霧と闇と混沌と 弐
この牢獄は元来王都の北の護りとして建てられた城砦だが、続く平安でその役割は失われ、罪人の収容施設として転用されたものだ。今では刑に服する罪人だけではなく、お家騒動から逃れるため自ら望んで収容される貴族までいる。現在の収容者数は四十二人。
「数が合わないそうなの。霧でぼやけてはっきりしないけど、空のはずの牢に囚人が座っていてね。どれだけ呼んでも返事もしない。よく見ると、ずっと昔に処刑されたはずの殺人鬼だったとか!」
俺を怖がらせようとでもしているのか。怪談話でも聞かせるように、大げさに抑揚を付けて話すウィルクル。確認しなかったのかと俺が問うと、
「本当に殺人鬼だったら危ないじゃない! ただでさえ霧で困ったことになってるのに。檻の中に入ったままでいてくれるなら、わざわざ開けて逃げられる危険をおかすこともないわ!」
看守がそのまま逃げかえったのは、霧の中にいるはずのない者が現れるなら、それは牢の中のみに限らないと気付いたからだ。砦として造られたこの監獄は周囲を高い壁で囲われ、出入りできるのは南側の正門のみ。だが今はあるべき場所に門がない。霧で方向感覚が狂っただけだと、壁伝いに探索に向かった看守はついに戻ってこなかった。
以降看守達はなるべく出歩かず、必要な際は複数で行動しているという。灰色のドレスの女は、俺の囚われていた牢の中に現れ消えた。この状況での警戒にどれだけ意味があるかは分からないが、何もしない訳にもいかないだろう。
俺は返却された剣を佩き正門に向かった。鎧は母神様との戦いで破損したが、俺の身体を抱く雛神様の脚によって既に身体の一部になっている。
若い看守が一人同行しているが、俺の監視の為ではなく、現時点での行動規則によるものだ。危険があったとしても、どちらかが無事なら報告が叶う。本来なら監獄内の配置に詳しい彼もすでに距離感が怪しいのか、不安げな表情を浮かべている。霧自体が脅威だった場合、このまま飲み込まれ、二人揃って帰れないということもありそうだ。俺は剣の柄に手を掛け周囲の気配を探りながら、濃い霧の中を慎重に進む。
辿り着いたのはレンガ造りの壁だった。収監されて以来ずっと外を見ることができなかった俺には定かではないが、狼狽える看守の表情から推すと、ここに門があるはずだということらしい。塀の高さは人の三倍ほど。首を巡らせるも、左右どちらも霧に沈んでいる。歩いた距離はそれほど長くはない。霧のせいで方向感覚が狂い、ほんのすぐそこに門があるのに気付けない――俺にはそんな風にも思える。
「どうする? ここで間違いないはずだが……?」
看守は手にした仗で確かめるように塀を叩いている。例え壊すか越えるかできたとしても、正門の跳ね橋からでなければ堀を渡れない。このまま戻っても意味がない。壁に沿って左右どちらに進んでも獄舎に帰ることができる。そう判断し戻らない看守がいるそうだが、何者かが行く手を阻むなら、それを排除することによってこの霧を払うことができるかもしれない。そう告げると看守はぞっとしない表情を浮かべたが、やがて諦めたように首を振り、壁沿い右手へ向かい歩き始めた。
本来なら獄舎が見えるはずの方向を見ても、のっぺりとした濃い灰色の霧が漂っている。俺達は左手側に続くレンガ造りの壁だけを道標に歩を進めた。
どれだけ歩いただろう。刺激の少なさに集中が途切れかけたその時、行く手に何者かが倒れているのが見えた。
「やっぱり何かがいるんだ。……いったい、誰がこんなことを」
連れと同じ看守の制服を着ているが、その中身は黒く干乾びた木乃伊と化している。
「霧か? 霧のせいでこうなったのか?」
看守は振り向き、怯えた様子で俺に問い掛ける。
