第18話 転生
ドンドンドンとぶっきらぼうにドアが叩かれる。
その音に、意識が戻り、体が覚醒する。頭はまだぼやけており、体の節々が痛んでいる感覚が、じんわりと戻ってきた。
地下室の部屋、ソファに横になったまま自分が眠りこんでいたことに、ガブリエルは気付いた。
「おい、こっちだ、出てこいよマハ」
ドンドンという音の間に、男の声が聞こえてくる。フランス訛りの英語。
この声は……知っている声だ。フィリップ・アレニエ、フランスの異能機関テンプル騎士団の騎士の一人。高坂悠馬捕獲作戦に参加する仲間だ。
「……んん」
頭痛に小さな唸りをあげながら、ガブリエルはその美しい金髪を掻き上げ、ソファに横たわった肢体をくねらせた。
「返事がねーなー!……レディが寝ている部屋に勝手に入るのは紳士じゃねえと思ったんだがなぁ……だがしょうがねーし勝手に入るぞー」
なぜかスケベな色を含む嬉しそうな声に、ガブリエルはさすがに不快感を覚える。眠る前、この部屋には一応侵入者に対するアサシン流のトラップを仕掛けていた。フィリップがそれを警戒しているのかどうかは知らないが、発動すれば面倒なことになる。
「待て!どうした!何の用だ」
むくりと身を起こし、返事をしてからソファの背に手をつこうとして、彼女はようやく自分の右手が無くなっていることを思い出した。と、同時に痛みもより意識される。手首に当てていた氷袋は床に落ちてただの水になっていた。
「医者が来てる、ここじゃ右手の処置はできないし病院に来いってよ。車は俺が出すから、早く出てこい」
上の階にいる戦闘員から訊いたのか、アレニエがいつこの邸宅に戻ってきたのかは知らないが、えらく親切だなと思う。
ガブリエルいる部屋には古いブラウン管のディスプレイが五個置いてあった。それは邸宅内の監視カメラと繋がっており、他の部屋の様子が見える。敵が侵入してきた時の為に設置したものだった。
部屋の外の廊下を映した映像には、確かに人の姿が映っていた。ウェーブのかかった茶色い髪、歳は二十代後半ほど、ドアの前でキザなポーズをとった甘ったるい顔の男、フィリップ・アレニエ本人だ。
騎士とは言うが、甲冑を着て、大剣を差し、馬に乗っているわけではない。至って普通の砂漠迷彩の戦闘服を着ている。
「分かった!今行く!」
この時、何故か嫌な予感を感じたが、頭痛がその感覚をかき消した。この男は元々嫌いなのだ。自分に対して色目を使ってくる等、これまでの付き合いの中でも明らかな下心を感じていた。
車で送るというのも、確かに手負いのガブリエルを護衛するという意味では理にかなっているが、奴なりのスケベ心だろう。
アサシンとテンプル騎士団はかつて十字軍の時代には死闘を繰り広げた因縁の間だというのに。この男にはそのような歴史的教養や、そこから来る分別というものは持ち合わせていないようだった。
ガブリエルは上着とマントを羽織い、左手で髪を整えると右手の入ったクーラーボックスを肩にかけ、ドアに近づき、トラップの仕掛けを外すと、少し隙間を開けた。
「マハちゃ~ん、どうも」
ルックスとしては悪くない、しかし、どうしても好きになれない男の顔が、こちらに気づいて見つめ返してくる。
「……」
黙ってドアを開け、廊下に出る。
そこで、アルニエの腕に、一匹の巨大な蜘蛛がひっついているのが見えた。みるだけでおぞましい、黒い、少してかりのある体。
彼の異能だった。この男は魔法で造り出した蜘蛛を使い、その糸でもってあらゆる攻撃をや罠を仕掛ける。デルタ1はそれをスパイダーマンだと言い、本人もそうだと自慢していたが、まさにその通りの力だった。
アレニエの蜘蛛の繰り出した強靭な糸が、あの忍者、夜未すらも引き裂いたのだ。
しかし、なぜ今ここでその蜘蛛を出しているのか。異様に思ったガブリエルは、彼の瞳を見て、そして驚愕した。
