結局、松田にも懐かなかった。上物のキャットフードなど見向きもせず、猫まんまさえスルーした。猫一匹に苦悩して飼い方についての本を通販していた彼のことを思えば、アレが会いに行くなどというのが信じられなかった。

「まさかアレの飼い主だとでもいうのですか?」

「さて、理由は私にも知らさていない。ただ、接触するかどうかは君たちに任せて欲しいと命令書には記載されている。ああ、君たちの上官も受領積みだ。これが終わるまでは戻ってくるなとのことだ」

 曖昧な命令に、二人そろって眉尻を吊り上げる。

 それに気づかない振りをしながら、大佐は注意事項を告げる。

「ただし男性兵士は絶対に近づけないように、とのことだ。最悪女性パイロットならだれでも良いとのことだったが、例の機体について知っている君たちが適任だと判断して残ってもらった。やってくれるかね?」

「是非やらせて下さい」

 即決だった。

 何も考えていないのではないかと思うほどの速度での返答に、隣の麗華は飽きれた表情をした。が、直ぐに自らも任務に志願した。

 宛もなくパンドラを探すよりは、まだ意味があるだろうと推察できたからである。

「よろしい。既に監視場所の確保に動いている。資料を受け取り、すぐに行動してくれ」

「「了解――」」

 敬礼し、二人もまた退室した。




「そういえば、お前昨日のロボット見たか?」

 昼休み。

 付近一帯に一校しかない県立高校の屋上で、幸人は友人からスマホを見せられていた。

 そこには、ボロボロのジャンクと化した漆黒の機動兵器が映っていた。

 ディスペアだ。

 たまたま通りがかって撮影したという隣のクラスの友人は、如何にすさまじい衝撃とともに機体が落ちてきたかを力説する。

「いやマジで死ぬかと思った。こうな、目の前がいきなり暗くなったかと思ったら川ん中にいきなり頭から突っ込んでさ!」

「へぇ、あの後どうなったんだ?」

「え、なに? 黒川も見てたのか」

「落ちてくるのだけな。その後はどうなったんだ?」

「しばらくしたら警察が来たって。で、遅れて自衛軍が出張ってた」

 購買のハムカツサンドを齧る幸人は、スマホを返却しつつ紙パックのカフェオレに手を付ける。

 そうこうしているうちに、友人は疑問を口にした。

「でも変なんだよな。WDFも自衛軍もさ、マルクト以外のSGってまだ持ってないはずだよな?」

 汎用人型兵器としてのマルクトは、最初から既に恐ろしいほどに完成されきっていた。

 開発に数年にかかったとはいえ、完成度と拡張性の高さからなかなか次の機体が出てこない。試作しているという話はよく聞くし、マイナーチェンジ版や改良型は各国の風土に合わせて存在するが新機種はまだない、というのが軍事情報誌の情報だ。

 ネットで噂の核融合炉搭載型も、核アレルギーの母国を持つ自衛軍では運用できない。アメリカなどでは現状のガスタービンエンジン以上の出力を求め、対消滅エンジンのもたらす莫大な出力差をなんとかするべく核動力機を検討しているというが、それが実際にモノにできたという話はネットにもない。

「もしかして、こいつが噂の秘匿機体って奴なんじゃないか?」

「それならもっと大々的に発表するだろ」

 すまし顔で否定すると、幸人はパックをビニールを丸めてツナサンドの攻略に取り掛かる。毎日のランニングのせいか、普通の帰宅部員よりも人一倍食べる幸人。それをみて、クラスメイトは言った。

「お前さ、適当に抜け出して弁当でも買い行けばよくね?」

「とっくに食い飽きてるっての。後はバランスメイトでも食ってりゃ栄養は十分だよ」

「お前は謝れ! 毎食のおかずに悩む主婦に謝れ!」

 と、益体の無い会話をしていると校内放送がなった。

『あー、二年四組の黒川 幸人君。至急話があるので校長室まで来なさい。繰り返す。至急――』

 担任の男性教師の声だった。

「誰だよ幸人って」

「阿呆。お前以外に誰が居るんだ」

 恍け調子の幸人に、友人はすかさずに突っ込みを入れる。

「呼び出される理由が思いつかないんだが」

 何か問題行動を起こしたわけでもなければ、成績が悪いわけでもない。

 むしろ雑事に時間を取られるのが嫌で、学校ではそれなりに普通で通っている。

 強いて言えば、少し孤立しているということぐらいだ。

 けれどこうして一緒に飯を食う間柄の友人は居るし、VRゲームや漫画の話に参入したりはできる。そもそも田舎であるが故に、小さい頃から小学校や中学校が同じで知っている連中が居た。それらが更に別の地方から集まるのが田舎の学校であるから、クラスには大抵数人は顔見知りが居る。だから人間関係での問題ではない。

