霧と闇と混沌と 参
どれだけ歩いただろう。目印になる物もなく、時間と距離の感覚が曖昧だが、そろそろ獄舎が見えなければおかしい。霧の中、知らず円を描き歩いてしまっているのか。さほど広くもない中庭を歩いているだけなのに、いつまで経っても獄舎に辿り着けない。
俺の肩の上でさきほどまで呻き声を上げていた看守は静かになった。意識を失ったようだ。これ以上時間を無駄にするわけにはいかないが、他にも逃げ出した囚人がいないとも限らない。焦燥感に焼かれ、精神をすり減らしながらも霧の中を慎重に歩く。案の定というべきか、俺の目は霧の中に微かに浮かぶ人影を捕らえた。
つば広帽に黒いマント。市松模様のスカートの丈は短く、脚を露出している。右手を帽子のつばに、左手でスカートを摘み礼をして見せるこの少女は、魔女の釜の進行役・ジゼルだ。
「お久しぶり! 順調に生き残ってるみたいだね! さっきのおじいちゃんも参加者だったけど、やっぱりアインは格が違う! みたいな」
この厄介な舞台はこいつの仕組んだ物か。歩みを止めぬまま終わったのなら早く解放しろと要求する俺に、ジゼルは照れたような困ったような表情を浮かべた。
「いやあ、お話を面白くするのに因果律をいじってたらね、興味を引かれたのか、お呼びでない方たちも来ちゃいました! みたいな」
ジゼルは舌を出し自分の頭を小突いて見せる。俺が思わず立ち止まりあきれ顔を向けると、ジゼルは慌てたように手を振って弁明を始めた。
「いや、いや、だいじょうぶ! 大丈夫だって!! 『無名の霧』は可能性の提示をしただけでしょ? あなたが乗らなきゃそれ以上のことはしてこないって!!」
知ったようなジゼルの口ぶりは気になるが、灰色のドレスの女のことか。「それ以上のことはしてこない」というが、霧に囚われたこの状況は充分以上に厄介だ。
「いや、しないっていうより、できないってのが正確なのかな? 観測者の意志が不可欠だから。あいまいなまま、なあなあなで済ますのが霧の領分だけど、やっぱりそれはそれだけの物なのよねー。おじいちゃんの神様、張りぼてもいいとこだったでしょ?」
漠然とだが理解した。あれはそういう物だったのか。
小神にすら足りぬまがい物の神気。
ローグが望んだ神の顕現を模したもの。
「『無名の霧』はしょせん、『混沌』が意思を切り離したあと、『道』を作るための緩衝材として残した物だから。何にでもなりうるけど、なり切ることはできない、みたいな? 搾りかすでは、あったかもしれない可能性の世界を見せるので精いっぱい! ってとこでしょ!」
指を立て、ジゼルは得意顔で決めつけた。
あったかも知れない結末。
霧の中から懐かしい声が聞こえる。
『でもまあ、それも悪くないんじゃねぇか、兄貴』
日焼けした肌。白い歯を見せこぼす笑み。
失ったはずの託宣も、伝わってくる気がする。
『あんたが選ぶのなら、それでも良いんじゃない?』
己と混じり合う曖昧な意思。苦痛と癒しを与える矛盾した存在。
俺は脳裏に浮かびかけた淡い慰めを頑なに拒絶する。
これでは。こんな紛い物の結末では。俺と雛神様の旅路が、全ての意味を失ってしまう。
「そうだねー! それでこそ人間!」
俺の思考を読んだかのように、ジゼルは腕を組みしたり顔で頷いてみせる。
「混沌からものを新しく作るのは簡単だけど、元に戻すのがいちばん苦手でね! 生き返らせてあげようって、それっぽいもの仕上げてみても、死んでたあいだの経験は埋められないし、一度は死んだって記憶が干渉したりで。時間をさかのぼってつじつま合わせするうちに、あちらを立てればこちらが立たず。結局ぐだぐだになっちゃう!」
何を思い出したのか、ジゼルは頬を膨らませた。
「霧は『結局上手く出来ないなら、わたしがするのと何が違うの?』って笑うけど、ぜんぜん違うよね? なあなあで良いなら望んでる本人の記憶を弄って、全部なかったことにしちゃうっていうの!」
俺はジゼルの物言いに不穏な物を感じ足を止めた。
立ち込める灰色の霧に巻かれ、すっかり現実感を喪失している。
この少女はいったい何者だ?
ただの悪趣味な儀式の進行役ではないのか?
「なあなあじゃ満足できないんでしょ、あなたの意志は?」
俺の警戒を悟ったのか、ジゼルは悪戯っぽい微笑みを浮かべ、さりげなく距離を取った。
「たまに意志が強すぎて、物語を進めるんじゃなくぶち壊そうとする、クトゥグァの灯芯みたいなのも出てくるワケだけど。全てを焼き尽くした後の闇ほどむなしい物はないしね!」
そのまま霧と踊るように、ステップを踏みながら遠ざかってゆく。
「わたしだって鬼じゃない。嘘はつかないし、勝利者への景品ちゃんと用意してますんで! ここにいる残りの参加者と決着を付けたら、無名の霧も満足すると思うので! がんばってー!!」
つまりは俺が血判状の持ち主を見つけ出し倒すまで、霧は晴れないということか。
無責任なエールを送るジゼルが霧の中に消えてほどなく、俺は獄舎に辿り着くことができた。
出迎えに看守の手当てを託し、ウィルクルには門に辿り着けなかったことと、脱走したローグの件を伝えた。魔女の釜とジゼル、無名の霧については話さずに伏せておくことにした。精神的に追い込まれた看守達が、俺を殺せば解放されると判断しないとも限らない。この監獄の中に俺の味方はいないと考えておくべきだ。
「ご苦労様、と言いたいところだけど、結局出れないことを確認してきただけじゃないの! 何やってるのよ!」
『しかし、囚人の脱走の件は気掛かりです。食事の配給も兼ねて、一度収監者の確認は必須でしょう』
脱走した本物の収監者と、霧が生み出す紛い物の収監者のせいで、数が合わないのだろう。確認しようとすることで、さらなる犠牲と混乱を呼ぶことになるやも知れない。そうなる前に片を付けるべきだ。
俺は、ここからは一人で行動すると宣言した。ウィルクルは渋い顔を見せたが、ノーマが何か耳打ちすると、不承不承許可を出した。ウィルクルにしても、俺をどう扱えば効果的か考えあぐねている様子だ。
「ひとりで逃げようったってムダよ! 問題を解決しないと、誰もここから出られやしないんだから!」
『逃げるつもりなら負傷者を連れ帰らないかと』
ウィルクルを窘めたようでいて、俺を見る副官の目は笑っていない。ちゃんと役に立てば、切り捨てられることもないだろう。
単独行動をするに当たり、監獄の資料に目を通す許可を求めた。霧のせいで距離や構造が曖昧になるとはいえ、基本となる見取り図を頭に入れておかなければ始まらない。
ジゼルの言葉を信じるなら、灰色のドレスの女がこの状況を作り出しているのではなく、他の人間の望みに形を与えているということだ。獄舎が本来と違う形を取るのなら、それを望む者がいるということ。
手早く資料を繰るうち、俺は現在の収監者の中に気になる人物を見付けた。
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