「動くな」
先ほどまでの軽薄な声のトーンとは明らかに違う、沈んだ声でアレニエ短く呟く。
「……な!?」
「許可するまで声も出すな。この糸でお前の全方位を囲っている。一ミリでも動けば切れる」
透明な糸が、確かに周囲に張り巡らされていた。いや、ガブリエルの周囲だけでなく、この廊下全てに、抜けだす隙間も無く糸が張られていた。
集中して初めて分かる事実に、女アサシンは後悔した。
「お前に残された選択肢は、抵抗は諦めてメスブタ奴隷みたいに私の質問に答えるか、ボンレスハムみたいに自殺するかのどちらかだ」
「貴様……ふざけるな……!」
と言った瞬間、彼女の喉から血がスッと流れた。浅い傷だが、喉に赤い一線が入っていた。
「さっき言ったこと聞こえなかった?それともドM?」
「……っ!」
意味が分からなかった。アレニエがなぜ自分をこのように拘束するのか。何を訊きだすというのか。作戦の概要は彼と共有しているはずだし、それ以上に有意義な情報をガブリエルは持っていない。
「ま、ドMならドMでむしろ面白いけど。この魔術、悪趣味だけど、こういうプレイにはなかなかいい」
「……」
ガブリエルは、わけのわからないまま、せめて残された抵抗として睨みつけた。
「その目いいねぇ……。夕霧とアメリカ人がどこに行ったか答えなさい、そうすればご褒美をあげる」
アレニエは、気持ち悪く腰をくねらせるように体重をかけ、ポーズをとる。
しかし、どこにいったかだと?その打ち合わせは散々してきたはずだ。
「プランBだ……」
捻りだすような声に、アレニエは首をかしげる。
「プランB?何それ」
その表情を見て、それが冗談で言っているのではないと分かり、ガブリエルはこのアレニエが本物ではないと悟った。
忍者か、その幻術の類いだというのか。しかし、さきほど映像でこいつの姿を確認している。映像にまで細工が出来る幻術など聞いたことが無い。
不可解ではあったが、女アサシンは躊躇わなかった。アル・シャオクを発動し、この男に集中する。
糸が全身を締めあげる感覚があったが、切り裂かれたわけではなかった。しかし、蜘蛛の糸は体の各部に巻きつき、ガブリエルの体は宙に持ち上げられた。
「バレた?うふふ……」
アレニエは、先ほどから言動も仕草もおかしかったが、さらにおかしく、いわゆるおネエ系のような雰囲気を放つ。
「忍者か……!」
ガブリエルは、最後の力を吐きだすように、搾り切った雑巾をさらに絞るように、幻術を行使した。
「そうそう、これこれ……この幻術」
「……!」
「あら、どういうこと?あなたなんで血まみれに……いや、これが幻……」
「何を……!」
「貴様……何が見えている!」
術は完全に決まっているはずなのに、全く効かないかのようにけろりとしている。そんな敵に対して彼女は叫ぶように尋ねる。
「……あはは、あなた望みを見せるんだっけ?つまりやっぱり兵吾の仇かぁ、これはラッキーだわ」
アレニエではない誰かは、恐ろしいまでの笑顔だった。
「でも残念……望みを持つには、私は生き過ぎたみたいだわ……」
「何が……見えて……」
最強だと自負していた自分の幻術が破られたことに、なぜかガブリエルは執着してしまった。この敵は、後悔も悩みも無い能天気なのか、それとも。
「でも、なかなか興味深い幻を見せてもらったわ。そういうことなのね……」
「なにを……」
廊下に、宙に浮かんだ状態で、ガブリエルは得体のしれない強大な敵と対峙し恐怖していた。涙や、汗、そして、股間からは生暖かいものが溢れだし、ズボンを湿らせたが、彼女は気付かなかった。
「アサシンちゃん、あなたは何を見るの……?」
敵に睨まれる。殺される。捕食動物に鷲掴みにされた小動物のように、ガブリエルは己の死を悟っていた。そのどうしようもない恐怖に震えた。
