第14話 ガブリエル










 イスラエルという国がある。

 中東、アラブ人によるイスラム教圏を穿つように、半ば人工的に、半ば歴史を踏襲して造られた国。

 ユダヤ人による、理想の国家。

 世界中で蔑まれた彼らが集結する、約束の地。

 彼女、ガブリエル・ハロムの祖母クロエも、第二次世界大戦時にドイツで人種差別を受けるも、なんとかアメリカへと亡命し、その後新国家であるイスラエルへと渡航し、ガブリエルの祖父となる男と出会い、結婚し、この地で子供を産んだ。

 ガブリエルにわずかに残る子供のころの記憶は、両親の愛に満ちたものだった。




「ガビィ……ほら、こっちだ。あれが見えるか」

「ひこーき!」

「そーだそーだ!今からあれに乗るんだぞ」

 イスラエルの主要都市テルアビブ、そこから少し離れた場所にある、この国の誇る世界で最も警備が厳しい空港と言われるのが、このベングリオン空港だった。

 その飛行場一帯を見渡せる展望デッキに、一組の家族がいる。

 茶色い髪、その髪の色よりもっと薄い茶のコートと黒いスーツを着て黒ぶちの眼鏡をかけている。非常に身なりのいきとどいた、優しげな雰囲気の男。

 そして男が話しかけるのは愛娘である少女。歳は六才ほどだが、こちらは美しい金髪、人形か天使のような彼女は、親の溺愛を受けているのが一目で分かるような可愛らしいドレスの風の洋服を着せられていた。

 それを見守るのは、金髪の娘によく似た母親だった。非常に美しく、地味な服装だが、それがかえって彼女の魅力を引き立てていた。

「ひこーき……とんでいくの?」

「そうだぞ、ドイツに行くんだ、クロエおばあちゃんの故郷だ」

「ドイツ……」

 嬉しそうな父と、きょとんとしてまだあまり理解できていない娘を見ながら、母親はクスリと笑う。

「いい国よ、行けば分かるわ、ガブリエル」




 今や大人となったガブリエルは、空港には嫌な思い出しかない。

 空港の税関は、どこの空港でも面倒で緊張を強いられるものだった。

 それは彼女がなんの隠すところもない一般人ではなく、アサシンであり、それでいて某国の諜報員でもあるからだった。

 しかし、それとは別に、空港において彼女は特別な、人生を一変させる事件に出会っているからだ。

 結論から言うとガブリエルは両親と共に、幸せなドイツ旅行に行くことは出来なかった。代わりに彼女が連れて行かれたのは、当時まだ独裁政権の元にある、テロリスト国家になる前のハダイ共和国だった。

 この日。ベングリオン空港に、トルコからの飛行機に乗って、正規のルートで堂々と入国しようとしたテロリスト達がいた。

 2011年より、民主化運動の起こりつつあったハダイでは、この頃からテロリストとアサシンが暗躍しており、その余波は外国にも及んだ。

 彼らはイスラエルとも敵対していた。

 民主化運動による混乱と内戦一歩手前のハダイ情勢を利用して、イスラエルの工作員を多数ハダイ入りさせ、ハダイ国を弱体化させようと陰謀を企てたとし、その報復としてイスラエルでのテロを決行したのだった。

 彼らは巧妙にテロリストであることを隠してイスラエルに入国し、テルアビブかエルサレムでのテロを行おうと画策していたが、その計画は空港の税関で見破られ、逮捕されようとしていた。

 通常であればそれで事件解決であり、未遂のテロリストが何人か捕まるだけで、何事も起こらずに終わる。だが、そのテロリストの中にはアサシンがいたのだった。

 もはや穏便に入国することは不可能だと分かったアサシンはその場でのテロの決行を決意し、その魔術を使い、空港の警備員から銃を奪うと仲間のテロリストにも渡し、そして地獄のような銃撃戦が起こった。

 その銃撃テロの中で、一人のアサシンを除く、テロリスト四人は全員死亡したが、警備員や警察、空港内にいた客にも多くの死者が出る。

 その犠牲者の中に、ガブリエル・ハロムの一家も含まれていたのだった。


 テロリストに無慈悲に撃ち殺され、もはや動かなくなったガブリエルの両親。それに寄り添って床に座り込み、ただ泣き続けるだけの彼女の側に、一人の男が立ち止まる。

 それがアサシンだった。その四十代ほどのアラブ系の男は、一目でガブリエルの才能を見抜いたという。ガブリエルが後から本人に聞いたところ、そのような回答が帰って来た。

 アサシンの男、本名かは知らないが周りからはアリと呼ばれた彼はガブリエルを見ると一瞬迷い、そしてすぐに決意して彼女を抱きかかえて逃走した。

 厳戒態勢の空港から少女を拉致したまま逃げ出すなど、アリが熟練のアサシンで幻術を使えるから可能であったことである。さらにその後アリとガブリエルは国境を越えヨルダンに渡りシリアへと抜け、そこから組織と合流し、ハダイへと戻った。

