アイホートの迷宮 参

 さらに下層へと先を急ぐ。途中、俺は幾度か迷宮をさ迷う神聖騎士と鉢合わせし、ある時は切り結び、ある時は身を潜めやり過ごした。迷宮は本来、迷い込んだ人間を母神様の下へと向かわせる造りになっているが、母神様へ害意を持つ者だけは例外的に、延々と迷い続けることになる。迷宮の造り自体にその効果があるのか、それとも母神様の神威の顕れか。


 ここまで潜ると双方余裕が無いらしく、騎士達の亡骸は放置されている。その中に、俺はまだ育ち切っていない姉神様の屍体があるのを目にした。


 鋼殻の騎士の強さは、雛神様が羽化する直前にその頂点を迎える。それに反し羽化したばかりの雛神様は、人の手で容易く滅ぼせるほどに脆い。羽化の後に急速にその身を大きくされるが、馬ほどの大きさに育っていた姉神様でも、複数の神聖騎士を相手取るのは難しかったようだ。


 闇の中に、まだ何柱かの姉神様が潜む気配も感じたが、俺に声を掛けることも、仕掛けてくることもなかった。恐らくヘッケンの雛神様のように、事の推移を見守るつもりなのだろう。


『どうもおかしな魔術が掛かってるようだけど……』


 雛神様は、迷宮本来の惑わしの効果以外の物を感じ取っているようだ。神聖騎士に魔術の心得のある者がいて、人払いを強いているのか。あるいは姉神様が身を隠すのに使っている魔術が干渉しているのか。どちらにせよ、今の俺の状況は、攻め手である神聖騎士達とそう違いはない。


『アイン、あんたは眼を閉じてなさい。あたしが道を選ぶ』


 ここまで来れば俺のうろ覚えの順路より、雛神様に母神様のいる方向を感じ取って頂くほうが、よほど確かだろう。俺は言われた通り目を閉じ、雛神様の導きのまま歩を進めた。何度か行き止まりに阻まれたが、ふと空気が変わるのを感じた。


 血の匂い。剣戟の響き。

 広い空間――玉座の間だ。


 母神様は明かりを必要としない。わずかな発光苔しかないここでは、来訪者自らが灯りを持つしかないが、それに頼らざるをえないような者が母神様に挑むのは、自ら死を選ぶに等しい。


『覚悟は良い? アイン』


 無論だ。

 玉座の間では、蒼白い一柱の神と、白銀の鎧をまとう一人の人間が戦っていた。

 ここに辿り着いてから、どれだけの時間戦い続けているのか。辺りには双方の騎士達の屍と、姉神様の躯も二つ転がっている。だが動いているのは母神様と、神聖騎士団団長・ベルカのみ。


『母様!!』


 俺の駆け寄りざまの一閃を、ベルカは苦も無く受け止めた。

 かすかに響く鈴の音。ヴォルヴァドスの託宣なしでは、いかなベルカでもとっくに骸の群れに加わっていただろう。

 汗と泥にまみれ、濃い疲労の浮かぶ顔に、微かに喜びめいた表情が浮かんだように見えた。


『玉座を貰い受けに来ました!!』


 せめてこちらのケリが付いてからではないのか?

 だが、俺がベルカだけを見据えているのと同様、雛神様は母神様だけに意識を向けている。

 ここまで来た以上、順序など今更だ。

 母神様は刹那ベルカへの攻撃の手をゆるめ、無数の赤い目で俺を――俺の中の雛神様を見詰めていたが、


『んんんラブリィィ! 愛い奴! いいわマイドーター! わらわがまとめて面倒見てあげる!!』


 幾本もの蹄持つ脚を振り上げ、俺とベルカを区別することなく振り下ろした。辛くもかわしたが、母神様の脚は岩を踏み砕いている。馬三頭分ほどもある巨体だが、迷宮を駆け決して獲物を逃さないだけの強さと俊敏さを備えている。

 視覚に頼らずとも、ヴォルヴァドスの託宣で攻撃を読めることに加え、母神様と真正面から戦わずに済む玉座の間であることも、ベルカが今まで生きていられた理由の一つだ。


『薬を使いなさい、緑のほう!』


 砕けた岩の破片と掠った衝撃だけで吹き飛ばされながらも、俺は懐から薬瓶を掴み出した。栓を抜く間ももどかしい。噛み砕き中身を流し込む。雛神様に活力が戻り、俺の体内に覚醒と興奮をもたらす物質が流された。雛神様の視力をお借りすることで、俺は追い打ちで振り下ろされる幾本もの脚に反応し、転がり体勢を立て直すことができた。


 俺に気を取られていた母神様へ、ベルカが剣を振るう。

 母神様は脚の一本を犠牲に受け止め、壁へと飛んだ。重さを無くしたような動きでそのまま壁面を走り、ベルカを跳ね飛ばす。


「お前が来て楽になるどころか、逆に母神を元気づけてしまったようだな」


 母神様は壁を天井を走り抜け、思いもよらぬ方向から蹴りを放ってくる。暗がりから不意に現れる脚の一撃は、十全に見えていたとしても容易に受け止められる威力ではない。特に頭上からの一撃が厄介だ。俺とベルカは翻弄され続け、互いに剣を向ける余裕はない。図らず連携を取る形になる。


 微かな鈴音が鳴り続けている。ヴォルヴァドスが発する警告は、常に母神様の攻撃を先読みで伝え続けるも、それに反応するベルカの集中力は限界に近付いているようだ。母神様の蹴りの連打で体勢を崩し、ベルカは床に倒れ込んだ。


『とどめ!』


 覆いかぶさるような母神様の追い打ちを、ベルカにかわす術はない。

 助け起こす俺の手も間に合わない――そう思われた瞬間、俺の背中越しに不可視の一撃が放たれ、母神様の身体を抉った。


『ファック!?』


 この場にまだ息のある、魔術の心得のある者がいたのか?

