霧と闇と混沌と 肆

「あらあら、久しぶりね。イホウンデー神殿の依頼はまだ生きているのかしら?」


 牢の中の女は俺の姿を目にしても、慌てる様子を見せなかった。紅い唇にうっすら笑みを浮かべ、碧の瞳で俺を値踏みするように見つめている。長かった金の髪は肩の辺りで切り揃えられ、黒く染められているが、間違いない。イホウンデーからイゴーロナクに転向した巫女・メルイだ。


 俺は首を横に振り否やを返した。この女の罪状は暴行傷害。イホウンデー神殿の追跡から逃れるため、監獄を避難場所として利用しているのだろう。だが、偽名でもアティを名乗っているのはどういうつもりか。


「名前? ああ。頭に残っていたから、とっさに出ただけのことよ。そういえば、あののけものの子は生き延びたかしら?」


 本物のアティなら結晶庭園で巫女として修業を積んでいる。母親を失いはしたが、名前を始め得たものも多い。長じればキーザの巫女として、立派に務めを果たすだろう。


「そう……」


 俺の言葉に、メルイはわずかに遠い目をして呟いた。安心したのか、自ら染めたイゴーロナクの信徒でないのが不満なのか。メルイの心情は、その表情から伺い知ることはできなかった。


「外が騒がしいわ。何か面白いことになってるみたいね?」


 面白いことにしているのはお前かと問うと、メルイは肩をすくめ苦笑して見せた。


「殺されかけて監獄に逃げ込んだのに、わざわざ面倒ごとを起こすと思って?」


 追い詰められての自暴自棄ならあり得ない話ではない。だが逃げ切るつもりなら、もうひと騒動必要だろう。


「まあ、信徒の候補には事欠かないのは確かね。まるでそそられない者ばかりだけど」


 メルイは聞こえよがしに溜息を吐いて見せた。この女が血判状の持ち主であるなら、あの程度の小者、すぐにでも始末できたはずだ。ローグを逃がしたのはメルイではないのか? あるいは、俺や炎を使う魔術師にぶつけ、場を掻き乱すのが狙いか? メルイは獲物をなぶる猫の様な表情を浮かべ、俺を眺めている。


「逃げ回るのも疲れたし、もう潮時かしらね」


 通路の奥から、金属の軋む音が鳴り響いた。

 メルイの牢を出た俺が見たのは、檻を開け牢を出る囚人の姿。突き出したその両掌には、牙の生え揃えた口が開いている。骨剣を振るい首を半ばまで斬り落とすも、囚人は歩みを止めない。心臓を狙ったナイフは、右手に開く顎に食い止められる。


「ずいぶん顕現しやすい条件が揃っているわね。でも、残念ながら整えたのはわたしじゃないわ。檻を開けたのもね」


 イゴーロナクの従者と化した囚人と揉み合う俺を後目に、メルイは牢を抜け出し、霧の漂う通路の奥に姿を消した。蹴り飛ばし従者に止めを刺す俺の目の前で、軋みを上げ幾つもの檻が開き始めた。



 イゴーロナクに帰依していたのは、自ら望んで収監された者を除く全ての囚人達。およそ三十人強か。武器は持たないが、イゴーロナクは容易く信徒の身を異形の従者に変え、やがて我が物とする。幸い従者を経て完全に顕現する前に仕留め続けているものの、終わりが見えない。まさか、霧が過去の収監者まで再現しているのか。


 メルイの言葉を信じるなら、彼女以外のイゴーロナクの司祭なり巫女――恐らく、血判状の持ち主――を見つけ出す必要がある。見当は付いている。俺は追いすがる信徒を切り伏せながら執務室に向かう。


 通路の先に、霧に霞んだローブ姿の人影が見えた。揺らめく炎が霧を払い、同時に強力な神気が湧き上がる。俺が慌てて手近の扉を破り身をかわすと、通路を吹き抜けた炎の柱は信徒と従者の区別なく、イゴーロナクに帰依した囚人の群れを焼き尽くした。


「黒い男は! 魔女の釜を司るものはどこだ!」


 嗄れた男の叫び声が響く。濃赤色のローブを身に纏った壮年の男は、焼け落ちた執務室の扉の前で声を張り上げていた。

 痩せこけ、刃物で削ぎ落したような厳しい顔つきの中、黒い瞳が異様なまでの強い憎悪の光を放っている。松明を手にしているように見えたが、燃えているのは男の右腕そのものだった。


 男の肩越しに、鞭を手にしたノーマがウィルクルを庇っているのが見える。ウィルクルの悲鳴に駆け付けた看守達は、ローブの男の腕の一振りで炎に包まれ、絶叫を上げのたうち回っていたが、すぐに動かなくなった。


