虹色ジュブナイル/D

藤村灯

第1話 汀の夢

 夢を見た。


 波の音が聞こえる。


 夜なのか昼なのかも定かではない。

 頭上には薄緑の月が輝いているが、世界はぼんやりと霞んでいる。

 空だと思っているのは実は水面で、本当は海の底から眺めている風景なのかもしれない。

 

 私は波打ち際に倒れている。

 正確には岸辺近く、浅瀬に浮かんでいる状態らしい。

 岸に打ち上げられるでも、沖に流されるでもなく、ただゆらゆらとたゆたう。

 波が身体を洗うのを、心地良く感じている。


 おなかから白い管のような物がのびている。

 十六歳の私が今生まれたんだなと、朧な意識で理解する。

 血に塗れた下半身を波が洗って行く。


 私を生んだのは私なのかもしれないと、ふと思う。

 お医者さんを捜して、へその緒をちゃんと取って貰わないと、でべそになっちゃうよね。


 浜辺からはユリカとみゅうみゅうの声が聞こえる。


 私はここにいるよ。


 存在を誇示する意志は声帯を震わす事はなく。


 楽しそうな笑い声はどんどん遠ざかり、再び穏やかな波音だけがあたりに満ちる。

 取り残されたようでなんだか寂しかったけれど、仕方ない。

 私は生まれたばかりで、無力に転がっているだけなんだから。


 気持ちを切り替えた私は夢の中で夢想する。

 岸辺にあがれないのなら、波がさらってくれればいいのに。

 どこまでもふわふわ波間を漂って行ければ、気持ちいいだろうな。

 そう思いながら沖を眺めていると、波間に一人の少女が立っているのに気がついた。


 透き通る白磁の肌。

 それに負けない新雪のような長い髪。

 背中を覆い、波に揺らいでいるそれは、腰を隠すほどの長さか。

 そこだけ色付く事を許されたような紅い瞳に、不思議そうな色を浮かべ私を見ている。


 初めてだけれど、どこか懐かしい顔。

 何故だか、大好きだったおばあちゃんに連れて行ってもらった縁日を思い出す。


 自分では掬えずに、夜店のおじさんにおまけで貰った小さな金魚。

 ぱさぱさとして粉っぽいカルメ焼き。

 食べる前に棒から落ちたリンゴ飴。 


 少女は波を分け少しづつ近付いてくる。

 歩き方が何処か妙だ。

 波に隠れている下半身は魚だったりするのかもしれない。

 幽かな不安と朧な期待が胸に揺らぐ。


 大きなオウム貝の殻を抱いた少女は、私の傍に立ち顔を覗き込む。

 まだ膨らみかけたばかりの白い胸。

 少年のような細い腰。

 その下に続くのは何処までも続く蛇身。

 くるりと首を巡らせてみると、果てしなく伸びて世界を抱くその蛇は、私のへその緒につながっていた。


 ああ、そういうことなの。


 理解はしたけれど、言葉に出来ないそれを確かめようと、物問い顔を少女に向けると――


 彼女は可愛いけれども、

 とても恐ろしい微笑みを浮かべた。




 夢を見た。


 楽しい夢だったのか怖い夢だったのかは良く覚えていない。でも、何かとても大切な事だったように思う。

 懐かしいような切ないような夢の情感は、障子越しの朝日の中に淡く解けて消えた。


 少しだけ残念な気分を引き摺ったまま、私は布団をたたみ身支度を整えた。


 今日は宵宮。水天宮の境内では屋台が開かれる。


 朝食を簡単に済ませ社務所に向かうと、親戚筋の美魚みおはもう境内の掃き掃除を済ませていた。

 艶やかな黒髪を二つに縛り、巫女装束の彼女は、二つ年下なのに私より余程しっかりしている。


「おはよう。ごめんね、手伝うよ」


「おはようございます。それじゃあ社務所の中をお願いします」


 美魚は薄く微笑むと、掃き清めた境内に水を撒き始めた。


「えらいなあ、みゅうみゅうは。もうすっかり巫女さんが板についてるね」


 襟元からのぞく白いうなじがうっすらと汗ばんでいる。

 目を奪われていた自分に気付き訳も無く狼狽え、私は慌てて目を逸らした。

 まだ中学生なのに、同性の私が見ても時折どきりとせられるほどの色気を感じさせる。日に焼けた己の腕を密かに確認し、思わずため息が漏れる。


「決められたことをこなしているだけですよ。一通り覚えれば、後はルーチンワークです」


 高校二年の夏休み。ふわふわと日々を過ごす私は、まだ進路を決められずにいる。


「朝も弱いし、やっぱり私には無理かなー」


 私は漠然と進学を考えてはいるが、保護者である拝島はいじまの伯父は神職に付くことを望んでいる。はっきりと聞かされた訳ではないが、いずれは美魚の兄であり再従兄弟の海斗かいとの嫁になり、拝島の家に入る事を望まれている様子。おばあちゃんがいた頃の神社は好きだったけれど、正直宮司が秘宮ひめみやから拝島に代わった今の雰囲気はあまり好きじゃない。


