第11話 MI0
リチャード・M・ゴドフロアは1955年にこの世に生を受ける。ロンドンに生まれた彼は、魔法使いの父と母を持つサラブレット的な才能を持った、生来の魔法使いであった。
彼を知る誰もが、この子は将来強い魔法使いとなってこのイギリスの為に戦う戦士となるのだと多大な期待をかけていた。
だが、リチャードが十歳のころ、彼が大好きで尊敬していて、彼の世界の多くを占めていた父親が死んだ。
後で知ったことには父ヘンリーはソ連の異能使いとの戦闘で死んだということだった。冷戦という国家の摩擦は、実際にはジェームスボンドのようなスパイヒーローは産まなかった。
英雄の代わりに生まれたのは、地味な情報戦に、えげつない手段を取るスパイ活動に、裏切りの連鎖だった。
父ヘンリーはアクション映画ばりの戦闘で死んだのではない。MI0の記録では寝ている最中に一瞬で殺されたらしい。
そんな情報は知らなかった当時のリチャード少年も、そのようなことは薄々感づいていたのか。ヒーローだと思っていた父のあっけない死に裏切られた彼は、反発するべき父親もいないというのにいきすぎた反抗期に入り、魔法の修行もきっぱりとやめた。
母はそれに嘆いたが、彼はもはや魔法という言葉には幻滅しかいだかなかった。
父ヘンリーが生きてさえいれば、彼と父は喧嘩でもして、殴り合ってもいい、すぐに仲直りとはいかないとしてもそのうち時間の経過とともに二人は適当な落とし所を見つけて、リチャードはまっとうな道に戻れたのかもしれない。
しかしやり場のない怒りは、ぶつけるべき目標を見失い、結果周囲全てに対する反抗という形になる。彼は悪友と連れるようになり、少年がやるようなありとあらゆる悪事をリチャードは経験した。
そんなロンドンの不良少年もやがて大人になり、彼はイギリス陸軍に入った。
父の匂いが残る実家から早く離れたいという切実な思いと。勉強もほとんどしてこなかった彼を受け入れてくれるような場所は、軍隊しかなかったということが大きい。
が、彼は父とは違う、魔法に頼らずに自分の力だけで国の為の英雄になるのだという気概をどこかに持っていた。そして少年時代とは一転して真面目に軍務に励んだリチャードはやがてその力を見出され、イギリス最高の特殊部隊SASへと入隊することになった。
だが、ヒーローになりたいという理由で軍人になるような人間は、ほぼ必ずと言っていいほど現実とのギャップに挫折しかかる。
北アイルランド紛争、フォークランド紛争、湾岸戦争、と戦地を遍歴した彼は、激戦を潜り抜けていったが、戦争を経るごとに彼の仲間は戦死していった。
特に湾岸戦争では運悪く作戦中にイラク兵に包囲され、部隊のほとんどが殺され、ほぼ全滅しかかった。
その中を、半ば仲間を見捨てて、見殺しにして逃げ帰った彼は、上官の叱責の代わりに賞賛と勲章を得た。彼の部隊の悲劇は、戦地で戦う涙ぐましい兵士として本国でも報道され、所謂プロパガンダとして利用された。リチャードからすれば、全く意味のわからない待遇だった。
激戦を潜り抜け、戦友の死を乗り越える悲運の英雄リチャード・ゴドフロア、というタイムズ紙の大々的な見出し。さらに魔法使いという部分は隠されつつも、第二次大戦で活躍した彼の父親ヘンリーのこともその記事には添えられていた。
英国陸軍の模範の兵士として、彼は世に知らされ。
そして彼は二度目の失望を覚えた。
自分が望んだ英雄に、誰もが褒め称え尊敬する国家のヒーローに自分はなれたのであったが、それは思っていた物とは違った。あまりにも空虚で、なんの満足感も幸福も喜びも、彼は享受することはなかった。
自分は敵を殺したが、それと同じだけ仲間を殺され、そして作戦も何も遂行できなかったのに、それが英雄だと皆が笑顔で言う。
戦場を知らない者達が、知ったような顔で新聞に乗る嘘八百をまるで真実のように語る。同情したように肩を叩く。
