第12話 空隠れ









 イシュケダルの街は熱気に満ちあふれていた。


 だがその熱気は、異様な緊張に包まれた、鬼気迫るものだった。

 同じ戦地とはいえ、どこか安堵の空気があった占領後のアンテオンとは違う、危機感にあふれた修羅達の街。

 その街中を走る軍用車やトラックにはハダイ国軍の兵士や、ジハード戦線のテロリストが所狭しと乗りこみ。道にもそれらの戦士達がたむろし、歩いている。

 アンテオンから命からがら逃げ込んできた兵士達は殺気立っており、街の商店に入りこんでは商品の強奪などをしようとして諍いを起こし、喧嘩し、銃声すら鳴り響く始末だった。


 聖典や神の名を叫び、突撃銃を空に撃ちながら、町々を練り歩く黒づくめの武装集団。戦意高揚の為か、アラブ語の歌を爆音で鳴らしながら道を走っていく改造武装車両、いわゆるテクニカルなど。ある意味祭り騒ぎのような雰囲気が街中を霧のように覆っていた。

 誰もが、近いうちにこの街もアンテオンのように多国籍軍に攻め落とされると分かっているからこその、現実逃避だったのかもしれない。

 この街が落ちれば、後はもうハダイ側に残されためぼしい軍事拠点は無かった。



 そんな地獄の如き街に、特に目立ったものもない一人の男が歩いていた。薄汚れたマントを纏い、ゆったりと歩く男には誰も見向きもしない。まるで絵画の中のぼけた背景のように、それは存在感を失い、存在するが意識の外にあるものでしかなかった。

 この男こそ戸隠空厳だった。

 空厳の最も得意とする忍術は隠密。気配を消して敵陣深くへと侵入する術である。

 だからこそ空厳一人だけは先行部隊としていち早くハダイに派遣され、この国中を回って秘密裏に、文字通り誰にも怪しまれずに各地を偵察していた。

 クルムでアサシンの寺院を一人でほぼ掃討出来たのも、隠密術によって奇襲し、各個撃破したからである。スニークアタックでは力量の差はほとんど関係ない、戦闘と言うほどのものにもならずに一瞬でことが終わる。

 これこそが真にスマートな戦いだと空厳は理解していたし、だからこそ、その技術を極限まで追求していた。

 隠密術においてだけでいえば、空厳に優る忍者はN機関にはいないと言われる。それは要するに中華八仙を除けば世界最高ということであった。

 三日前にイシュケダルにも潜入していたが、アンテオン陥落後、また雰囲気も部隊配置も大きく異なっている。今朝から吹雪と共にこの街を捜索し、ようやく怪しいと思われる施設を発見したのだった。

 この施設の防備体制には、明らかにアサシンの呪術による防犯措置が仕掛けられていた。

 こんなものは空厳からしたらむしろここにアサシンがいますよと宣言しているようなものだったが、相手はそんなことアホなことをしているとは知らないらしい。

 吹雪は、真田からの命令で孤立した悠馬と合流するために車で行ってしまったが、なんら問題は無い。むしろやりやすいというものだった。

 夜未と悠馬がアサシンではなく魔法使いに攻撃されたという所は非常に不可解だったが。それが事故なのか、魔法機関が意図したことなのか、そしてその攻撃がアサシンと関係のある行動なのかということは余計に調べなければいけないことだった。

 この施設に夕霧と自衛隊員が匿われている可能性はある、いなかたっとしてもその人質達の居場所や、魔法使いの一件のことを知っているアサシンの残党はいるという判断だった。

 だからこそ、出来るだけ早く内部を調査しなければいけなかった。

 真田の命令では一応は吹雪と悠馬が帰ってくるまで待機しろということだった。しかし、そんなことは知ったことではない。待っている間に事態は動きかねない。だからこそ空厳は今動こうとした。