『いいかい郁海いくみ。おまえは将来絶対に――』


 皺だらけの顔にいつも微笑を浮かべていたおばあちゃん――本当は高祖母にあたるんだったか。汐入しおいりの古い家系は入り組んでいてややこしい――が、いなくなる前に珍しく真剣な顔で残した言葉は、巫女になれだったのかあるいはその逆だったか。凄く大事なことのはずなのに、私の記憶は茫洋としたままだ。


「……郁海さんは夜もダメ駄目じゃないですか」


 まったくだ。

 笑みを含んだ再従姉妹の言葉には、苦笑を返すしかない。


「海斗が何か用があるみたいでしたよ?」


「なんだろう? 電話すればいいのに」


 携帯の着信を確認してみる。伯父に持たされているのは子供用の携帯――防犯ブザーの付いたお子様用だ。養われてる身だからあれこれ注文を付けられる筋じゃないというのもあるが、ぼんやり屋のわたしにはこのくらいの機能でちょうど良い。海斗や美魚もガラケー派だ。拝島の伯父が使っているスマートフォンなど、たぶん私には一生縁が無いだろう。


「家族相手に、電話も無いんじゃないですか」


 ぶっきらぼうな海斗の語りを思い出す。学校では寡黙な硬派で通っているが、幼い頃から知っている私にすれば、あれは引っ込み思案で喋らないだけだ。私が表情を読んで水を向けてようやく会話が繋がるレベルだから、込み入った話なら確かに直接のほうが話が早い。


「家族……ね」


 強い日差しに朝の冷気は払われ、すでに気温は上がりつつある。

 気が付くと杜から聞こえる虫の声は、鈴虫から蝉に代わっていた。



「とりあえず、おこもりだっけ? 本宮に出ればいいんでしょ?」


 ユリカの助言はいつも端的で明瞭だ。


 明日の本宮に参加すること。伯父の言い付けは命令と同義で、今の私には背くという選択肢は考えられない。

 ユリカはその言い付けを守る事を含め、神職の修行をこなす事と引き換えに、考える時間が欲しいと言って進学すればいいと言う。


「学費はアルバイトで稼げばいいじゃん。何だったら、二人で部屋借りてさ。母さんのツテで安く借りられるアテあるし。きっと楽しいよ」


 ショートカットを揺らしながら隣を歩く友人は、とっくに自分の進むべき道を決めているらしい。隣県の大学一択で、あれだけ頑張っていた陸上部も夏に入る前に辞めてしまっている。


 小柄だが行動力に溢れた彼女とは高校に入ってからの付き合いだけど、出会ったときからずっと優柔不断な私の背中を押してくれる、頼もしい存在だ。微糖と無糖のコーヒーを決めかねる私の代わりに押してくれたボタンはコーンポタージュだったけれど、あれはあれで美味しかったし。


「その前に、入試通んないとだけどね」


 大きなあくびを慌ててかみ殺す私を、親友はやれやれといった目で見る。


 宵宮の今日、作法や祝詞の勉強からも開放され、私は自由な時間を謳歌している。

 子供の頃、本宮は夜に出歩いてはいけない日でしかなく、おばあちゃん達はお宮で何をしているのかいつも興味津々だった。こっそり覗こうとした事もあったけれど、実行するには私は寝付きが良すぎて眠りが深すぎた。


 巫女として習ったことは、夜が更けてから海から上がって来る神様をお迎えし、夜明け前にお送りする儀式。神様に行き逢ったり、姿を覗き見てはいけないから、夜出歩く事を禁忌としているのだという。


「コンビニも無いし、この町で出歩くも何もないでしょ?」


 勉強会を終えた昼下がり。ぼやくユリカと向かうのはショッピングモールではなくよろずや。

 鉄道の駅が無いため、まともな買い物は橋を越えた隣町へ行くか、通販で済ませるしかない。セミリタイアでわざわざ望んで僻地へ越した父親に対する愚痴は、彼女から飽きるほど聞かされた。


 金物から駄菓子まで必要なものはほとんど手に入るので、私には不満は無いのだけれど。下着もここで買えるシンプルなもので済ませていると伝えたところ、何故だか長々と説教され、以来身に付けるものはユリカの買い物に付き合う形になっている。


 いつも通りにひよこサイダーを買うはずの、いつも通りの鄙びた店先に、いつもと違う強烈な違和感が存在した。


 汐入では見たことの無い、大きくて平べったい車。

 よろずやの婆ちゃんの車ではなさそうだ。ユリカが言うにはアメリカ製の軍用車両の民生仕様だとか。


 この車幅じゃ入れない道も多いのに。どうするつもりなんだろう?