そして、恐れから解放されようと、彼女は半ば無意識に、初めて自分自身に幻術をかけた。それが最後のアル・シャオクであり、見えるのは。
「お父さん……いや……」
父と母の顔を、娘は思いだせなかった。両親を失ったショックから、彼女の脳は、両親に関する細かい記憶をほとんど消し去ってしまっていた。
覚えているのはあの日空港の床で、血まみれになって……顔をグチャグチャに吹き飛ばされた……両親の姿。記憶はそこで凍結し、その表情が、どうしても思い出せない。
アレニエの顔はぼやけ、父親の形にはならず、それはやがてアリの顔に見えた。
「……」
憎しみしか持っていないと思っていた育ての親の顔を見て、ガブリエルは衝撃を受けるしかなかった。
「あなたのその顔、最高だわ……最高よ……芸術を感じる!」
アリが、ガブリエルの顔に近づき、顎を掴んでまじまじと見つめる。
「可愛い顔……震えちゃう……、もっと見てたい……」
愛おしく、見つめる目は、しかし生前のアリから感じた父性のような愛とは違った。
「でもいいわ……もらってあげる」
死の恐怖を紛らわせるために自分にかけた幻術により、ガブリエルの脳内ではセロトニンが大量に分泌されて幸福感で満たされ、恍惚とした表情を隠せなかった。しかし、そのとろけた顔には恐怖の色も入っている。極限の状況が、そんな複雑な表情を作り出していた。
「ここまで耐えたご褒美に、冥土の土産に教えてあげるわ……私の名前は……」
その顔のまま、彼女は殺された。最後に発せられた言葉を、ガブリエルが認識することはなかった。
脳に一突き、鋼の様な糸が突き刺さる。
彼女の綺麗な金髪が乱れ舞、白い肌がピンクに染まったかと思うと、徐々にまた青白くなっていった。
それが、ガブリエル・ハロムの最期だった。
数時間後、その廊下に立っているのは、一人の娘。
足元に横たわっている男、アレニエの体には生命の気配は無く、精気が抜けていたばかりか、その頭蓋はぱっくりと割れている。
立っている娘、どう見てもガブリエル・ハロムに見えるそれは、体をほぐすように動き、腕を回すと、ニマっと微笑んだ。
その右腕にはきちんと手がついている。代わりに足元のクーラーボックスの、ほとんど解けた氷水はアセロラジュースのように血に赤く染まり、その中に灰色の気持ちの悪い物体が浮いている。
ガブリエルの脳味噌だった。
娘は廊下を歩きつつ、血や、小便、その他に汚れた服を脱ぎ捨て裸になりながら、邸宅の中にある風呂場へと向かった。
全裸になった彼女は、白い肌を惜しげも無く晒し体を弾ませる。
「緋佐子も良かったけど、この子もなかなかいいわぁ……」
洗面所に架けられた鏡を覗き込みながら、正体不明、不可解至極のこの娘は嬉しそうに体を官能的にくねらせ、ポーズをとる。
彼女こそ、天生院夜未だった。
その世にも恐ろしき究極の忍法「輪廻転身」を使ったのだ。
この忍法は相手の体に脳味噌をまるまる乗り換えて、乗り移るという極めて奇怪な技だった。
だが、その忍法を使い、天生院夜未はこれまで何回もの転身を繰り返してきた。そして、百五十年近い時を生きて来たのだ。
もはや、人智を超えた、魔性の如き技。それが輪廻転身である。
ゴドフロアとの戦闘の時、アレニエの糸に切断された夜未は死んではいなかった、脳味噌を破壊されない限りこのくノ一は死なない。彼女の死体を回収しようと近づいた本物のアレニエを逆に奇襲で殺害し、切断された腕を念力で動かし、脳をアレニエに移植したのだった。
現代の医術では到底不可能な、神の領域とまで言われそうな大手術を、忍法は可能にする。
夜未は殺す前にアレニエを尋問し、情報を聞き出すことを怠らなかった。魅惑の術を使えば、彼はポンポンと情報を吐いた。夕霧のことも、その中にはあった。その情報を持って、彼の体で、彼の乗るはずだったバイクに跨り、イシュケダルのこの邸宅にやって来たのだった。
