監獄

霧と闇と混沌と 壱

「混沌に還るのってそんなにイヤなものなの? そこの所がわたしにはよく分からないのだけれど」


 目の前の女は首を傾げて呟く。不思議そうな声音だが、ヴェール越しで表情は伺えない。身にまとうドレスは喪服というには色が薄く、花嫁衣装というにはくすんで見えた。その曖昧な色味に、あえて名前を付けるなら無明の灰色だろう。屋内なのに立ち込める霧のせいで、その輪郭さえもぼやけている。


「人間は混沌より秩序を好むようだけど、混沌の中で秩序を求めるのも滑稽よね。対立する二項じゃなく、混沌が見せるつかの間の形でしかないのに。もっとも、あの子は人間のそういう所が愛おしくてたまらない様だけど」


 女は右手を挙げ、中空で羽虫でも掴み取るような仕草をする。手袋をした掌に載せられたのは二つの賽。象牙に似た滑らかな素材で、刻んだ線が一から六の数字を表している。


「何が出ると思う?」


 賭けごとはクラムに手ほどきを受けたことがある。何も仕掛けがないなら、七に賭けるのが無難だろう。この女と何を賭けたわけでもない。俺は枷の嵌められた手指で七を示す。


 女は無造作に賽を振る。

 卓の上で二つの賽が示すのは一と一。合わせて二だ。


「次は?」


 続けて七を示す俺に対し、賽の目は再び二を示す。三度目も同じ結果だった。

 如何様か?

 俺の表情を読んだ女が、ヴェール越しに薄く笑みを浮かべる。


「あの子は良かれと思ってこういうことをするのだろうけど。ねえ。思うようにならないなら、いっそ遊戯自体をやめたいとは思わない?」

 女は手の中で賽を弄んでいる。俺が望まないのなら、この茶番はここまでということらしい。俺は枷の嵌められた手指で、四度七を示した。


「まあ、わたしはどちらでも構わないのだけれど」


 霧が深くなる。女の姿がぼやけ、最初からそこにいなかったように消え失せる。

 卓に残された二つの賽の目は一と六。

 合わせて七を示していた。



 石壁に背を預け目を閉じる。何日も同じ姿勢でただ時間を過ごす。俺は今、王都の牢獄の中に囚われている。

 全ての力を使い果たし、雛神様をも失った俺には、残った神聖騎士の囲みを破ることは不可能だった。

 新しい迷宮の主が誰になったのかは知らない。影で小細工を弄していた姉神様なのかもしれないが、そうだとしたら神壊学府は荷が勝ち過ぎている。雛神様も騎士団も良いように解体され使われて、迷宮の本来の役割も失われるだろう。


 討ち死にせずに残った鋼殻の騎士は両の指に足りないほどだったらしい。ベルカとの交渉に応じ、王宮の傭兵団に組み込まれるを良しとした者は、既に解放されているようだ。ヘッケンのように迷宮を去り落ち延び、身を隠した者もいるだろう。どちらにせよ、彼等の信仰の対象は己の中の雛神様なのだから、雇い主が国に変わろうと、雛神様が羽化するその時まで鋼殻の騎士であり続けることができるだろう。


 だが雛神様を失った俺はもはや鋼殻の騎士ではない。迷宮も還る場所ではなくなった。交渉に応じる素振りも見せない俺は、武装を解かれ鎖で繋がれた。王命に逆らった俺が処刑を免れたのは、ベルカの口添えあってのことだ。俺は義兄の恩情に従うことも抗することもなく、死に損なった無様な敗残者としてただ獄に繋がれている。


 俺の身体を抱くような形で固まった雛神様は、声どころか何の意志も示さない。右腕だけは変わらず俺の意志で自由に動かすことができる。もうせっかちな雛神様に振り回されることもないが、脳内麻薬を制御して頂くことも、傷を癒して貰うことも適わない。



 眠るともなく目を閉じているうちに、どれだけ時間が経ったのか。なにやら辺りが騒がしい。

 まだ霧は漂っている。夢とも現ともつかぬ間に牢内で女と言葉を交わしたが、奴が何かしでかしたのか。何にせよ、俺の出る幕ではない。


「出ろ」


 傍観者に徹しようとしたが、檻を開けた看守に引き立てられ連れ出された。俺が枷を付けたまま連れられた先は、監獄の主の執務室のようだった。


「来たわね鋼殻の騎士。ベルカ殿の義弟の、えーっと、アイン?」


 大きな書き物机の向こうから声を掛けるのは、年端も行かない少女だった。何の冗談かと思ったが、身にまとう制服は王国正規の代物で、略式の鎧である銀の喉当ては恐らく獄長にのみ許された物。


「あれ、違う?」


 ゆるゆると首を振る俺に、少女は何を間違えたかと書類を見返していたが、傍らに立つ副官らしき長身の女が頷くのを見ると、机を叩いて立ち上がり俺に抗議の意を示した。


「何よ、あってるじゃない! ちゃんと返事しなさいよ!!」

『恐らくもう鋼殻の騎士ではないという意味かと――』


 少女は副官のとりなしで気を静め椅子に収まった。俺が首を振った意味の半分はそれで合っているが、もう半分はこんな子供が獄長とは何の冗談だという意味だ。実務は副官がこなす、貴族の娘のお飾りの役職なのだろうが、それが似つかわしい場所だとは思えない。


「あたしは獄長のウィルクル。こっちは副長のノーマね。あんたに頼みたいことがあるんだけど! 聞かないと牢屋に戻しちゃうんだけど!!」


 ウィルクルの話では、ベルカの口添えで既に俺の解放は決まっているのだという。そのベルカが神聖騎士団団長として迷宮討伐の残務処理に追われ、王都への帰還が遅れているのが収監が続く理由らしい。出奔に留まらず、王命に逆らった逆賊の身で、屋敷に帰り父と顔を合わせるわけにもいかない。ベルカは俺がこのまま行方をくらますことを懸念したのだろう。


「霧が出てるのには気付いてるわよね? なんだかおかしなことになってるの」


 牢の中ゆえ知りようもなかったが、この季節にはありえない強い凍えるような風が吹き抜けたあと、この屋内にも入り込むほど濃く深い霧が監獄を覆い始めたのだという。


『「監獄を」と言いましたが、正確には霧がどこまで広がっているのかは分かりません。現時点では監獄の外に出ることが叶わないので』


 表情を変えずに副長が補足する。訝しむ俺に、ウィルクルは身を乗り出して続けた。


「獄舎の大きさが変わってるみたいなの! 塀も長くなってるし、牢の数も増えてるみたいで。調べさせても、霧のせいでなんかあいまいになるって、いつまでたっても正確なことわかんないし!」

『人の数も合わないようです。調査に出たまま戻らない者がいるだけでなく、とうの昔に処刑された囚人まで目にしたという者が現れる始末で』


 曖昧な話だ。俺の脳裏に、灰色のドレスの女が浮かんだ。

 あの女自身、俺に用があったのかさえ曖昧な、思わせ振りな態度を示すだけだったが。


「ベルカ殿がまだ戻らないとはいえ、あんたたち鋼殻騎士の身分は国に雇われた傭兵なの! 霧を何とかしないと外に出られないのは同じなんだから、ちゃんということ聞きなさいよね!」


 どうしようもなく曖昧な話だ。

 頷くでもなく、俺はただ窓の外に広がる灰色の霧に目を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る