彼が思ったのは、戦争にヒーローなんていないということだけだ。
ヒーローはいない、だがそれでも誰かが戦い続けなければいけない。汚く、無様に、汚泥の中を這うみすぼらしい兵士達。
そこでリチャードはようやく父の姿に回帰したのであった。父は決して英雄になれなかった無能な戦士ではなかったのだと。父の戦い方こそが本当の戦争のやり方であり、その苦しみを父は知っていたのだと。
父の死後二十年以上たってようやく気付いたことがそれだった。
そしてなにより、リチャードは戦場での自分の無力さを痛感していた。どれほど訓練し、最高のチームと最高の装備と最高の支援を得たとしても仲間は死んでいき、作戦は失敗する。それが兵士の限界だった。
だからこそ、彼は魔法の世界に戻ったのだった。
SASのベテラン、しかも魔法の基礎だけはそれなりに出来ていた彼を、もはや弱体化しきったMI0、またの名を王立魔法機関、が受け入れないはずがなかった。
その時点で三十代半ば、魔法使いの修行としては遅すぎる年代だったが、彼はその恵まれた才能と、子供のころに親に叩き込まれた基礎のおかげで、なんとか実用レベルの魔法を覚えることが出来た。
あらためて魔法を覚える中で、彼が戦場で時たま感じた、不思議な感覚や出来事は全て魔法の力だったのだと気付く。父母の力は彼の血液の隅にまで流れ、それは彼を守っていた。特殊部隊員としての戦い方と、魔法戦士としての戦い方は実によく馴染んだ。
MI0の工作員として働きながらSASの作戦にも参加する彼は、最高の戦士と賞賛されていくことになった。
アフガン、イラク、シリアとさらなる戦歴を積んだリチャードは、ついにこのハダイに派遣されたのだった。
六十を越えた彼は、恐らくこれが最後の戦場だろうと思った。作戦が終わればロンドンに戻り、後輩の育成にでも従事するだけの余生を暮らせられればいいと思った。
だが、この作戦の本当の意味は。今までの彼の戦いとは大きく違った性質のものだった。
その内容は、疑問さえ持つ類いのものだったが、しかし上が決めたことに私情をはさむような軍人ではなかった。
「アレニエ、目標の車は崖に落ちて炎上した……」
『ハッハー、やったなご老人。まあ、相手はニンジャーだから警戒しろよ』
リチャードは箒を片手に荒野に膝立ちになって、前方で煙と炎を上げている忍者の車の様子を見ていた。
「女はどうした、遺体は回収しておけ」
『わかってる、今確認する。あ~~……しっかし結構可愛い子だったなぁ、切り裂いた瞬間俺もいっちまった、まだ勃起が止まらねえ。まあ、あんたの誘導のおかげでばっちりやれたよ』
無線で通信する相手は、フィリップ・アレニエ曹長。フランス陸軍の兵士という肩書だが本来はフランスが誇る歴史ある異能機関、テンプルナイツの騎士だった。
今回の共同作戦において、フランス陸軍から最新の戦闘ヘリ、ティーガーを貸りたのも彼らだった。そのティーガーも、操縦手と共に鉄くずになり果てたが。
ヘリに乗っていたリチャードの前席に座っていたのは、MI0の構成員でありながらSASでも最高の戦闘ヘリ乗りであり、リチャードの大切な戦友でもあった男だったが、それも先ほど目の前で刀に貫かれ、血を吹いて死んだ。
良い男だった、リチャードの弟子だった。魔力は小さく才能は無かったが、なによりも正義感と情熱と努力でそれを補っていた。まるで昔の自分を見ているようだった。
また仲間が死んでいくという悲しみにリチャードはのみ込まれそうになったが、それを瞬時に耐える力を、老魔法使いは知っていた。
「……変なことはするなよ、アレニエ」
一方今の戦友、アレニエは、カトリックの敬虔な信徒団体であるはずのテンプル騎士団員としてはいささか下品な感じのする男だったが、それはどうしようもない。