 しかしそうなると、途端に呼び出しの理由が想像できない。

「まぁ、行ってみたら分かるか」

 すっぽかしてあとで何かあっても困る。

 幸人は立ち上がると、友人と別れて校長室へと向かった。




「失礼します」

 一階にある校長室は、教職員用の玄関に近い場所にある。

 入って早々、幸人は応接用に用意された豪華なソファーに二人の女性が座っているのに気が付いた。

 それが教職員ではないと判断できたのは、スーツ姿の見たこともない女性だったからである。

 二十代半ば程度の年齢か。二人とも糊の効いた黒のスーツ姿で、背筋を伸ばして座っている。凛としたその佇まいがズボン姿にとても似合っていて、クラスの女子生徒の中でも今時珍しくない強気を醸し出していた。

 二人の顔だちは似ていて、一人はポニーテール。もう一人はショートカットだった。初めは教員免許取得前の大学生ではないかと思った幸人だったが、すぐにそれも違うのだと察した。

 何故なら、その二人の顔にどことなく見覚えがあったからである。

(階段の踊り場のポスターの人たち……だよな?)

 求人の宣伝用にと張られている、自衛軍の広報ポスターの人によく似ていた。

 マルクトの美人パイロット姉妹という触れ込みだったが、それに写っている二人だと分かればどこの回し者かはすぐに察せられた。

 自衛軍。

 前世期において戦争を放棄し、陸海空の戦力を保持しないという日本国憲法に矛盾する条文を修正した際に、自衛隊から自衛軍へと名前を改められた日本の防衛組織だ。

 雇われモデルがパイロットという設定だったのではなく、ガチの軍人が起用されていたのかという驚きと同時に、内心でどうしてそんなのがここに居るのかという疑問が幸人の中で吹き荒れる。それが顔に出たのか、担任の教師が妙に上機嫌な顔で言った。

「その顔は気づいたな黒川。いやな、先生も本当に驚いたぞ」

「どうしてポスターの人が?」

「それがな、どうにも先生にもよく分からんのだ」

「ああ、就活してる三年生の講義のためとかっすかね」

 ようやく気付いた、という顔で尋ねてみるが、軽く笑う幸人に奥のソファーに居た校長が言った。

「二人は自衛軍から君に話をしに来たそうだ」

 スキンヘッドの校長先生は、重い顔で言うや否や渋る担任の先生の腕を掴んで退室した。

 残された幸人は、「何かあったら相談しなさい」という言葉だけを残して消えていく担任教師の、嫌に真面目な顔に苦笑いしか浮かばない。

(何かあったらも何も、この状況がすでに何かあったでしょ先生。ていうか普通、一緒に話を聞くのが担任の役目なんじゃないんですかねぇ)

 両親が近場にはおらず、半ば一人暮らしも同然な幸人を担任は気にかけてくれていた。

 その担任が一緒に居ないということは、それほどの要件であるということだろう。

 幸人の中で、昨日から浮ついていた心が一瞬で冷めていく。

 おかげで静寂の中、遠くから聞こえる生徒たちのざわめきの声がやけに鬱陶しく聞こえる。とりあえず対面のソファーに座った彼に、すぐに声がかけられる。

「要件は分かるか?」

「いえさっぱり。自衛軍への就職なんて考えてませんし」

 ポニーテールの女性が、苛立ちの顔のままで言うのでそのまま無表情に幸人は返す。

 その時、心の中で嫌な空気だな、と幸人は思った。

 空気の重さはもとより、その女性の一人が醸し出す雰囲気はただことではない。

「単刀直入に聞こう。パンドラは今どこに居る」

 何もかもをすっ飛ばして、ガツンと要件だけが飛んできた。

 そのことに隣に立っていたショートの女性が頭を抱えたが、それ以上に困らされたのは幸人だった。

(どうなってやがる。なんでこうも確信しているような口ぶりで話すんだ)

 パンドラと幸人の関係を目の前の二人が知っているはずはない。

 昨日の今日だ。確かに機体の落下場所から近かったこともあり、その時に幸人が猫を連れて歩いているのを見た住人から話がいったのかもしれない。けれど、それなら『猫を拾わなかったか?』とでも訪ねるはずだ。