後はアレニエの振りをして堂々と入り、戦闘員からアサシンのマハことガブリエルのことを訊きだすと、廊下に罠を張り、彼女を嵌めたのだった。
「この金色の髪……!」
熱いシャワーを体に浴びせ、長い金髪にも水をしみこませていく。リンスは無く、メーカーの分からない安物のシャンプーしか浴室に置いていなかったことに若干眉をひそめるが、それでも構わなかった。
やはり男の体は好かない。フィリップ・アレニエの体になることは、湿って生ぬるい着ぐるみを被るように気持ちの悪いことだった。それが、数時間で再び綺麗な少女の体に巡り合えたのだ。
ドラッグに体をむしばまれていたのは気になるが、一番負担がかかっていた脳は一部を除きほとんど夜未のものと取り換えたし、このアサシンの持つ身体能力はまあまあ及第点といった所だった。吹雪に斬られたと思われる右手も、切り口が綺麗だったおかげで夜未は忍術によりくっつけてしまっていた。身体縫合は輪廻転身の応用技術であり、彼女の十八番だ。
それに、アサシンの体を乗っ取るということは、その異能もある程度受け継ぐことが出来るということだった。
相手の心の弱点に入り込み、望むものを見せる幻術。アル・シャオクという名前は知らないが、夜未はこの技はなかなか面白いと思った。
ドラッグに蝕ばまれてもなお若いからだが、温水に濡れ、てかりに輝く。
シャワーに打たれながら、夜未は体を確かめるように指でまさぐり、うなじ、首筋、形のいい胸、割れてはいるがしなやかな腹筋、腰、太ももを這わせ、股にたどり着く。
「んっ……んふふ……」
漏れる小さいため息と頬笑み。
この女は処女だ……。
そのどうでもよいことを、なぜか嬉しく感じる。そんな娘を殺したことに興奮を覚える。マハと呼ばれるこの女。アレニエの話では正体は元アサシンのモサドだと言う。なかなか面白い経歴だ。もっと詳しく知れば良かったかもしれない。
しかし処女か……、そのような性の欲求は、数十年前にすでに超越していた。だが、精神は老婆とはいえ、体は若いのだ。夜未もどれだけ生きようと女であり欲求が全くないというわけではなかった。
しかし、六年前の、あの日から。
夜未が昨日まで乗り移っていた、あの女の体になってから、そのようなことは一切無かった。
あの女も、その若さゆえ、当然処女だった。
無数の水滴を顔に浴びながら、彼女は静かに目を閉じていた。
夜未は江戸時代末期、幕末の世に、天生院家に生まれた。
幕末までの忍びの主流は、服部半蔵を筆頭とした徳川幕府に仕える派閥で、天生院家もその一つである。
しかし、地方の藩に仕える忍びも、決して侮るべき者たちではなかった。特に薩摩藩の忍びは、オランダからもたらされたヨーロッパの魔術書を読み、その力を忍術に取り入れ、独自の技を開発していった。
やがて明治維新は成り、続けて、長州・薩摩を中心とした新政府軍と、旧幕府軍との間で戊辰戦争が起こる。
服部半蔵らと共に、旧幕府側でその戦争に参加した当時の天生院家当主。彼は輪廻転身を繰り返し戦国時代より生きてきた、もはや生きた恐竜か、妖怪の如き男だった。だが、その陰で、元々幕府に仕えていた忍びの多くは新政府側に引き抜かれ、もしくは自らの意思で裏切っていった。
さらに薩摩の西洋魔術式忍術に意表を突かれ、幕府側の忍びは次々と倒れて行く。
戊辰戦争は旧幕府軍の敗北に終わり。服部半蔵と共に、天生院も降伏した。
敗れた当主は、忍びとはいえ、武士らしく切腹して自害しようと覚悟を決めた。そして、その彼の持つ、世にも恐ろしい忍法「輪廻転身」も、共に明治維新の闇に葬り去ろうとした。
だがしかし、そこに現れたのは、新政府側に寝返っていた朱膳寺家の当主だった。朱膳寺は抵抗する天生院を蹴散らし、刀で叩き斬ると、それを見て胆を潰していた天生院の娘も捕え、父の血を飲ませた。