 そして、甘やかされて育ったユダヤ人の少女は、アサシンの厳しい訓練を受けることになったのである。

 金持ちの家に生まれ、一人っ子として可愛がられ、良い幼稚園に通い、一か月に一回は街のトイザラスやデパートに連れて行ってもらい、好きな物を買ってもらってレストランで好きな物を食べた。誕生日にはまるで王女様のようにもてなされ、育った。

 そんな六才の子供が、クソの掃き溜めのような、殺伐としたクルムの寺院に連れてこられたのである。

 他のアサシンの誰もが、ガブリエルは訓練には適合しないと侮蔑の目を向けていたが、アリは根気強く彼女を鍛えた。それは圧倒的な力で抑えつけ、彼女の人格を一度破壊し、そこから暗殺者として再び形成していく作業であった。

 その為には幻術も使った。徹底的な洗脳を前提としたものだった。下手をすれば、そのまま人格が崩壊し、廃人となる危険性の方が多い、そんな滅茶苦茶なものだった。

 だが、ガブリエルは幻術による洗脳を受け入れ、その訓練は、一応の成功を収めた。




「お前はあの子をどうしたいんだ」

 日の沈みかけたクルムの街に、アザーンが響く。イスラム教における礼拝を呼び掛けるこの歌のような、呪文や唸り声のようなこの声は、マイクによって大音量で街中に響いて行く。

 そんなアザーンも、生まれたころから聞いていれば、蝉の鳴き声のように風流なBGMとなっていくものだった。

 クルムの街の寂れた商店街に、古びたジープが停まり、その横で佇んでいる男に、店から出てきた男が近づいてきて、まるで話の続きのように話しかけた。

「マハのことか」

 車のボンネットに腰を寄せる男、アサシンのアリは、そう返す。

 アリに対して、同じくアサシンである男。アラブ系の、アリと同じ年代の中年が、店から買ってきたメッカコーラのボトルを投げてよこした。二人の間には親しい雰囲気があり、実際彼らはアサシンの同僚であり、親友でもあった。

「他に誰がいる、隠し子でもいたのか?」

「……マハは、アサシンにする、長老たちもそれで良いと言っただろう」

 アリは、ガブリエルのことをアラブ風のマハと改名して読んでいた。アサシン寺院の中で、あの旧約聖書に出てくる天使のような本名をそのまま使うことは、些か支障があった。

「アリ、お前のがやろうとしているのは、あの子を本物のアサシンにすることだろ?長老はそこまで言ったか?」

 同僚の、なにやら心配する言葉に、アリは遠くを、夕闇に落ちていくクルムの街並みと、オレンジから青、そして黒の間のグラデーションを展開する空を眺めていた。


 クルムは比較的平和だったが、アンテオンやイシュケダルでは今でも反政府デモが激化しており、政府軍と武装勢力が小規模な戦闘を起こし始めていた。

 やがてこの国で大きな戦争が起こることは、誰もが肌で感じていることだった。

「神が、私にそうしろと言ったんだ。あの子を育てろと。あの子と一緒にエルサレムの街を通った時に、それを確信した」

 その声は、何度も彼の心の中で反芻してきた言葉だった。

「それは……神の声と言うのは……お前にしか分からないことだ。他のアサシンも確かにあの娘の才能は認めている。だがそれはあくまでも特攻要員として、聖戦士としてだ」

 アリの同僚の言うことは最もだった。

 アサシンには大まかに分けて二種類がいる。通常の異能機関の構成員と同じような、正規の軍人とでも言える、かなり訓練され、あらゆる任務をこなすことが出来るハイレベルな工作員が一つ。アリも、この同僚の男も、そちらに分類される。

 もう一つは、自爆テロ等の時に、致死量のドラッグブーストを使って魔術による自爆攻撃を仕掛ける、所謂聖戦士と呼ばれる要員だ。聖戦士は僅かな才能さえあれば比較的簡単に養成され、後はドラッグさえ渡せば、簡単にあるレベルの異能使いになるというコストパフォーマンスに優れた戦闘員である。