 拾っただけなら名前など知らない。

 知るはずもない。

 なのに、パンドラという名で問いかけられている。

「姉さんちょっと待って。せめて自己紹介をしてからでも遅くは……」

「遅いさ。もうすでにネタは上がっているんだぞっ!」

 バンッとテーブルがやかましく鳴った。

 テーブルに両手を叩きつけながら自白を強要される。どこの刑事ドラマだ、という言葉を吐き出したい気持ちで幸人は一杯である。

 その間にも冷静に宥めるもう一人は、ゴホンと咳払いすると同時に恥ずかしそうに自己紹介から始めようと仕切りなおす。

「私は立花 麗華。こっちは姉の凛華。私たちは自衛軍の――」

「広報モデルさんですよね」

「――正規パイロットだ!」

 思わず誤魔化そうとしたモデル発言に、凛華が否定の言葉を口にする。

 本人は嫌々だったのだと察せられるほどには、パイロットという言葉に強い矜持が含まれている。

「あー、はいはい。その正規パイロットさんがどういう要件で?」

「だから、パンドラはどこだと聞いている」

「姉さんはもう黙っていてくれ。私が話す」

 割って入った麗華が話を進めようとしてくる間、幸人は思考を回転させる。

「その、パンドラとは誰ですかね?」

「君が川原で拾った黒猫のことだ」

 凛華が何か言う前に麗華が答える。

 こちらもやはり、確信――というよりは半信半疑のようなスタンスだった。少なくとも猫を拾ったことだけは知られているらしいのは間違いない。

 それだけなら聞き込みで判明する程度のことである。問題はそれ以上を知っているかどうか。しかしここで幸人は猫を拾ったことを恍ける選択肢を失ったことだけは理解した。

 否定して一時的に煙に巻けたとしても、後で余計な疑いをかけられる可能性が浮上する。

 いいや、もしかしたら今も疑われているのかもしれない。

 そう思えば、幸人にできることは恍け方を選ぶことだけだった。

「黒猫……ああ、どおりで日本人離れした名前だと思った。お宅ら二人が飼い主だったとかですかね」

「まぁ、そんなところだ」

「そうかぁ。でもあいつがまだ家に居るかはわかりませんよ」

「何だと?」

「犬じゃあるまいし首輪なんてつけてませんからね」

「それならそれで構わない。居たら連れ帰るだけなのだから」

 そうして、帰りにまた迎えに来ると言って麗華たちは部屋を出た。

 残された幸人は担任から軽く質問をされたが、迷子の猫探しだと告げて速足に近場のトイレに駆け込む。そうして手にしたのはスマホである。

『――やぁ幸人君。君からかけてくるとは珍しいね』

「自衛軍の軍人に目を付けられた。帰りに家についてくるから、あいつに行方を眩ませって伝言を頼みたい。できる……よな?」

『勿論だとも』

 返事を返した男は、快く幸人の頼みを聞いてくれた。

「ああ、それと例の代物はどうなんだ。手に入ったのか?」

『勿論だよ。というか、条件さえ満たしてくれれば二通りの方法で手に入るようにしてあるんだ。アレについての心配はしなくていい』

「そうか。ありがとう。この件だけは感謝するよ」

『なに、彼の代理である君の頼みだ。便宜は図らせてもらうよ。他にも何か要望はないかね? できることはしてあげよう』

「……アンタに必要以上には甘えられないさ。それだけで十分だ」

 通話を切ると、幸人はすぐに教室へと戻る。

 放課後、億劫な時間を過ごす覚悟を決めて。

「ようっ、なんだったんだ結局」

 ちょうど戻ってきていた友人が廊下で尋ねるが、幸人はそれどころではない。

「強いて言えば、局所的な有名人(?)の猫探しだった」

「なんだそりゃ?」

 首をかしげる彼をおいて、自分の教室に戻ると急いで次の授業の準備に入る。が、途中でもう一人連絡しておかなければならない人物のことを思い出した。

 ギリギリな時間ながらも、急いで廊下に出て通話する。

「おい美夏、なんでか俺とあいつのことが自衛軍にバレてたぞ」

『そう』

 幼馴染の返答は淡泊だった。

 いつもならもう少し嬉しそうな声色が聞けるのだが、どうにも自衛軍と聞くと可愛げもなくなる。

「とりあえず放課後に家に猫探しに来るんだと。俺の所に来たってことはお前のところにもいくかもしれない。絶対に一人になるなよ。何かあったら、すぐに俺か警察を呼べよ」

『心配性ね』

「ああ。何せ、俺よりお前の方がヤバイからな」




「あの少年、怪しいぞ」

「それならそれで泳がせておけばいいだろう。何も不必要に警戒させる必要はないよ」

「だがあいつが焦ってパンドラと本契約とやらをしたら、それだけで終わりだ」

 二人は松田から聞いて知っていた。

 及第点。

 ディスペアという特異な機体を操縦する上で、契約者が示さなければならない一定以上の資質。それを超える者だけが、あの機体ディスペアを完全に所有する権利を得るという。

 状況は最悪だった。

 折原 美夏から渡された合鍵で、先んじて折原 卓也の家を探したがパンドラの姿はなかった。だが、パイロット候補であるという黒川 幸人の情報が凛華を必要以上に焦らせていた。