あまりにも惨たらしい行動ではあるが、それは血脈伝法の行使であった。輪廻転身と言う稀有な忍法を消し去るのではなく。新政府の忍び機関の為に存続させようとしたのである。
そして、輪廻転身を受け継いだのが、当時一六歳の、およみという娘。つまり夜未のことである。
その後、日本中にいた忍びは新政府の元に統合され、政府に恭順しない反骨者は忍び狩りにあった。そのような状況では、天生院家の女当主となった夜未も新政府に下るより無かった。
やがて夜未は政府の為に生きるようになり、朱膳寺家とも共に行動した。
日本が突入していった、様々な外国との戦争にも参加し、敗れ、それでも忍びはN機関として存続し、夜未はその中にいた。
歴史が動き、日本が変わり、人は死に、忍びの世代もまた移り変わっていった。その移ろいを、夜未は死ぬこともなく見つめ続けた。
転身により何人もの体を乗り継いだ。まるで服を着替えるように移っていった時期もあった。ただ、基本的に夜未が乗り移るのは、忍び機関の中から、人身御供として選ばれた忍である。ある程度忍者として訓練し、出来上がっている体で無いと即戦力として戦えないからだ。
貴重な忍び一人を犠牲にしてもいいくらいに。それだけ輪廻転身の不死身の力と、長く生きてきた知識と、完璧な変身能力は機関の中で買われていたということだった。
任務上の単純な変装以外で、海外の異能使いに乗り移っていた時期もあったが、それ以外のほとんどの時間は、忍び機関から選ばれた忍びの体を乗っ取って夜未は生きてきた。それに対する申し訳なさはあったが、しかし、先代の時から続けられてきた決まりであり、夜未の一存でどうなることでも無かった。
さらに悲しいことに、夜未が乗り移った体は老化が遅れる代わりに、内部劣化が激しくなるという特徴があった。つまり見た目は若いままだが、体の内部はどんどんと衰えるということである。
一度乗っ取った体が、忍者として問題無く動かせるのは、個体差はあれ、だいたい十年前後だった。十年ほど経てば、新しい体に替えないと、そのまま朽ちて死んでしまうのである。
2014年、夜未はN機関の中の名家、望月家の娘、くノ一の鈴の体に入っていた。
元々美人の評判が高かった鈴は、十五年前、二十五歳の時に運悪く夜未への供物と選ばれ死んだ。だが、夜未の乗り移ったその美貌は、十五年経ったその時にもまだほとんど変わらずにあった。
とはいえ、体の内部では劣化が始まり、2014年の時点では、彼女はもはやまともに忍者としての任務をこなすことは出来ないようになっていた。
誰か次の人身御供を選出しなければいけない。しかし、その選定は毎回N機関に所属する各家の間での大論争を起こすような問題事だった。誰だって大切に育ててきた家族を、殺したくは無い。
そんな中で、ある別の話が持ち上がり、そこに天生院への生贄のことも、盛り込まれることになった。
現在においてN機関が直面している最も大きな脅威は、中国における中華八仙の存在である。
現状、一対一で八仙と戦い勝てる見込みのある忍者はいない。だからこそ、意図的に強力な忍者を作り上げる計画。鵺計画というものが立てられたのだ。
話は簡単である。朱膳寺家に伝わる血脈伝法を使い、複数の忍者の忍法を一人の忍者に集め凝縮し、それによってあらゆる術を使うことが出来る前代未聞の最強の忍者を作り上げるというものだ。
猿、狸、虎、蛇の体を繋ぎ合わせたかのような怪物、鵺。それを模したように、複数の忍者の力を合わせて怪物の如き戦士を作り出す。故に鵺計画と名付けられた。
そして、その複数の忍法の血を最も効率よく集合させ、運用するのに適した肉体は、朱膳寺家の当主であった。
朱膳寺兵吾が、その本体に選ばれたのである。