そうではないだろう。霧が原因だとしたら、俺達もとうに同じ姿になっているはずだ。獄舎の中にいても同じことだ。屍体の周囲には重い物を引き摺ったような跡が残されている。霧の中、ごく近くに何かいる気配がする。俺は骨剣を抜き油断なく辺りを伺った。
「大いなる吾が主よ。血をすするものよ。愚かな供物が、また自ずからその身を捧げに参りましたぞ」
「ローグ、お前の仕業か?」
呟きと共に霧の中から姿を現したのは、浅黒い老人だった。薄汚れた囚人服を身に纏い、血走った目を俺達に向ける。一人ではない。老人の後に、もう一人分歪んだ影が潜んでいる。わずかに神気めいた気配を感じるが、霧のように曖昧で強い脅威は感じない。
「東方から運ばれた石像に、血を捧げると言っては殺しを続けていた狂人だ。だが、いったいどうやって牢を抜けやがった?」
「石像ではない、チャウグナー・フォーンだ。吾が主に祈りが通じ、儂の元に足を運ばれたのだ」
老人と変わらぬ小柄な影の正体は、人ではなかった。何とも知れぬ暗緑色の石でできた像。それは大きな耳と管状の鼻、水晶でできた二本の牙を備えていた。
「押収した石像まで見付けて、また儀式の真似ごとか! 看守に手を掛けて無事で済むと思うな!」
若い看守は俺の制止を振り払い、老人を叩き伏せようと仗を振り上げる。振り下ろすより早く、石像は鼻を伸ばし、看守の手から仗を絡め取った。
「馬鹿な! なんで動いて――」
管状の鼻の先端が円く開き、看守の顔に吸い付く。引き剥がそうともがく看守の動きが、見る見る力ない物になってゆく。血を吸われているのか!?
振り下ろした骨剣は、固い手応えに阻まれ管を斬り落とすことはできない。だが、傷も付けられないほどの固さでもなかったようだ。石像は傷口から黒い粘液を滲ませると、看守を取り落とした。
「貴様! 不敬であるぞ!! 全能にして過去、現在、未来全てを識る吾が主に対し! 喜んでその身を捧げよ!!」
そんなご大層な物ではあるまい。神気も纏わぬ紛い物だ。
おそらく正体は石像ではなく、岩にしみ込んだ黒い粘性の魔物。この固さも神威故ではなく、単純に岩の塊だからだ。
石像の赤い目が俺を睨み付ける。怒りを抱いたのか、狙いを看守から俺へと変えたようだ。老人はご大層な長広舌に恐れ入らぬ俺に、困惑の表情を浮かべている。
本体と違い管の動きだけは素早いが、見切ってしまえばそれまでだ。思った通り、動かすため岩に節目がある。手間は掛かったが、俺は十数合の打ち合いの後、石像の管を斬り飛ばした。
「こ……この、罰当たり者が! 神を傷つけた報い、必ずその身に下るぞ!!」
飛び散る黒い粘液を浴び、ローグは喚き散らす。俺が受けるとするなら、お前の神を傷付けた罰より先に、俺の神を護れなかった報いだろう。
背を向け、のたのたと逃げ出す石像の関節を狙い、俺は淡々と剣を振るい続けた。脚を腕を、頭を斬り落とした時点で、狂人は主と呼んだ石像を見捨て、悲鳴を上げ走り去った。撒き散らされた黒い粘液は、力なく地面に染み込んでゆく。念のため頭部は礫になるまで砕いておいた。
不意に、ローグが逃げた方向から絶叫が響いた。無心に砕いていた石から顔を上げると、俺の目に燃え盛る炎が飛び込んできた。ローグを生きながらにして焼く炎が霧を払い、その傍らに立つローブ姿の人影が露わになる。
魔女の釜で見た覚えがある――炎の魔術を使うものか。
もがくローグが倒れると霧は再びその領土を取り戻し、人影は灰に塗り込められ姿を消した。
倒れている看守にはまだ息がある。この場は探索より人命が優先だろう。
俺は看守を担ぐと、獄舎のあるであろう方向に向け歩を進めた。
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