「にわかには信じがたいが、松田はアレで空自のエリートだった。なのにあいつがたどり着点けなかった及第点を、あの少年が既に突破しているというのが腑に落ちん」

 支給されていた国産の青い軽自動車に乗り込むと、凛華は急いでエンジンをかける。

「だいたい未成年の学生に機動兵器の所持など認められるものか。銃刀法違反とか、そんなの通り越してありえんだろう。国防は元より、彼の将来にも関わるぞ」

「それならそうと言えば良かったんだ。そうすればまだ話はできたろうに」

「だから、いちいち説得している時間なんてあるかっ! しらばっくれる気満々だったぞ。アレは松田に似ている。正義感で得体のしれない猫と契約したあいつになっ!」

 シートベルトを着けるのも惜しむ勢いで、凛華はアクセルを踏み込んだ。

 彼女自身でも、感情が暴走していることは分かっている。

 昨日の今日で、情緒不安定だったことも認める。だが、彼女の良識が幸人を機動兵器に乗せるというそれを許容することはできなかった。

 ただの学生が、戦場に出て良いわけがないのだ。

「……ディスペアは一機しかない。手に入れたら最後、それこそ死ぬまで後戻りなんかできないんだぞ。松田は最初は喜んで、だがその次は震えていた……」

 双肩にかかった責任の重さは、彼が想定していたそれを大幅に超えていた。

 結果、昨日最後まで踏みとどまりワンオフ機と戦って落ちた。撤退は許されず、その責務に押し潰された。

 訓練されたパイロットであってもそうなのだ。

 それが、あの少年の未来の姿になりかねないのだとしたら、国民を守る軍人として許せるはずもない。

 沸騰した頭は、しかしそこまで考えてようやく冷めた。

 立花 凛華はスピード違反をしそうになったアクセルを緩め、大きく息を吸い込み妹に詫びた。

「すまん。松田のことで思っていた以上に気が立っていたな」

「ええ」

「すまんな」

 折原 卓也の自宅へと車を回しながら、凛華は少し考えて提案する。

「麗華、二手に分かれよう」

「姉さん?」

「美夏の監視は私がやる。だから、お前があの少年を見張ってくれ」

「それは構わないが」

「幸い美夏は性格はアレだが協力的だ。それに私だと少年が頑なになるだろう。あの年ごろの少年は自分が何でもできると意味もなく信じている。私ではそれが鼻について相性が悪い」

「なら、先に美夏の家に寄って話を通そう。いい考えがある」

「ふむ?」




「悪くない手ね」

 通信教育の教材から視線を反らし、美夏は言った。

 向けられる彼女の目は、写真通りに暗鬱なる輝きに染まっている。

 けれど彼女は、頬まで完全に隠れるやけに大きな白いマスク越しにクスクスと笑う。少女は立花姉妹にとっては大事な情報源である。だが、とかくこの少女の精神性は不可解だった。

 この少女は病んでいる。

 そうと言われなくても分かる異常さ。その中に姉妹は暗い愉悦のようなものを感じ取る。

 昔、行方不明になってからこうなったのだと、彼女の母親は二人に話した。

 だが、その間のことを母親は何も知らなかった。

 両親にさえ打ち明けず、少女はただふさぎ込み部屋に閉じこもった。

 そうして、異様に男を怖がるようになったことで事情を察するしかなかったという。

 今ではもう、ただただ時間が解決するのを待つしかない無力感に両親は苛まれているという。二人を娘に合わせたのもきっと、何かが変わることを願ってのことだったのは想像に難くない。