『変なことってなんだ?この子のあれをあれしてってあれかぁ?』
「小僧、やってみろ、異能審問にかけてやる」
さすがのリチャードも、苛立ちを押え切れずにヘッドセットにそう吐き捨てる。
『冗談だよ……審問員さまは俺もおっかねぇや』
リチャードは通信を切った。
フォード・エクスプローラーは未だに燃えている。だが、中にいるのは忍者だ。先ほどのヘリでの戦闘では正直なところ驚愕しかなかった。
アサルトライフルでのミサイルの撃墜、刀を使って機関砲を防ぐなど、魔法使いのリチャードにも信じがたい行動を敵はやってきた。その女は先ほどアレニエの罠で切り刻まれたが、今この車の中にいる男が本当に死んだのかどうかは分からない。
というよりもむしろ死んでもらっては困る事情があった。忍者の女の方はともかく、もう一人の男は生きて捉えろという命令だったからだ。
忍者を生け取りなど、よくそんな無理難題を要求してくると思うが、仕方がない。
とにかく、リチャードは彼の作り出した魔法生物、黒い狼を操作する。
リチャードの魔力によって生み出されたこのブラックウルフは、自動で判断して動く自律操作と、リチャードによってラジコンのように直接操作する形が選べる。
直接操作時には搭載カメラのように狼の視覚や、その他の感覚を共有することが出来る。偵察にもってこいの魔法だった。
さらに狼の牙は敵の体内に猛毒を送り込み、一瞬で殺害することが可能であり、しかもその毒は魔法で出来ているので科学的には検出できない、当然狼自身も異能を持った者以外知覚することは出来ない、そんな極めて使い勝手の良い暗殺者兼猟犬だ。
その狼を再び操作して、車の方に向かわせる。
狼の見る、犬特有の彩度の低い世界、そして嗅覚という人間には無い情報がついてくる。
燃えるガソリンと鉄の匂いに混じって、血の匂いがする。そちらに視線をやると、ひっくり返った左側の座席、そのドアが開いて中に血まみれの男が見えた。
ひしゃげた車体に、不自然な態勢で仰向けになる男、いや、少年と言ってもいいほどの若者だった。その流れる血は地面に大きな血だまりを作っている。獣の嗅覚には猛烈なまでに醸し出される血の匂い。
これは……。リチャードは唾を飲み込む。しかしまだだ、まだ安心できない。
狼の感覚は魔法によって一時的に強化することが可能だった。その力により、聴覚を極限まで高める。狼の耳が忍者の方に向き、その鼓動を確かめようとした。
「……聞こえない?」
魔法の狼は、もはや二メートルほどの距離にまで接近していたが、忍者の胸からは鼓動が聞こえなかった。
極め付けに、もはや超感覚とでも言えるほどの感覚強化である熱感知を行う。サーモグラフィーのように熱を感知するその力によってしても、少年の全身から血が抜け、体が急速に冷たくなりつつあることが分かった。
これはもう間違いが無い、この少年は死んでいるか、もしくは死につつある。
「いかん!」
リチャードは立ちあがり、五十メートル先の車の方に駆けていく。と同時に狼を使って忍者を車から引っ張り出そうとする。さらに簡単な蘇生魔法であれば、狼を通してパスを繋げば遠隔地でも可能だった。AEDのような電気ショックを与えれば、心拍は回復するかもしれない、それをやらなければいけない。
男を殺してはいけない、それが最優先の作戦だ。
狼は走って少年に近寄り、その顎で服を掴んで燃え盛る車から引き出そうとした。
その時、僅か二メートルを行くなかで、忍者の下にある血だまりが消え、さらに心拍が再開していたことに、リチャードは気がつかなかった。
顎をぐっと開けた狼の喉元に、忍者の、高坂悠馬の手が瞬時に伸び、強く掴む。
その時点で決着はほぼ付いていた。
蘇生魔法の行使の為にパスを拡張したことも裏目に出た。