 だが、その使い捨て要員には、人道や、信頼といったものは無い。

 ガブリエルを見たアサシン寺院の幹部達は、確かにアリの言うとおり彼女に魔術の才能を見たが、それは特攻要員としてのものでいいだろうという判断に終わった。

「特攻要員を蔑むつもりは無い、だが、マハは一回で使い潰すには惜しい。神はそのようなことにあの子を遣わしたわけではないだろう」

 だが、アリはどうしてもガブリエルを一人前のアサシンに育て上げたいようだった。

「……それがわからん。あの子はユダヤ人の子だ。あの髪も肌も、我々の同胞じゃあない。長老が気になるのもそこだろう」


 数十年前に突如イスラエルを建国し、アラブの土地を、そして聖地の半分を奪い、未だに紛争の種を抱える彼らユダヤ人を、アラブ諸国のイスラム教徒は常に反発の目で見ている。そして十字軍の時代からキリスト教圏にぬぐいきれない不信感を抱いているのも、またアラブ人達だった。子供とは言え、根っからのユダヤ人であり、金髪の白人という、いかにもな欧米人を、アサシンにするというのは過去にほとんど例のないことだった。


「……」

「俺達はずっとキリスト教圏と、最近ではユダヤ人と戦ってきた。彼らをスパイや、特攻要員として送り込んだことは今までにもいくらでもある。でも本物のアサシンとして育てたことは、これほど極端な例は無い。彼らを利用することは出来るが、仲間として共に闘うことは、気持ちの問題としても出来ないだろう」

「……」

「違うか?アリ」

 そこで男はコーラのキャップをねじ開け、あまり冷たくないその炭酸の液体を飲み込んだ。

 だがアリのほうは、ペットボトルをふたを開けもせずに持ったままだった。

「あの子が最初の前例になる」

 同僚の説得にも、彼の決意は変わらないようだった。

「……」

「……」

 男は、もう一口のコーラを飲み、キャップを閉める。

「……分かった……分かったよ、俺はこれ以上何も言わない。だからそんな目で見るなよ。だが、おそらく洗脳になるんだろ?最悪死ぬぞ」

 幻術による洗脳は、脳に大きな負担を生じさせる。子供であれば死ぬことも大いにあり得ることだった。

「わかってる……、綺麗な方法じゃない。でも、あの子は洗脳術に耐える」

 アリの自身は一体どこから出てくるのか。同僚には分からなかったが。どれだけ言っても、もう無駄だということだけは分かった。

 だから話はそこで終わり。二人は車に乗って、アリの運転で山の上の寺院に戻っていった。

 ガブリエルことマハが、その後、忍者を倒すほど強力なアサシンとして成長するなどとは、アリすらも思っていなかったかもしれないことだが。

 最終的に、彼女に裏切られることを、彼以外のほとんどが危惧していたそのことが現実になることを、アリは、知る由もなかった。




 とにかく、そのような経緯で、ガブリエルは訓練の最初の段階を越える。これまでの自分を忘れ、新しいアサシンとしての自分に生まれ変わった。

 泣くだけだったガブリエルは、この世の中は優しい物だけで溢れていると信じていた彼女は、やがて自分の心を殺し、そして憎しみや怒りの感情を解放していった。

 両親といた時に自分がいたのは天国であり、それは幻想の世界であり、今いる地獄こそが本当の世界の姿なのだと、それが現実なのだと理解した。

 それからアサシンの暗殺術や幻術を学び、異能使いとして、殺人マシーンとして完成しつつあったガブリエルだったが。それでも彼女の中には両親の愛情が残り、それは心の芯となって残った。

 あの両親の愛は本物であり、人は悪人だけではなく、善人も少なからずいるのだと、そう信じられる最後の希望となった。

 その思いはほとんど忘れ去られつつはあったが、心の隅に消えることなくあり続けた。それだけは誰も壊すことは出来なかった。

 そして2016年、訓練をある程度終えた彼女は、イスラエルへの潜入作戦を命令された。

 十二才、まだ少女であり、ユダヤ人の顔と言葉づかいを持つガブリエルは、まさにその国への潜入にうってつけだった。

 しかし、その極秘任務中、彼女はイスラエルの諜報機関と接触することになる。

 モサドと呼ばれる、イスラエルの持つ世界有数の諜報機関。その中の異能部門である魔術師との接触、というよりその魔術師に捕えられた彼女は、モサドによる尋問の最中に幻術による洗脳を解かれ、母国への愛を蘇らせた。