 自分たちのことを、事件を再捜査している私服警官だと勘違いしていた母親を騙すのは気が引けたが、他に手もなかった二人はその通りにふるまい、美夏と接触。

 彼女が呆気なく喋った通りに幸人を追った。

 何故素直に話してくれたのかだけは、二人にも未だに分からない。

 彼女は嫌に協力的で、そして何よりも彼女たちが自衛軍の人間だと分かって喜んでいた。

「嬉しそうだな」

「嬉しそう?」

「ああ、嬉しそうに言ったじゃないか」

 理解できないと言いたげな麗華の問いを反芻する美夏は、合点が行ったとばかりに目じりを緩めた。

「そう。やっぱりそうだったのね。私は嬉しかったのね。貴方達に会えたこの偶然に」

 うふふ、うふふとマスクでくぐもった声が弾む。

 不吉なるソプラノの調べは、可愛さよりも不気味さをより深く強調させる。分かっていて演じているのか、それともそれが素なのか。

 付き合いなど皆無な二人には分からない。

 そして二人の困惑などに、それこそ彼女は眼中になかった。

「そして嗚呼、幸人が頑張っている。それがきっと嬉しくて、嬉し過ぎて辛いのね」 ギロリと、瞳に明らかな敵意が乗った。

 姉妹を睨むその双眸は、それまでとは明確な温度差がある。身に覚えのないそれに居心地の悪さだけが室内に充満しようかというとき、弁明するように麗華が言った。

「心配せずとも、君の彼氏にちょっかいを出すような真似はしないぞ」

「おばさんに幸人が靡くわけないじゃない」

「おばっ!?」

「くくっ。大した自信だな美夏。これで以外と麗華はファンが多いんだぞ」

 ポスター効果は伊達ではなく、士気高揚にも意外と好評だった。

 だがそんな事実など知らないとばかりに美夏は言う。

「ええ。だって二人とも論外だもの」

「だ、そうだぞ姉さん」

 まだ三十までそれなりに余裕が、などと呟いていた麗華は、巻き込まれた凛華が頬をひくつかせているのを見て溜飲を下げる。

「しょ、所詮は子どもの言うことだ」

「分かっていても腹立たしいことはある」

「ま、事実はさておきましょう。リミットが差し迫っているわ」

「リミット?」

「後四日もすれば幸人の誕生日が来るわ。幸人が十七才になったらパンドラは本契約をすると言っていた。それはこれまでの仮契約とは違う、本気の契約よ。それでディスペアの枷がようやく一つ外されるんだって」

「馬鹿な!」

「あれ以上にスペックが上がるとでもいうのか!」

 現状、マルクトでは勝ち目がない。

 そもそもドクターRの機体を破壊し、その爆発に巻き込まれて無事な時点でマルクトを完成させた研究者たちが錯乱して机をひっくり返したという。

 それをリスペクトしたのか、松田が持ち込んだディスペアを解析しようとした自衛官は机を蹴り飛ばしたい気分だとコメントを残している。

「そう聞いているわ。ディスペアは孤独な男が作り出した、孤独故に最強に至る機体なんだって。でも、うふふ。おかしいわねぇ」

 美夏には滑稽だった。

 目の前の二人が。

 その後ろに隠れ潜んでいるだろうあの男が。

「蜘蛛の糸に手を伸ばしても意味はないのにね。ディスペアに乗る者は孤独になる。意味があっての孤独なのに、孤独から最も縁遠い貴方たち軍人がどうしてあんな物を欲しがるのか不思議だわ。頭が足りないから? それとも想像力が欠けているのかしら? 無意味な努力なのに、それが分からないだなんておかしいわ」

「……無意味かどうか決めるのは私たちだ」

 凛華が付き合いきれないという顔で言うが、しかし少女は聞く耳を持たない。

「貴方たちは重いのよ。だから希望の糸はその荷重には耐えられない。だから、ほら。その盲目さに、仏様だってきっと匙を投げるの。そして誰も彼もがその安易な欲望で墜落する。うふ、うふふ――」




 先に部屋を出た二人は、なんとも言えない顔で視線を交わした。

「最近の子供はなんというか、妙だな」

「姉さん、きっとアレが厨二病とかいう奴なんだろう」

 何時の時代にも少年少女を蝕む一過性の病だった。

「感受性が豊かな年頃だからな。そういえば私にもあったかもしれない。何でも大袈裟に受け取ったり、真に受けたりしたことが」

「学生時代にも一人は居たな。あいつはいきなり自分はクレオパトラの生まれ変わりだとか叫んで、絨毯に包まる練習をし始めたが……」

「ああ、カーペットに身を包んで自分をプレゼントしたとかいう逸話の再現か。いや、アレは単に映画の影響だろう。確か実際にやってあいつは男に振られていたぞ」

 と、そこにやや遅れて美夏がやってくる。

 そうして一階に降りると母親に言った。

「二人とも、まだホテルが決まってないんだって。幸人のところの空き部屋でも貸してあげたらどうかしら」

「あら、そうなんですか」

 母親も、娘の変化を感じ取ったのだろう。

 娘の珍しい提案を承諾した。

 それが良いか悪いかは分からずとも、やはり何かを期待している風だったのが、姉妹にとっては少しだけ心苦しい。しかしそれも任務だと割り切って、せめてパンドラが確保されるまでの間はと美夏の話し相手もすることにした。