しかし、その計画には反対意見も多かった。一人の忍者に血を集めるということは、それだけ忍者の頭数が減るということだ。何百年もの間、代々継がれてきた忍びの血と術が、統合されるということである。
それはむしろN機関の総合力の弱体化を招くのではないかと言われた。
多くの犠牲の元、鵺計画によって生まれた忍者は、それでも八仙の一人とようやく対等に渡り合える程度だとも言われた。つまりその忍者が殺されれば、それでN機関の力は大きく削がれ、もはや八仙に対抗することは不可能になる。
あまりのリスクの大きさに、機関内での反対派が多数となり、鵺計画は難航した。特に問題だったのが、当の朱膳寺兵吾がその計画に否定的な姿勢を見せていたことであった。
その中で、計画推進派は力づくで事を進めようと画策したのである。
そして、担ぎ出されたのは、鵺計画における朱膳寺家の血脈伝法の次に重要な忍法を持つ、天生院家当主、夜未だった。
最強の忍者と言えど、寿命がある。その問題を解決するのは輪廻転身だった。鵺計画には天生院の力も重要だったのである。
代々朱膳寺家とは反発しあう間柄であった天生院家は、計画推進派に回っていた。だが当主である夜未は中道的な考え、悪く言えば「どちらでもいい」という考えであった。
とはいえ、些か生き過ぎた彼女には、生に対する執着は極めて薄かった。強力な忍者を作る為に自分の永遠の命を兵吾にくれてやることも、まあいいだろうという思いだったのだ。
夜未の意欲を確認した推進派は、改めて朱膳寺兵吾に計画を認めることを掛け合った。
ここに、おぞましい策略が働き、悲劇が生まれたのだった。
推進派が兵吾に提案したのはこうである。
望月鈴の肉体が劣化を始めていた夜未に対して、誰か生贄を出さなければいけない。
しかし、今鵺計画を実行すれば、夜未の血は兵吾の中に入ることとなり、生贄を供出する必要は無くなる。夜未は死ぬが、彼女は死を受け入れておりむしろ望んでる。
それで一人の生贄が助かることになる。
しかし、この案に対して兵吾が計画を断れば、夜未を延命させるために犠牲が必要となってくる。その生贄は、誰もが望まない。
ならば、計画を断った朱膳寺家から出すことが、筋と言うものだろう。と、こう言ったのだった。
そして、兵吾が計画を断った際に出される生贄は、朱膳寺家の長女、兵吾の妹であるまだ十二歳少女、緋佐子であった。
「兵吾……」
「あなたは……」
伊賀の山中にひっそりと存在する、朱膳寺家の屋敷。春の訪れと共に畳は張り替えられ、青い匂いと共に、僅かな陽気が部屋の中にまで入り込んでいた。
時刻は夜半。満月が窓から見える庭を、白く照らしていた。
照らす月とのコントラスト、室内の薄闇の中に、白い物がぼうっと浮かび上がっていた。
それは、白い着物をはだけた女体。豊かに膨らんだ乳房に、月の反射光が僅かに掛かり、形を浮かび上がらせる。
二十代後半、成熟の一歩手前にある女の体を持った、美貌の天生院夜未。
それと対面し、布団の上に体を起こすのは若き家主の兵吾だった。
「私を抱け……」
「何を……」
着物を脱ぎ捨て、男の上に覆いかぶさるように這う夜未は、艶っぽく呟く。
「私は生き過ぎた……最後にお前に抱かれて死ねるなら、それでいい」
夜未はそのようなことを言うが、実際これまでは兵吾に対する思いなど無かった。むしろ家柄としては対立しており、彼女自身、朱膳寺には、父を殺され血を飲まされたという、惨い嫌な思い出しかなかった。
しかし、このように兵吾に夜這いし、目の前で肌を晒した時。長い生の中で、とっくに擦り切れたと思っていた夜未の中の女は、再びちらちらと燃えだしたのだった。
「天生院夜未……」
「なぁ……兵吾……」
この時、彼も男であり、兵吾の目の中には確かに夜未と同じ火が灯っているのを、彼女は感じた。夜未は魅惑の術は使っていなかった、忍者に対してその術を使っても、たいした効果は無い。
