パスト
「こりゃなんか……悪いことしちまったな」
滝のような汗をかきながら町中を爆走するトリムは、ようやくパトカーに追われていることに気付いた。トラックを運転するトリムの隣には、大口を開けて白目を剥いている桃子が死んでいた。
死にかけの状態で町を歩く少女を見ると、トリムは過去の自分を見ているような気分になった。どうにか助けてやろうとトラックを止めると、少女が倒れたので、とりあえずトラックに乗せて、少女を介抱しようとした。
その時になってようやく、自分の後ろからパトカーの行列がやってきていることに気が付いたのだ。運転席に飛び乗ったトリムは、早速アクセルを限界まで踏む。
「うぐえっ!」
「あ、やべ」
この衝撃が瀕死の桃子にトドメを刺した。どうにかしてやりたいと思っているものの、パトカーに追われている最中によそ見運転なんてマナー違反はできないしなあ……。
と思うトリムであったが、アクセルを緩めようとは思わなかった。
激しい揺れと轟音で頭が割れそうになった桃子は、走馬燈の世界から現実の世界に引っ張られて息を吹き返した。目を覚ました桃子が最初に聞いたのは、水の音だった。重力によって水面に叩きつけられた、滝のような水の音だ。
「滝だ……」
喉がカラカラになっていた桃子は、その真横で流れている滝に手を伸ばした。
桃子が最初に感じたのは生ぬるさ。次に見えたのは見たことがない大人の男性のドン引きした顔。
次に聞こえたのは桃子がよく聴いているアーティストの音楽。
次に認識したのは自分が車に乗っていて、そのスピードがあまりにも速すぎることだった。
「幻覚か……」
「なにやってんだ」
乗り物、隣にいる男のムキムキな筋肉、そこらの壁にぶつかって飛び散る火……を見た桃子は、なにかマンガの世界にでも乗り込んでしまったかと思った。
「次は何。
「殴り合うのはポリスたちとだ」
「ヤンキー漫画は見たことがないのよね……」
「なんなんだお前は」
勝手に話を進める桃子の勢いに押されるトリムだったが、桃子も、ふと我に返って、誘拐された少女のような大声を出す。
「……いや、あなた誰ですか!」
「俺はトリムだ。テレビで見たことないか?」
「テレビはアニメかゲームする時しか点けないからなあ。……もしかして、有名人? だったら水とご飯奢って!」
「さっきからベタベタと俺の汗を触ってくるし、とんでもない奴を拾ってしまった」
トリムはもとからメシを奢るつもりだったが、まさか自分からメシをせがまれるとは思わなかった。だが、それよりも。
(俺、自分で思ってるより有名人じゃなかったのか……?)
トリムは後部座席に積んでいた巨大なバッグからレーションの箱を2つ取り出し、片方を桃子に分けた。
「え、あ。ありがとうございます?」
左手を上げ、どういたしましてのポーズを取ったトリムも箱を開ける。
「金はいらないから遠慮しないで食いな」
(……その代わりに体とか要求しない?)
喉まで出かかった疑問はレーションに押し込まれ消化された。カラカラだった桃子の喉は砂漠と化した。桃子の喉は呼吸をするたびに空気中の酸素だか窒素だかに刺された。
「水……。ありったけの水を……」
「俺の汗でもかき集めてろ」
トリムはスポーツ飲料を取り出した。桃子がそのフタをひねるとペキペキと軟骨を鳴らすような気味の良い音がした。桃子がペットボトルを傾け、できるだけ口をつけずに飲んだ。
「トリムさんは命の恩人ですよ。名乗るのが遅れましたけど、私は桃子っていいます」
「ため口でいいぞ」
トリムは命の恩人という言葉を聞いて心の中で両腕を上げた。トラックのスピードは更に跳ね上がる。桃子はそんなトリムに目をやることなく、その意識は車内で流れる激しい曲に集中していた。
「これ、『パスト』だよね?」
「よく知ってるな」
パストとは、メタルな曲調が特徴のミュージックアーティストバンドである。基本的には日本語歌詞の曲を主に扱っているが、古典メタルから現代的メタルまでさまざまなジャンルの曲を作っている器用な人達だ。その突き抜けることのない器用貧乏さが足を引っ張り、結成3年にして国内外での知名度はあまり高くない。
「私は1か月間、パストの曲しか聞けなかったから……」
「かくいう俺もたまたまだが……」
レムリア王国に飛ばされた時、桃子の制服のポケットにはイヤホンと繋がったスマートフォンが入っていた。パストがO県O市でライブをするという噂を聞いて、予習するために、初めてスマートフォンにCDの音源を保存していたのだ。そのため、桃子が音楽を聴こうと思ってもスマートフォンに入っているパストの曲しか聴くことができなかった。
トリムがパストの曲を聴いたのは、闘技場で生きていくことを決めてからだった。人気だった頃のトリムの入場曲にパストの曲が使われていたのだ。その曲を気に入ったトリムは勢いのままにパストのCDを購入して、車に乗っている時はずっと流していた。
パストの曲を聴いていた桃子は個人的にとても重要なことを思いだした。
「……そういえば、パストのライブ、今日じゃないっけ……?」
「本当か。とりあえず、行ってみるか?」
「行きたい!」
桃子は叫んだ。その前方には、パトカーの群れが待機していた。
「……それで、私はどうやって車を降りればいいの……?」
「最近の女子高生は走ってる車から降りれないのか?」
「最近の女子高生じゃなくても止まってない車からは降りれないよ」
「だが安心しろ。降りなくても大丈夫だ」
「まさか、包囲網を突破する方法があるの!?」
桃子は漫画的な解決法があるのかとシートベルトがきつくない範囲で身を乗り出す。
「ある」
「なに」
「顔パス。俺は有名人だ」
「うーん。異世界に飛ばされたかった」
トラックは停車した。慣性によって桃子の体がシートベルトに締め付けられる。ガタンと止まれば、その身体はシートに叩きつけられる。はうっ! と肺の空気が車内に漏れる。
「止まっちゃダメでしょ」
「止まらないと降りれないんじゃないのか」
「ナイスおもてなし。でも……」
トラックは銃を持った警官たちに囲まれていた。
「これ、どうするの」
「どーーしようもねえな」
「私が警察に逮捕されたのはどう考えても法律を破ったトリムが悪い」
「せっかくシャバの空気を吸えてるのに、そうカリカリするなよ」
「そのことなんだけどさ……」
桃子はトリムの顔をじーっと見る。改めて見ても桃子はトリムの顔に覚えがなかった。
「どうやったらこんな即時保釈できるの?」
「顔パスだ」
トリムは口から出まかせを吐く。本当は、桃子の分も合わせて多額の保釈金を支払ったのだ。トリムが闘技場で貯めてきた数千万のお金は、缶ジュースを買えるか買えないかほどを残して全て消し飛んだ。トラックも、
(これからどうやって生活していくか……)
トリムが沈んでいることは桃子にもわかった。
「まあ、トラックのことはパストのライブを見に行って忘れようよ」
「それもそうだな」
ゼロから始まる生活は、闘技場という生きがいを失ってしまった自分にとってはいい機会かもしれない。トリムは思った。
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