『――ということになったから』

「あのな美夏、訳が分からないぞ」

『怪しまれているのだから、潔白を証明する良い機会じゃない。まぁ、あの二人は何も知らないみたいだから大丈夫でしょ。それとも、一つ屋根の下で暮らして何か問題でもあるのかしら?』

 試すような美夏の言い様に、幸人はただただ抗議する。

「そういう冗談は嫌いだぞ」

『でもこの前のバレンタインデー。クラスメイトからチョコをもらったのよね?』

「義理だ義理。だいたい、お前の以外に価値なんてあるか」

『まぁ、催促されてもあげないんだけどね』

「……お前、一応は俺の彼女だよな?」

『だって私は引きこもりだもの。渡しに行けないなら意味がないじゃない。それとも、チョコが欲しいと強請りに来るのかしら?』

「そんなみっともない真似するか。ただ、俺は世界で一番不幸な男だということが判明しただけだ」

 嘆くように言ってわざとらしくスマホ切る。

 そうして、幸人は帰路につく。

 立花姉妹は放課後に迎えに来るという話だったが、今の電話で先に家にいることも伝えられた。

 幸いなことに、先手を打ったおかげでパンドラは行方を眩ませただろう。御久崎なら上手いことやってくれる。けれどこの後のことを考えると正直、幸人は億劫だった。

 ふと、ペダルを漕ぎながらディスペアが墜落した現場へと視線を移す。

 もうそこに、あの機体は存在しない。

 それでもやはり、実際に見たあの漆黒の機体が脳裏に焼きついて離れない。

 VRの中のそれと変わらないその姿。

 人を意識して作られただろうマルクトとは違い、ディスペアには鋭角な印象がある。

 ピンと突き出た特徴的な可変式V字型スラスター。

 手首の付け根に固定されている肘下へと延びる折り込み式のブレード。

 空気を引き裂くような鋭利な形のショルダーアーマーに、鷲の足首から下を逆にして接続したような両足。切れ長なセンサーアイに、そしてなんといっても空を切り裂くようなボディの黒。

 獰猛な猛禽、あるいは凶悪な悪魔の化身のようにも見えるあの機体が、あんなにも無残な状態だったことだけが残念でならない。 

(やり残しは俺が全部片づけるさ)

 及第点の壁を超えたと言われたあの日、自分が乗ると約束した。

 及第点を超えてなお確実ではないと言われたとしても、それは関係などなかった。

 初めの約束。

 今はもう、それさえもついでになってしまったけれど。

 幸人はまだ、チャンスのために走り続けている。

 故にパンドラは、彼にとっての蜘蛛の糸だった。





 美夏の母親に言われて紹介された立花姉妹は、何故か警官ということになっていた。

 幸人は暴露してやろうかと思ったが、何も知らない人を巻き込むことはできないと思いとどまる。内心では腹が立っていても、今はどうしようもない。

「じゃ、しばらくは立花さんたちをお願いするわね」

「はい」

 少しだけ機嫌が良さそうな彼女は、そのまま徒歩で帰っていった。

 その後ろ姿を見送った幸人は、胡乱気な調子で姉妹に尋ねる。

「自衛軍のパイロットじゃなかったんですかね?」

「女には色々な顔があるのさ」

「詐欺師なら本物の警察を呼ぼうか」

 軍務だとして、警察がどう対応するかが見ものである。

「何、それならそれで上が手を回すだけだ」 

「防衛任務はこちらの管轄だからな」

「ちっ。これだからアンタらは信用できないんだ。どこの世界に猫探しで人ん家に住む軍人が居るんだよ」

 どうとでも対応できると言いたげな二人に舌打ちし、適当に空き部屋を案内する。

「ああ、それとそこの奥の部屋は仏壇があるからあんまり近づくなよ」

「見せてもらっても?」

「良いけど、見ても面白いものじゃないぜ」

 仏壇には初老の男の写真が飾られ、遺影には折原 卓也と書かれている。

「美夏の爺さんのだよ。ああ、あんたらは祈るなよ。きっと呪われるぜ」

 冗談のように言うと、幸人はさっさと部屋を出て他の部屋も適当に案内しておく。

「じゃ、俺は軽く走ってくるから適当にどうぞ。猫を探すなりなんなりしてくれ」

「私も付き合おう」

「ご自由に」

 麗華は立ち上がると、着替えてくるといってあてがわれた部屋へと消えた。

 できるだけ幸人から目を離さないようにとの処置なのは明白である。

(監視のつもりか)