「……ぅ……?」

「……気がついたか?」

 ガブリエルには、天井が、そこにある大きなライトが見えた。どこかの室内のようだが、状況が把握できない。

 目の前には女が立っていて、ガブリエルの顔をタオルで拭いていた。なぜタオルで拭いていたのかこの時は分からなかったが。後に自分が尋問する側を体験した時、自白剤や幻術を食らった人が目や口や鼻から、唾液や涙や鼻水を垂れ流すのを見て、ようやく理解できた。

「……ここは……あなたは」

 十二才の少女は、尋問用の拘束椅子に半ば括りつけられた形であることに、ようやく気付いてくる。

「……答えられない事柄の方が多いが。ここはイスラエルのどこかであり、私はこの国の国民だ」

「……」

 記憶が、戻り始めてきていた。


 ガブリエルはイスラエルにスパイとして入り込み、現地のハダイのスパイと協力して諜報活動を行っていた。その中でモサドに追跡され、何人かは撒いたが、ついに現れたモサドの異能部隊の攻撃を受け、軽い戦闘になった後に敗北したのだ。

 そして、おそらくここはモサドの管理するどこかの建物の尋問室の中だろう。


「可愛らしいアサシン……お前の記憶はいくらか見せてもらったよ。なかなかに面白い経歴だ」

 今目の前に立ち、喋っているの女は、三十代くらいだろうか、黒い髪を飾りっけなく後ろでまとめており。その顔は何かに怒っているように眉毛が上がっていたが、冷たいながらもどことなく人間味を感じる、欧州人の顔だった。

「……殺して」

 少女は、そんな悲痛な声を出す。

「安心しなさい、殺しはしない……お前の返答次第だがな」

「殺して」

「奥歯に仕込んでいる薬は使えないぞ、もう回収した。魔術も使えない、そういうふうにしてある」

 その女、正体はもちろんモサドの魔術師であり、尋問担当でもある彼女は、人の記憶をはじめとする脳の機能を操作する異能使いだった。

 人の数々の記憶を見てきた彼女にとって。少女の脳に侵入することなど容易い。

 だが、その脳に、アサシンの魔術による洗脳の痕を見ていた。


「……何を要求するの」

 腕と足が拘束されており、何かの術のせいか幻術も使えない、もはやどうしようもないと理解した彼女は、抵抗を一時諦めて様子を見ることにした。

「素直な返事だ。……君にかけられたアサシンの洗脳を解きたい」

「なにを……そんなこと……」

 ガブリエルには自分が洗脳にかかっているという意識は無かっただけに、動揺した。

「君はユダヤ人であり、イスラエル国民だ。六年前のあの空港事件の生き残りだとは思いもしなかったが、君はむしろハダイにこそ恨みを持つべきだ」

「……」

「私の力で、もうすでに洗脳は解けかけている、だから君はこれまでのことに疑問を感じ始めてくるはずだ。だが、完全に呪いを消し去るためには君の同意が必要だ。君自身の意思と私の術が一致しないと、最大の効果は出ない」

「……そんな」

 ガブリエルのそんな、このままいけば泣き出しそうな顔を見て、モサドの魔女も少し悲しそうに、眉をひそめた。

「私はあなたの為にやりたいと思っている。本来のあなたに戻るために、あなたの同意が必要なだけ」

「……いや……ころして……」

「気持ちは分かる……でも、勇気を出して、本当のあなたを取り戻すの」

 女の口調は、どんどん柔らかくなっていく、それも尋問術の一つだったが、その時のガブリエルが知るはずも、意識する余裕もなかった。

「……いや」

「ご両親のことを、お母さんと、お父さんのことを思い出して、あなたを誰よりも愛した人のことを、まだ覚えているでしょう」

「……」

 女がまたタオルを顔に当てる、涙やらなにやらのが出ていることに、それで気付く。

「大丈夫……怖いことは無い……大丈夫」

 そして、少女は頷いた。

「……」

 この同意に、魔術や自白剤の力が関係していたかどうかは分からないが。魔女が匠に誘導していたことは確かだった。

 ガブリエルの記憶の中のアリが、それなりの愛とも呼べなくもない思いでもって丁寧に少女を育てていたことも、このモサドの魔女は読み取っていた。

 ガブリエルの中にも、訓練は地獄のように厳しかったとはいえ、飴と鞭のように、極まれに優しくなるアリのことを、なんとなく親戚の父のような思いで見ていたことも分かっていた。