 ちょうど、目標の施設、元はハダイの政府の大臣の自宅であり、結構な豪邸であるこの建物に、一台の軍用車が入っていったことが、空厳の作戦決行を後押しした。

 車の出入りは、敵に何か動きがあるということだ。

 時間は午後19時。さらなる出入りの動きがある前に建物内の様子だけでも見なければいけない。


 空厳は特殊なベストをマントの内に着込んでいた。

 ベストには小型のビデオカメラが埋め込まれており、前後左右四方向を撮影できるようになっている。空厳が手で持たずとも勝手に撮ってくれるというだけの単純な、ハイテク装備とも、便利グッズとも言えない良く分からないものだ。

 空厳の力は隠密。敵の意識に干渉する幻術の理論の応用と、陰陽術の物質的な力も利用する、高度技術の集大成である多次元ステルス技能だった。

 まず幻術によって相手の意識から自分の存在を消し去る。そこに確かにいるのに、それを知覚しているのに、脳が認識しないという状況を作り出す。まさに空気となるのである。

 空気は目の前に存在し、あらゆる感覚で知覚することが出来るが、まるで存在しない物のように脳では認識している。幻術によって空厳自体がそのような空気的存在になってしまうということである。

 この時点で隠密術はほぼ完成している。常人にはまず見つかることはない。

 だが、そこからさらに隠密の完成度を上げるために、空厳は陰陽術を使う。

 科学的法則を半ば無視し、あらゆる自然物質に干渉し操作する、元素魔法、いわゆる火水土風といったエレメント魔法に似た力が陰陽術である。

 空厳のその力は大したことは無いが、光をゆがめ、ステルス迷彩のように透明に見せることや、風の操作で足音、熱、臭いを消したり。電波によりレーダーを無効化したりといった、幻術の利かない機械に対する対策も、この術により可能となる。

 幻術という精神的な意識だけの隠密で無く、無色無臭無熱無音透明の物理的に知覚できない存在になるということだ。

 これにより、空厳は人の意識に捉われることなく、監視カメラやその他あらゆるセンサー類にも引っかからずに、隠密行動をとることが出来る。


 だが、忍者としてはそれでもまだ足りない。

 異能者は幻術を見破り、僅かな気配を察知して侵入者を暴く力を持っている。

 その最もやっかいなものが、殺気をはじめとする気の流れを捉える力だった。

 相手を殺してやろう、隠れて覗いてやろうという気持ちは、気となって流れ出し。それが侵入者の存在をばらしてしまうことになる。これだけはどうあがいても意識して遮断することは出来ない。

 空厳に潜入してやろうという意識がある限り、その殺気は消すことが出来ない。低レベルなアサシンなどであれば殺気を感知する力は弱く、簡単に欺くことが出来るが、高位の異能者であればそんなことはない。もちろん熟練の異能者が、侵入者がいることを意識して集中していないと分からないレベルまで、殺気を押える術を空厳は体得していたが、それでも完璧とは言えなかった。

 完璧な隠密はあり得ない。それが長いこと忍者や他の異能者の中で言われてきた 定見だった。

 しかし、だからといって、諦めるような空厳ではない。

 無心。

 吹雪が、クルムでのアサシンとの戦闘で使った無心の力。それを彼なりに応用したのだ。

 無心状態では殺気はほとんど出ない、敵に注意されたとしても、気を察知されることは極めて困難になる。とはいえ無我の状態では臨機応変な複雑な行動をとることは困難だ。

 そこで空厳が考えたのは、であれば意識的な行動は諦めるということである。

 無心の状態である自分に幻術をかけ、暗示によって隠密術を使いながら、ある程度決められた、いわゆるプログラム行動のようなものをとって、完全な隠密状態での侵入をする、というものだった。

 これであれば無意識のまま、あらかじめ定められた範囲での行動が可能だった。

 要するに自分をロボットのように仮定し、暗示プログラム通りに幻術と陰陽術を使い、無心状態で敵の施設に進入し、決められた行動のまま発見されずに戻ってくるというものだ。

 これによってほぼ完璧な隠密術が完成したのだった。

 この術を、空厳は忍法「灰身滅我」と名付けた。

 だが、もちろんこの術には欠点も多くある。無心状態では空厳自体の意識や記憶能力もほとんど存在しないということだ。せっかく潜入しても何も情報を得られず、帰ってくるしか出来ない。