 行儀が悪いとは知りつつも、好奇心には勝てずに車内を覗き込んでしまう。リアシートに、タオルケットに包まって寝ている人影が見えた。


「ちょ、いくみんっ!」


 肩を叩かれ、友人の慌てた声に振り返ると、店から出てくるひょろ長い男性と目が合った。


 いまにも泣き出してしまいそうな。

 のっぺりとした薄い顔に突然浮かんだ表情に戸惑う私を尻目に、彼は笑顔で話しかけた。


「ごめんね。邪魔だったかな?」


「うぁ!? 覗いてません! いや、覗いてごめんなさい!!」


 目まぐるしく入れ替わる青年の形相の意味を掴みかね、混乱した私は不明瞭な弁解を繰り返す。


 おかしな間は、引きつった顔で私を眺めていたエリカの洩らす「ふひっ」という声を切欠に笑いで流された。


 ひとしきり笑った後手渡された名刺には、「汀宗也みぎわそうや 民俗学研究」とあった。「民俗学者」では無いのは、学位と関係の無い、素人民俗学者だからという事らしい。確かに和紙で作られた名刺は手作り感溢れるもので、青年の風貌とあいまって大学生の趣味に思われる。――実際の年齢は、とうに大学を卒業したものだったが。


「変わった祭りだからね。祭り見学がてら、話を聞ければと思って」


 そうなんだろうか? 地元の風習が他所から見て奇異なのかどうかはピンと来ないが、彼にとって気の毒な事に、祭りは変わっているのではなく、変えられたらしい。


「宮司の家系が入れ替わってから、祭祀の内容が変わったみたい。あんまり詳しくは無いんだけど」


 私たちが目にすることの出来る、浜辺の祭壇にお供え物をするところまでは、以前と何も変わりない。大人たちの会話から、本宮の祭祀が変えられたらしいと耳にしたが、おばあちゃんがいた頃の祭祀も教えられていない私には、何がどう変わったのかを説明することは出来ない。


「興味深いな。そこのところを詳しく知りたいね」


 この青年が調べたかったのは、以前の祭祀の事なのだろうか。


「何百年も変わらない祭りのほうが珍しいし、どんな儀式でも本来の意味は忘れられるものだけど。語り手がいるうちに、記録を残さないとね」


「いくみんは昨日習った祝詞ももう忘れそうだけどね」


「……君が祭祀に参加するのか? 詳しく話を聞きたいな」


 にやにや顔で混ぜっ返すユリカの言葉で、私が巫女だと知った素人学者の目の色が変わる。


 私は今年から初めておこもりに参加する身だし、ユリカの言うように祝詞の意味どころか文言すらうろ覚えだ。数年前から神社の手伝いをしている美魚のほうがずっと詳しいだろう。拝島の伯父や宮司に紹介しようにも、残念ながら余所者に快く話を聞かせるような人達ではない。


 青年の期待に狼狽え、あわあわと思考を廻らす私の耳に、不意に車内からの物音が飛び込んだ。


「agsjkieye?」


「??」


 私に、訊いたの?


 真っ白な肌に、真っ黒な髪の少女。

 窓越しに語りかけた彼女は、人形めいた顔に茫洋とした表情を浮かべている。

 寝ぼけているだけなんだろうが、質問に対する答えを待つような、妙な間が流れた。


「キィ、もう少し寝ていればいい。買い物は済ませたし、じきに目的地だよ」


 半眼に開かれた、真っ黒な瞳が僅かに動き、青年を捉える。

 不満も恭順も示さぬままゆっくりと瞼を閉じると、少女はねじでも切れたかのようにぱたりとシートに倒れこんだ。


 隣町には駅前に宿泊施設があるが、岬の先端、山と海の狭間にへばりつく様に佇むこの汐入には宿は無い。心配になって訊ねると、公営の郷土資料館の知り合いを頼るらしい。


「……なんか変な人に会っちゃったね」


「んー、60点ってトコかな」


 聞いてない。

 人間の顔の平均を取って行くと端正な顔立ちになるという話を聞いた事があるが、彼の場合は悪い意味でも目立たない顔立ちといったところか。何時か会った誰かの様な既視感を抱いてしまうほどに。そしてたぶん、その誰かはやっぱり思い出せないんだろう。


 素人民俗学者の車を見送ると、そろそろ夕間暮れ。


 浴衣姿に着飾った女の子が、両親に手を引かれ水天宮に向かうのが見える。浴衣は持っているし、一人で着付けも出来るが――着付けを覗く、べったりと絡みつくような視線――嫌な記憶が脳裏に浮かび逡巡しているのを、友人はどう受け取ったのか。


「あんたも着替えてきなよ。今夜は楽しもう!」

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