 だが、そういう都合の悪いことは、魔女はあえて言わなくてもいいことだと判断したのだ。

 彼女はイスラエルに殉じ、ハダイを恨むことこそが正しいのだと。

 洗脳から解放される方が幸せなのだと信じて。

 どちらにしろ、少女にとっては変わらない不幸の道だったとは、組織の中のただの尋問官である彼女には予測のしようがなかった。

 ここで少女が洗脳を解かれることで、少女のこれからの人生がむしろ悪い方向にむいていったことは、この時点ではだれも知りようのないことだ。


「いい子よ……素直になって……力を抜いて」

 そう囁きながら、魔女はガブリエルの顔を手で覆った。

「……」

「リラックスして……何も考えない……心を……委ねる」

 その手から、暖かい何かが流れてくるイメージがあった。




 洗脳から解放されたことで、全てが晴れたようだった。だが、それと同時に両親の記憶が蘇り、彼女は泣いた。

 ガブリエルとしてはイスラエルに戻りたかった。しかしモサドの魔術師が提示したのは、別の条件だった。

 アサシンとしてハダイに戻りつつ、二重スパイをしろということである。モサドからすれば、洗脳されていた元イスラエル人とはいえ、徹底的にアサシンに訓練された者をすぐさまこちらに引き入れることは出来なかったのである。

 つまり、二重スパイとして様子を見つつ、イスラエルへの忠誠心を試そうとしたのである。

 さらにモサドが期待したのは、彼女のハダイへの憎しみだった。

 アサシンの洗脳から解放され、彼女は世界の中のテロリスト国家であるハダイの実情を知った。それからしばらくして湧き出してきた怒り。両親を殺した仇。ジハード戦線と深く関係しているハダイという国、そしてアサシンの組織への怒りは尋常ではなかった。

 加えて言えば、ガブリエルの会得した幻術は、アリの見出した才能通り強力なものであったことも大きかった。

 モサドの魔術師は、二重スパイとして働き、ハダイ壊滅の為に力を尽くすのがあなたが一番活躍できる道だと、そう諭した。

 それはその通りであり、納得できることであった。

 ガブリエルは、二重スパイとなり、モサドの裏の構成員として、アサシンの身分のままハダイに戻ることになったのだ。

 そんな彼女に、モサドからさっそく指示された仕事が、日本に渡りハイジャックテロを起こせというものであった。


 ジハード戦線はその時期、ちょうど世界同時多発テロを計画していた。

 イスラエルやアメリカの情報機関はそのテロ作戦の計画をある程度把握していた。誰もがその計画を止めるべきだと主張したが、時間も場所も誰がやるのかもわからない全てのテロ潰すことは、実際問題容易なことではなかった。

 だからこそ、アメリカはそれを自身のやりたかったある計画に利用しようとした。

 そのアメリカの意向を受けたイスラエルは、ガブリエルを使用することを考えたのである。

 ガブリエルがテロの一員として作戦に加われば、そのテロをコントロールすることが出来ると考えたのである。

 モサドは彼女に指示だした。それは日本で行われるテロの実行部隊に志願し、そのテロを指示通りの方向に持って行け、というものだった。

 アメリカの意図までは説明されなかったが、ガブリエルに与えられた最終目標は、日本のN機関の忍者を足止めし、ハイジャックを成功させるというものだった。

 モサドとアメリカの指示により日本でテロを起こすという、良く分からない任務に疑問はあったが、ガブリエルは素直にそれに従った。

 アサシンの組織の中で、世界同時多発テロの計画を決め始めた時。わざわざアリ頼み、日本行きを志願した。

 世界中でもかなりの強さを誇る忍者と戦い、自分の力を示したい、長老たちに認めさせたい。というような適当な理由付けをガブリエルが言えば、アリは困った顔をするだけだった。

 アリには、せっかく育てたアサシンを、忍者と言う最強の異能使いが待つ死地にやることは反対だったが。案の定、他のアサシンは誰も行きたがらない日本に、ユダヤ人の少女が行くことにはむしろ肯定的だった。

 また、もし忍者に勝てるとすれば、それはガブリエルの特殊な幻術しかないだろうという計算もあったのだ。

 ガブリエルは、アメリカ、モサド、アサシンの異なる組織からの期待を受けて日本へと飛んだ。正直なところ誰もが期待をしていなかった。うまくいけば良し、いかなかったらそれはそれで、面倒なアサシンの少女を始末できるというものだった。