 その致命的欠陥を埋めるために、彼はカメラを埋め込んだベストを着用し、録画状態のまま潜入することにした。

 滑稽な方法ではあるが、映像や音声は出てきた後で確認すればいいということである。

 得られる情報は少なくなるが、これ以上の方法は無かった。


 マントを脱ぎ、戦闘服にカメラベストを付けた空厳は、豪邸の近くの路地裏まで来ていた。

 よし、やるか……。

 そう気合いを入れると、空厳は自分に暗示をかけだした。

 この術は、自ら編み出したとはいえ気持ちの良い術ではない。今から修羅場に突入するというのに何が起こるのか自分には分からない、手術の前の麻酔のようなものである。手術ならまだいい、やるのは他人だ。だが、この潜入をやるのは、他でもない無意識の自分自身なのだ。

 幻術と陰陽術の行使、そして行動パターン。とにかく裏口から侵入して、邸宅の奥、主要人物が集まっていると思われる部屋まで行く、そしてそこで会話を聞きつつ、五分ほどしたら外へと戻る。

 そう自分に暗示をかけていく。と、しだいに意識が薄れていく。

 やがて何もかも透明になった虚ろな男は、ゆっくりと動き出した。



 空厳の人生は、彼の忍法の性質通り、自身を殺していく人生だった。

 ただそれは彼だけのことではない。忍者とはそれ即ち、苦しい修業を経て、地獄の日々を越え、それこそ自分自身を殺すような変革を遂げた上でようやく至る境地のことだからだ。

 とはいえ、空厳は特に自分というものを、文字通り殺し続けてきた修行の日々だったとも言える。

 N機関の誰もが彼の本性を知らないし、彼自身も本当の自分というものを把握できていない。

 そんなことを言えば、どんな人であれ、その人の本性なんて誰にもわからないものだ、と思う者もいるかもしれない。ただ、空厳のそれはその範囲を超えていた。

 誰も彼が何を好み、どのような性格で、どのような思考をし、どのような行動をするのかをまったく知らない。

 いや、話していればそれとなく掴める雰囲気はあるのだが、それはしばらくたってから会うと全く違う雰囲気になっているのだ。顔も体も声も同じなのに、全く別の人格と話しているような気分になるのである。

 それほど得体のしれない男であった。

 彼は自分に定着してくるものを片っ端から捨てていく。断捨離と言うレベルではない。

 それが彼の修行方法だった。自分を極限まで削ぎ落していくことで、彼の無心の術は精度を高め、忍法灰身滅我はその鋭さを増していく。

 彼がそんな人生を望んでいるのかいないのかすら、もはや彼自身にも分からなかったが。少なくとも灰身滅我の修行に入る前の空厳は、そのようなことを望まない、夢を持った青年ではあった。


 戸隠空厳は忍びの家系に生まれ、例によって母親の胎内にいた時から術による肉体、精神改造を施されていた。

 やがて彼が少年となり、本格的な忍術修行を始めた時、まず彼が会得しようとしたのは幻術だった。空厳としては陰陽術を希望しており、そちらの才能の方があると自負していたのだが、家の命令は絶対だった。

 十五才までに、彼は幻術のあらゆる修行をこなし術を極め、その歳で既に実戦でも十分使えるほどの忍者としてほぼ完成していた。


 ある日、戸隠家の長老、祖父である戸隠久澄に呼ばれた。

 空厳は、そこでようやく自身独自の忍法の会得を指示されるものと予想していた。しかし、そうではなかった。

 祖父の隣には朱膳寺家の当主、朱膳寺兵道が鎮座している。そしてその横には兵道の息子、幼児と少年の間くらいの歳である兵吾が、子供らしくもなく静かに正座していたのを空厳は覚えている。