だからこそ、男の反応には驚いたが、嬉しくもあった。
咽るほどの色気を放つ夜未に擦り寄られ、兵吾がどのような葛藤に苛まれたのか、それは彼自身にしか分からない。
何より、ここで夜未を抱き、その血を吸えば、妹の緋佐子の命は助かる。兵吾が何よりも大切にしていた妹である。その溺愛っぷりは、忍者の中でも誰もが揶揄するほどのものだった。
その緋佐子を生贄にすると言われれば、彼は計画に乗るだろうと誰もが考えていた。
しかし、兵吾は断った。
夜未の体を押しのけ、青い畳に脱ぎ捨てられた着物を拾い、彼女のほうにやる。
狼狽したのは、夜未のほうだった。
「なぜ……拒む……」
繋がりを拒否された怒りや恥ずかしさは無かった。ただ、男の心が分からなかった。
兵吾は、立ちあがって襖の方へ向かうと、振り返ってこう言った。
「すぎた力だ……」
兵吾の強い反対により鵺計画は頓挫し。緋佐子は生贄となった。
白装束を着た緋佐子は、天生院の家に入り、自ら切腹して果てた。彼女は最後まで毅然として、生贄の身を受け入れていた。当主である兄に対する恨みも無い様子だった。ただ、十二歳という歳ではさすがに死の恐怖を隠しきることは出来ずに、体を僅かに震わせていただけだった。
もっと生きたかったと、少女は口に出さずとも全身で訴えていた。
夜未はその体を奪い、若い体に乗り移った。
それ以降、夜未は緋佐子の姿で度々兵吾と会う機会はあったが、互いに事務的なこと以外で声を掛け合うことは無かった。兵吾は、失ったはずの妹が夜未として動いていることに反応を示さなかったが、その瞳の奥に深い悲しみを秘めていることは、分かった。
夜未自身も、あの夜のことは忘れられなかった。
そのような間に、兵吾は死に、悠馬が現れ、夜未と悠馬はこの作戦に投入されることになったのだ。
彼女の悠馬に対する気持ちは、複雑である。
ただ、それが恋とは違うということだけは確かだった。
この街で一番高いビルの上に立つ、一人の影。
ガブリエル・ハロムの姿かたちをした夜未だった。
死を待つだけの、この街の狂気の姿を、彼女は滑稽だと思う。何百何千年もの歴史を持つこの街も、外敵の前に灰燼に帰する。
今このイシュケダルに溢れかえる者共も、近い未来には皆死ぬか、追放される。しかしこの街自体は今後も残るだろう。
その後に、誰がこの街を乗っ取り、どのような街に生まれ変わらせるのか。多国籍軍は、国連は、この国をどうしようというのか。
そこまで考え、どうでもいいと思った。
今、夜未が望むのは悠馬を守ることだった。敵は悠馬の力を欲している。自分の持つ輪廻転身よりもさらに恐ろしく、名前通りに血ぬられた存在である血脈伝法を。
そして、夕霧。
朝日に、急速に温まった地表の空気がゆるい上昇気流となり、夜未の金色の髪をふわりと浮かす。
夜未は、考えていた。
先ほどアサシンの幻術を受けた時に見た幻。それは、このマハと呼ばれる女が血にまみれた姿だった。
アル・シャオクは、自身の深層心理に隠された憧れを幻想として映しだす。
だからこそ最初は疑問だった、この女に対する憧れや羨望など、自分は持ち合わせていない。
しかし、気付いたのだ。自分はこの娘の体を乗っ取る、つまりあの血に濡れた姿は、自分自身の未来の姿だということだ。
長い歳月を生き、あらゆることを経験してきた夜未が今一番望むこと。誰もが与えられるのに、自分にだけ与えられない物。それは死ぬことだった。
自分は死を望んでいる。この娘の体で死ぬことを自分は望んでいる。それは未来予知では無いが、しかし……。
自分は、この作戦で死ぬのかもしれない。
それを自分は心の深層で願っている。
そして、さらに思いを巡らせる。
この作戦の裏にある、恐ろしい影の正体を。
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