 自室で制服のブレザーを脱ぎ捨てた幸人は、ジャージに着替えて外に出る。

 少し遅れて麗華がシャツと迷彩ズボン姿でやってくる。

 警官ならせめてジャージにしろと言いたい言葉を飲み込んで、幸人は玄関を出た。

「で、どこに行くんだ」

「近くをぐるっと適当に」

 それだけ言うと、いつものように少年はランニングにでかけた。




「さすがに、仏壇に隠れるような罰当たりなことはしないか」

 パンドラの姿はない。

 凛華は隠れられそうな場所を探すも、特に見つかりもしない。

 幸人の部屋にも入ったがそれも変わらず、一旦外に出て車庫へと向かう。

 車は無く、半ば物置と化しているようで少し埃っぽい。

 手前には幸人が使っていたトレーニング機材がある。そのバリエーションは豊富で、とにかくいろいろと通販番組で出たものを揃えてみたような体がある。個人のそれとしては異常なほどにトレーニング機材は揃っているが、この程度なら軍でも見慣れていた彼女にとっては別段珍しくもないと思いスルーする。

「……まぁ、あいつがこんなところに隠れるわけもないか。……む?」

 そんな中、ブルーシートが被せられたものがある。

 それは一台のバイクだった。

 十六歳を超えていれば中型二輪の免許はとれるが、実際に免許を持っているのは珍しい。

「いや、そういえばここは田舎だからな」

 田舎は移動手段に乏しい。

 学生なら移動手段は徒歩か自転車しかないが、当然のようにここには電車などは通っていない。

 バスは一時間に一本ある程度の交通事情。十八まで車の免許が取れないのだから、早くとれるバイクという選択肢を選んでも不思議はない。

「後は……粗大ごみか」 

 ビニール紐で止められた雑誌の山。その中には少年誌などがあり、凛華は普通の高校生らしい一面を垣間見る。だが、その中に軍事雑誌が混ざっているのを見つけた。

「これはSGの特集本か。こっちは素人でもわかる銃の知識、各国の軍の特徴……」

 コンビニで売っているような、素人向けの簡単なものから図鑑のようなものまである。

 奥に行けば、数年は放置したような色あせ具合のものまである。

 と、その中に麗華は見覚えのあるものを見つけた。

「自衛軍の広報誌じゃないか」

 その雑誌『GUARD』は、防衛省と自衛軍が編集・発行する月間誌である。

 自衛軍の活動内容や展開されている部隊、装備などを分かりやすく写真付きで紹介されているもので、軍事情報や自衛軍に興味の無い人間は普通は手にしないものだった。

 だが、前世期から婚活ブームのあおりを受けて生まれた婚活コーナーのせいで、意外と女性の購買数や認知度も高い。

「WDFの物もある……」

 だが、それも過去の物ばかり。

 ある時期を境にぷっつりと購読はされなくなっている。

 その変わり、広く浅くの本だけが思い出したかのように買われている様子だ。

(何だ。何かが引っかかるのだが……)

 言葉にできないモヤモヤに思考が取られかけたその時、ふと携帯の音が成った。

「大佐殿? 何かありましたか」

『事情が少し変わった』

 パンドラが見つかったのかと一瞬期待するも、その次の言葉に凛華は一瞬驚いて眉根を寄せた。

「それは、一体どういうことですか」

『政府の決定だ。本日二○○○時を持って、我々はWDFと合同で事に当たる事になった。ついては、空からWDFのパイロットが合流するべく降りてくるとのことだ。我々の船は一度沖合に出て回収任務に就く』

「まさかマルクトでの直接降下……ですか?」

 確かに、パンドラとディスペアはWDFも喉から手が出るほどに欲しいだろう。

 日本単独での回収には、松田の件でも難癖をつけられた記憶がある。

 だが、よりにもよって直接パイロットと機体をこの短時間で軌道降下させて来る作戦をとるなどとは信じ難かった。

『名目では新型マルクトの大気圏突破テストとなっている』

「新型……で、ありますか」

 これまでにもなかったわけではない。

 だが、そのほとんどがコストでマルクトに及ばないために試作機で終わっていると聞いている。

『まぁ、新型というよりは改良型と言った方が正しいようだ。詳しい話は資料と一緒に使いを送る。だが君は折原 美夏君の監視の方に注力して欲しい。こちらは今、彼女の家の隣にある空き家を確保したところだ』

「すいません大佐、その件で少し報告が」

 幸人の家のことを話すと、大佐も少し黙考した。

『なるほど状況は理解した。ではこちらで女性隊員を空き家に送ろう。美夏君の監視は彼女たちに任せる』

「はい。それですが、引き続きの接触は私にやらせてください。母親を騙しているのは少し心苦しいのです。それに複雑な家庭環境のようですから刺激しない方がいいかと」

『……そうか。ならば了承しよう。こちらとしてはパンドラを確保できればそれでいい。ただ、WDFがどう動くつもりなのかがまだ分からない。それ次第で変わるということは認識してほしい。猫の捜索は続けるが、少年の監視をメインに切り替えよう』