 そこで告げられたのは、なんと、これまで空厳の極めた幻術を捨てよということだった。

 意味が分からなかった。頭の中では反発しかなかったが、しかし絶対の存在である祖父の言うことに首を振るなど、まだ少年である空厳には出来なかった。

 そして、空厳は朱膳寺兵道によって血を抜かれ、その血と共に幻術の力の大半を失った。抜かれた分は普通の、いわゆる輸血用の血を入れられたがそれは忍者の血ではない。

 忍法「血脈伝法」によって空厳の力は血と共に抜かれ、その血は壺に仕舞われた。後に聞いた話によると、その血はさらに別の忍者の幻術能力向上に使われたそうだが、詳しいことは知らされなかったし、知ろうともしなかった。

 血脈伝法とはそのような都合のいい、非常に特殊な技であった。


 その後、今までの血のにじむ修業の成果の半ばを奪われ、虚ろな心の彼に対して次に指示されたのは、陰陽術の修業だった。

 空厳は失意の中ではあったが、しかしようやく自分の本当にやりたかったことに巡り合えたのだと再び奮起した。

 やはり陰陽術の素養もあった、好んで修行に打ち込めたという所も大きかった、そして何より再び一から術を学んでいくことは案外楽しかった。

 彼は再び地道な修行の年月を過ごし、十年が経った。

 空厳二十五歳。その頃はまだ陰陽術の修行は完成していなかったが、十分実戦に耐えるということで、実際の作戦にも参加していた。空厳は忍者としてもっとも成長し、若々しく、華やかな時期だった。

 このまま陰陽術を極めていく、これが自分の忍びの道なのだと、空厳はそう思っていた。

 そんな時に、彼はまた祖父、久澄に呼ばれたのだった。


 かねてより病床にふけっており、この時も布団に寝そべっていた祖父。そしてその横にいるのは、兵道より家督を受け継いだ若き朱膳寺兵吾だった。

 その時点で気付くべきだったが、人は自分の望まないことはあえて予測しないものである。

 血脈伝法により、再び血を抜かれるのだと聞かされた時、あまりに予想外のことに、空厳は驚きにしばらく声が発せられなかった。

 しかし、今度は前とは少し違う。陰陽術の力を血と共に抜かれるのは同じだが、代わりに空厳の中に入れられるのは、祖父の血だった。

 祖父の忍法は、隠密術。その術の集大成を空厳に流し込み受け継がせるというのである。

 それは一家の家督を継ぐと同じことであり、名誉なことだったが、空厳には全くもって青天の霹靂であった。

 自分は陰陽術こそが天分であり、一生をそれに費やしていくのだと思っていた矢先に、またしてもその道を閉ざされたのである。

 隠密術を継ぐなど考えたこともなかった彼は、しばらく凍りついたように、それでいて嫌な汗を体中に感じたが、ついに祖父の命令を拒むことはしなかった。

 幻術の時に次いで二度目の血脈伝法、それを行うのは兵吾。

 まだ十七の兵吾の顔は、若さに似合わず無慈悲で無表情だった。

 術が終わり、空厳が目を覚ました時、彼の体内には隠密術の力が流れ込んでおり。彼の陰陽術の力は壺に収まっていた。

 そして憎しみさえ感じた祖父は、血を抜かれ、ミイラのように干からびて死んでいた。

 もはや残された時間が少ないことを理解していた祖父は、死ぬことも織り込み済みだったのだ。

 そんなしわがれた爺の最後の言葉は、空厳の中に呪いのように残った。

 忍びの目指す真の隠密とは、己の全てを捨て去り、無になることである、と。

 だからこそ空厳は、幻術も陰陽術も捨てさせられて来たのだということだった。それが隠密術を極める為の修行の道だったらしい。

 さらに恐ろしいことに、それ以上に、術だけでなく、自身のありとあらゆるものを捨てよということを、この死にゆく老人はのたまった。

 だからその言葉通り、空厳は全てを捨てていった。

 名前も捨てた。

 空厳と言う名は、家督襲名の時に祖父から与えられたものだった、それだけが唯一彼が得た物だった。

 元々の名前は、今は誰も覚えていない、記録にも残っていない。


 青春も……情熱も、恋心も、あらゆるものを得たそばから彼は容赦なくそれらを断じていった。


 そうして出来たのが隠密術の達人である、戸隠空厳であった。












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