 だが、結果は大成功で終わった。

 ハイジャックは成功し、N機関の忍者を亡きものにするという最高の戦果をあげて、ガブリエルの任務は終わったのである。


 彼女の命をかけた任務遂行に報いるような形で、ハダイはその後再び戦争に突入し、彼女の望み通りに壊滅の危機に陥っている。

 あのハイジャック事件は、忍者をこのハダイにまでおびき寄せる役に立った。

 アサシンの組織も、少し前に忍者によってクルムの寺院を襲撃され、ほぼ全滅した。

 その中でアリも、長老たちも、ほとんど死んだらしい。

 彼女の望みは全て叶いつつあった。

 しかし、これで終わりではなかった。

 彼女には、イスラエルへの帰還を許される為の、最後の条件となる任務が、モサドを通してアメリカから与えられていた。

 高坂悠馬という忍者を捕えよ。というのがその命令であった。




 そして今。ガブリエルは、夜のイシュケダルの街を走っていた。

 あの気配を消すのが恐ろしく上手い忍者の男を追って、必死の形相であった。

 厳しい顔になるのは息切れのせいではない。あの忍者を逃がすわけにはいかなかったのだ。

 先ほどの戦闘で使ったドラッグブーストは、かなりの負担を彼女の体に及ぼしていた。酷い頭痛に目の前が霞みつつある。

 それでもガブリエルは走り続けた。

 忍者を捕えなければ、イスラエルに帰ることは出来ない。両親と暮らしたあの国に、まともに戻ることは出来ない。ハダイの最期の動乱の中で課せられたこの課題をこなさなければ、次にいつこのようなチャンスがモサドから与えられるかは分からなかった。

 高坂という忍者を捕まえるためには、まず周りの忍者を何とかしなければいけない、倒すのは無理だとしても追い払うくらいしなければ話にならない。ハイジャック事件の時の経験と、先ほどの戦闘を通して、忍者だとしてもなんとか相手を出来るという自信はあった。

 だからこそ、あくまでもさっきの忍者を追撃する。深追いだとしても、その先に高坂悠馬がいればむしろ願ったりだ。

 幸先が良いことに、つい先ほど、敵の気配を感じた。

 ガブリエル・ハロムの持つ強力な幻術。「アル・シャオク」は非常に汎用性の高い技だった。

 必殺の間合いである有効半径で二十メートル、効果は薄まるが最高で二百メートルまでその幻術のパスは飛んでいく。しかもその半径内であれば何人でも関係なく幻術をかけることが出来る上に、ドラッグによるブーストをさらに追加することで術の範囲はさらに倍加する。

 アル・シャオクは敵に深刻な精神障害を起こす幻想を見せる技であり、それにかかったものは、大抵頭を抱えて動けなくなる。高坂悠馬の「血ノ池地獄」のように術そのものが致命打になることは無いが、動きさえ止めれば、後は普通に殺せばいいというものだった。

 さらにその広い術半径を使って、敵の気配を探ることも出来る索敵能力も備えていた。

 要するに広範な術の有効範囲を使って、足止めによる攻撃と、索敵による防御をバランスよく行える技、と言うことだった。

 ただ、これだけ優れた異能だけに、当然欠点もある。

 それこそこの術の本質でもあるのだが。このアル・シャオクの幻術は、相手の心の奥深くまで探ってそこにある恐怖や苦悩、その中でも特に後悔の念を掘り起こし、その感情を何倍にも倍増するというものである。

 相手の心の中の状況に寄る所が大きい、術の威力に個人差のある幻術なのだ。

 後悔が無い人間などいない。だが、その大小はある。普通にまじめに生きてきた人間にこの術を使っても、実際のところそれほど危険なことにはならない。

 だが、過去に大きな失敗をしてきた者。例えば人を殺したといった、取り返しのつかない行為をし、それに苦悩を抱えているような人間には、この幻術は極めて高い効果を発揮する。

 つまり、ということは当然ながら術者は相手に見せる幻想を選択できないし、相手が何を見ているのかも、相手の様子を見てしか分からない。

 そのような欠点があるとはいえ、異能使いはだいたい人の命に関係する失敗などを経験しており、この術があまり効かないという者はほとんどいない。

 むしろ兵吾も空厳も、クリーンヒットしたのである。


 ガブリエルは、この街の地理を熟知している。最短ルートを通り、敵に近づいていく。

 屋根の上を、猿のようにジャンプし、一直線に敵の気配の方へと走った。

 そしてついに、敵の影と遭遇する。





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