「はっ。了解しました」

『では任務に戻ってくれ』

 通話を切り、車庫を出た凛華は思わず夕暮れの空を見た。

 その向こうの宇宙に、良い思い出はない。

 仲間が死んでいくばかりの空は、後悔と悲しみの記憶を想起させて来る。それもこれもすべてドクターRのせいだった。

 未だ人類が到達していない場所に居る彼に、銃弾を叩きこむ術はない。

 だがそれを変えるために、凛華たちはここに居た。

 それは本来、ありえないことである。

 世界の命運を握るかもしれない機体を、普通の高校生が手にする可能性を持っているなど馬鹿げている。

 ありえないと、ナンセンスだときっと誰もが口にする。

 二足歩行の戦闘ロボットなどありえない。

 あんなオーバーテクノロジーをたった一人で開発できるわけがない。

 存在そのものがありえない。

 未成年の学生が世界の命運を担うなど現実にはありえない。

 ありえないずくしの今世紀は、人々が否定するそれらをあざ笑い続けてきた。

 凛華もそう思っているし、軍人である彼女の父もそうだった。

『――あんなもの、ありえるはずがないのだ』

 だが現実にそれはそこにあって、それだけが唯一の希望として君臨している。

 ディスペア。

 パンドラと名乗る、猫の姿をした正体不明生物<アンノウン>が契約者に与える力。

 正気で理解しようとすれば、自分の頭を疑いかねないこの事実はまるで現実感がない。

 けれど、現実感はなくても現実にそれは存在していた。

 だからこそ凛華は手に入れなければならないのだ。

「嫌な予感がする。このきな臭さはなんだ」

 WDFの対応の速さ、どういう訳か自衛軍が掴んだ折原 美夏の情報。

 そして極めつけはパンドラが認めたという黒川 幸人。

「美夏の言っていたのはこういうことか?」

 ディスペアという蜘蛛の糸に群がるように、全てが動いている。

 芥川の作品では、たった一人のために地獄に下ろされた蜘蛛の糸は、群がる罪人の重量に耐えかねて切れる。救われるべき一人を再び地獄へと再び落とす形で。

 特に興味がなかった凛華にとっては、学生時代に教科書で勉強の題材に使われた程度のことしか知らない。だが、今の状況を比喩して美夏が言ったことぐらいは分かる。

 ただ、それならそれで分からないこともあった。

 あの作品で救われるべきは仏が情けをかけた一人だ。

 けれど黒川 幸人は違う。

 幸人はディスペアで救われることはない。

 むしろ乗れば不幸になる筆頭だ。

 だが、それなら他に候補者が見当たらない。

 自衛軍、及びWDFの関係者はある種の組織、群体であるので個人ではない。

 孤独という言葉には確かに縁遠い。

 なら、アレに乗ることで一体誰が救われるというのだろうか。

「……はぁ。美夏の厨二病気がうつったか」

 バカバカしい推察だと切り捨て、凛華は家の中に戻った。





(余裕綽綽か本職軍人)

 結局、麗華はランニングから筋トレまで付き合った。それでもケロリとしている彼女の涼しい顔が幸人には妙に悔しい。

 年季の違いはあるだろう。

 しかし、それをカバーするはずの若さが通じない。

 これが軍で正規の訓練を受けた者との差かと思えば、苛立ちはただただ加速する。

 だが、それを表に出すことはせずに宿題に取り組む。

 夕飯はカレーで、ランニング中に買い出しに出ていた凛華が勝手に調理していた。それが普通に美味かったのも気に入らない。

「おい、ここの計算が間違っているぞ」

「くそっ! なんでポッとでの軍人に家庭教師されないといけないんだよ!」

 ただのケアレスミスだが、指摘されると腹が立つ。

 集中力を欠かせる原因に注意されるとそうだった。

 特に麗華は、幸人を監視するためか気が付けば傍にいる。

 自室に籠ることも考えたが、それはそれで負けたような気がして悔しいのでやらない。

 結局、監視の中で宿題を済ませることになる。

「やっと終わった……」

 いつもよりどっと疲れたのは幸人の気のせいではない。

 風呂に入って張り詰めたものをほぐすと、いつものようにとっとと寝る。

「なんだ、もう寝るのか」

「俺は早寝早起き派なんで」

「そうか。今時珍しいな」

 そうして、監視一日目は終わった。

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