「そ……そんなの知らないわよ!」

「まあいい。皆焼けば終わりだ」


 ローブの男は、ノーマの後で声を上げるウィルクルと、背後で骨剣を構える俺に視線を配る。

 この男がジゼルの言っていたクトゥグァの灯芯か。自らの身体を依り代に、魔力を燃料にしてクトゥグァを常時顕現させる外法。発動すれば、儀式はおろか星辰を待つことさえ必要とせずクトゥグァが顕現し続けるが、一度始めればその身が燃え尽きるまで終わらず、術者は完全に無となり二度と混沌へ還ることはないと聞く。こんなものに手を出すのは、本物の狂人以外ありえない。


「狂っている? 俺がか。混沌の玩具であり続けるよりはましだ!」


 放たれた炎を鞭で撃ち落とすノーマ。だが炎は消えることなく燃え移り、慌てて投げ出された鞭はわずかな時間で焼き尽くされた。


 厄介な相手だ。一度燃え移れば死ぬまで消えることのない炎。

 触れられる前に灯芯となった腕を斬り飛ばせるか。

 それとも、ツァトゥグァの神気を帯びる骨剣でも焼き尽くされるか。


 得物を失い蒼褪めたノーマの後ろで、ウィルクルはへたり込み失禁している。

 意を決し踏み込む寸前、俺は背後に殺気を感じ身をかわした。

 俺を掠めた矢はローブの男に向かうも、その身に届く前に焼け落ちた。


「こういう展開なら面白いじゃない。ねえ、聞いてる? その子はとっくに折れて使い物にならないでしょ。同じ神に仕える者同士、後はわたしが肩代わりしてあげるわ」


 メルイは誰かに呼び掛けながら、短弓に新たな矢を番え戸口ににじり寄る。ローブの男も射線を外すように室内で動いた。


「んんんーッ、それで良いから! せっかくの遊戯が台無しだよ! 特例で認めるから、そいつだけは何とかして欲しいかなって!!」


 窓の外から聞こえる声はジゼルか。隠れて覗いていたつもりだろうが、ひょこひょこ動く帽子が窓外に見える。


「見つけたぞ! そこか!!」

「わきゃあ?」


 ローブの男が右腕を振るうと、窓は石造りの壁ごと溶け落ちた。珍妙な悲鳴が聞えたということは、狙いを外したということだろう。ローブの男はもはや俺達に構うことなく、悲鳴の主を追って外へと走り出た。


「うん? ああ、あなたね獄長。なんだかおかしな見た目だと思ったら」


 メルイは訝し気な顔でウィルクルのほうを見ていたが、眉根を開き艶然として歩み寄った。大きな書き物机の影にはノーマに庇われるウィルクルの姿があるはずだったが、そこにいるのは震えている一人の少女だった。ウィルクルより年嵩だが、ノーマと比べればずいぶんと幼い。


「そうそう。わたしが会ったのはこの姿のあなただったわね。霧のせいで、かくあるべしと望まれる成熟した姿と、責務から解放された幼い姿、両方の理想が見えていたってところかしら?」


 獄長とその副官、どちらかが血判状の持ち主だと辺りを付けていたが、もう迷う必要は無くなった。メルイの言うもう一人のイゴーロナクの巫女は、目の前の少女だ。


「可哀そうに、こんなに震えて。わたしが罪に塗れる人の性に魅かれたように、あなたは人が罰を受ける姿に欲情していたのね」

「ちが――!!」


 メルイが書き物机の引き出しを開けると、中には本と数枚の書類が収められていた。下世話な庶民向けの公開処刑の読みもの。拷問を受ける女の絵姿。慌てて隠そうとするウィルクルの手を掻いくぐり、メルイは一枚の書状――魔女の釜の血判状を取り上げた。


「進行役のお墨付きは貰ったけど、念のため、ね」


 メルイはナイフで血判の捺されている部分を切り取ると、代わりに自ら血判を捺し懐に仕舞い込んだ。


「あなたは、怖い目にあったら座り込んでお漏らししちゃう、ただのお子様だってことよ。多少性癖が歪んだ程度では、巫女にも決闘者にも役者が足りないわ。分かったら、今のうちに引き返すことね」


 図版を隠し泣きじゃくるウィルクルの頭に手を置き、メルイは諭すように言った。その言葉に嘲りは含まれていない。


 アティを気に掛けていたことといい、お前もまだ引き返せるのではないか。

 俺は口にしかけた言葉を飲み込むと、メルイと共に壁に開けられた穴からローブの男を追った。

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