 母神様にとっても予想外の攻撃だったらしい。

 一瞬の隙を見逃さず放たれたベルカの剣が、母神様の目の一つを貫いた。


『お、おのれえええええぇ!! ヒューマンッ!!?』


 母神様は飛び退きながら無数の雛をばら撒いた。産まれたばかりの幼い雛神様達はベルカに纏わり齧り付く。我が仔を溺愛する母神様が、人間に潰されるだけの幼い雛神様を退避手段として使うとは。だがそれは、母神様がそこまで追い込まれたという証でもある。


『アイン、畳み込むわよ!』


 俺は一息で距離を詰め、母神様が剣の届かぬ天井に飛ぶ前に、骨剣を目に突き込む。そのまま身体をぶつけ、全身の力で壁際へと押し込んでゆく。


『わらわの、わらわの目がッ! 退けい不埒ものッ!!』


 母神様は俺を打ち据えようと無数の脚を振るうが、一撃ごとの威力が弱く狙いも甘い。傷付けられた痛みと逃走を阻まれた焦りのせいだ。

 倒れれば俺に次はない。力の限り岩壁に押し付けるも、母神様の肉は厚く急速に回復し続ける。急所に届く手応えを得られぬまま、無防備な背に頭部に猛打を浴び続け、俺は意識を失わないよう歯を食いしばる。


『まだまだァッ!!』


 俺の背を破り突き出された雛神様の脚が、打ち下ろされる母神様の脚を止めた。

 痛みはない。あるのは熱と、勝利への渇望のみ。

 俺の胸を突き破る雛神様の脚。母神様の身体に突き込まれたそれは、力任せに傷口を抉じ開ける。


『があああああぁッッっ!??』

『行けええええぇぇぇッ!!!』


 己の血と母神様の血に塗れながら、俺と雛神様は最後の力を振り絞る。

 肩口まで骨剣を突き込んでやっと、母神様は大きく身を振るわせ動きを止めた。



 母神様が脚を折り倒れるのと同時に、幼い雛神様達は蜘蛛の子を散らすように姿を隠した。ベルカは難を逃れたようだが、今の俺には相手をする余力は残されていない。指を動かすのさえ億劫だ。


『……強く……なったわね、愛しい仔……』


 震える母神様の脚が伸ばされる。それは雛神様に届く前に痙攣し床に落ちた。


『母様……』


 迷宮の玉座は空になった。

 いや、俺の仕える雛神様が新しい迷宮の主だ。


 此界ではどれだけ大きく育とうとも、仔を増やせるアイホートは迷宮の主ただ一柱。本来不死不滅に近い母神様が、ただ殖えるを良しとせず、頑なに代替わりを続けるのは、神としての強さを維持するためだという。


 順序が逆になったが、あとは羽化を残すのみ。お借りしていた右腕分に加え、すでに俺の背から二本、胸からも二本、育った脚が露出している。雛神様がこのまま俺の身体を引き裂けば、望み続けた玉座に収まることが叶う。戦いの余熱と勝利の歓喜の中、死の痛みを法悦として味わいつつその光景を見ることができるのは、鋼殻の騎士として至上の喜びとしか言いようがない。


『これを飲みなさい。痛みが消えるわ』


 雛神様の脚が紫の小瓶を俺の口元へ運ぶ。

 ありがたい。痛み止めの効果が強ければ、羽化した雛神様へ祝福と別離の言葉を残すことすら叶うかもしれない。

 痛みが引いて行く。だが、雛神様の脚は俺の身体を引き裂くことなく、抱き締めるように畳まれてゆく。


『あたしは充分強くなれた。母様を弑するほどにね――』


 ――雛神……様?


『――だけどアイン、あんたはまだまだ強くなれるんじゃない?』


 雛神様の声が遠くなる。


『あたしには、それを見るほうが、楽しみかもって……』


 俺の身体から雛神様の神気が消え、完全に気配が感じられなくなった。


「……雛神様……」



「危ない!」


 鈴の音と共に走り寄ったベルカが、俺を狙って放たれた不可視の一撃を剣で受け止めた。


『あれ、どうして助けるの? 人間のやることはよく分からないわねぇ』


 闇の奥から姉神様の声が響く。


『いいカンジに玉座に辿り着く人数を調整したり、バレないようにあんたらの手助けしたりで大変だったけど。まあ、ともかく。これで私が新たな迷宮の主ってワケ! 人間、交渉するなら私相手にして貰いたいワケよ』


 隠形の結界から這い出してきた姉神様は、俺を見下ろし少し考え込む素振りを見せた。


『この仔がなんで羽化を拒んだのかは知んないけど、念には念をってワケで――』


 振り下ろされる脚は俺に届かない。

 姉神様は不思議そうに短くなった脚を眺めていたが、俺に斬り飛ばされたと気付くと、激昂し無数の脚を振り上げた。


『このッ! 主を失くした騎士崩れのクセにナマイキにッッ!!』


 俺は振り下ろされる脚をかわし順に斬り飛ばす。今の俺の体力でもこの程度のことは反射でこなすことができる。

 多少の魔術の心得があるとはいえ、俺の太刀筋を見切れない程度の強さで、この迷宮の主を名乗るつもりなのか?


 まるで足りない。倒れた母神様にも、ましてや俺の雛神様にも遠く及ばない。


『わわわ、分かったワ! あんたの強さは分かった! 私の雛を授けてあげるから、新たに騎士として――』


 突き付けられた骨剣に、姉神様の戯言が止まった。

 もうここには何もない。

 玉座の間を去る俺を、ベルカは何も言わずただ見送った。

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