狼を通して悠馬の腕からパスを直結されたリチャードは、急に目の前が赤くフィルターがかかったような感覚にとらわれ、ものすごい頭痛と吐き気に走りを止め、膝をつき、地面に倒れた。全身が燃えるように熱い、体内の全ての血管が破裂しそうなほど膨れ、中の血液が沸騰し、激痛が走るのが分かる。
「ぐああああああああああああああああああ!!!あああああああああ!!ああ!」
砂地の上を悶えるが、もはやどうしようもなかった。完全に術中に入っていた。
やがて体内出血はの血は全身の皮膚からも溢れだし、血の汗となってリチャードを覆い尽くした。
「あああああああああああ!!!」
老練な魔法使い、最盛期をとうに過ぎた特殊部隊員とはいえ、勇壮な戦士が、なすすべもなく無残に死んでいく。
「ああ……あ……あ……」
美しい白いひげと白髪が、血に染まり、やがて汚い深紅に変わっていく。
もはや何も映さない瞳からは赤い涙。
最後に彼を支配したのは痛みだけであり。死んでいった戦友のことも、孝行のできなかった母のことも、そして、なによりも尊敬していた父のことも、思いだされることは無かった。
かすかに思ったのは、こんな日がくると分かっていたから、自分は結婚をしなかったし、子供を作らなかったのだという自嘲だけだった。
俺は、親父にはなれなかったし、親父とは違う。
「……」
マントを着た魔法使いは、今は砂漠の砂屑となって横たわるのみ。
敵の死と共に、悠馬の手に握られた狼の首は、その実体の消滅と共に霧のように消えていく。
それを確認すると、悠馬は大きく安堵のため息をつきつつ、車体から転がり出て砂地に寝そべった。
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
忍術の全力行使に、完全に息が切れる。何よりきついのは、一度抜いた血を、また体内に戻したことだったが。
魔法使いは……やったか。
青空を見上げながら、そう思うしかなかった。
「はぁ……はぁ……」
なんとか息を整えて、地面を這いつつ、いつ爆発するかわからない車から遠ざかる。
夜未の仇を討ったとか、高位異能者を倒したという感慨は無かった。とにかく疲れたという気持ちがほとんどで、その合間に薄気味悪く感じられたのは人を殺したという感覚だった。
一人の人格を、今悠馬の忍法「血ノ池地獄」で無き者にしたのだ。
「血脈伝法」よりも単純な忍術、血を操るという力を活かした攻撃だった。
まず、悠馬は敵の油断を誘う必要があった。そのために車を事故のように大破させた。
そのうえで、先ほどの銃撃戦で弾が掠った傷口から血を噴出させ、大怪我を演出し、血だまりを作り、さらに念を入れて血液を心臓と脳にだけ、最低限意識を保てる量だけ残したのだった。
血液の圧力で内部から心臓を圧迫し、脈拍を力技で止める。
それによって脳が逝ってしまわないように忍術によって脳味噌の中だけ血液を循環させ、なんとか意識を繋ぎ、その一方で血の抜けた体温は下がっていく。
これにより、視覚、嗅覚、聴覚、熱というあらゆる感覚から見ても分からない偽装を施したのであった。
体外に流した血は、覆水盆に返らずとは違う。血液操作によってすぐさま体内に戻り、悠馬の体は機能を取り戻す。
案の定悠馬が死んだと思って油断して近づいた狼を掴み、血ノ池地獄を流しこみ、魔法使いの全身の血液を沸騰させ、噴出させ、殺したということだった。
悠馬はなんとか立ちあがると、フラフラとしながらも砂漠を踏みしめ、歩いて行く。
「はぁ……はぁ……」
彼が人を殺したことは無かった。練習の為に豚を使って血液を操作する訓練を受けたことはあったが、人に対して使うことは無かった。
血ノ池地獄の術者側の感覚としては自分の素手で、敵の器官や、脳味噌や心臓を握り潰すような生々しい感触だ。
それを、自分はついにやってしまった。
「……」
体力が回復し、傷も術によって既にふさがっている。
火がおさまりつつある車と、その向こうの砂漠には、地面に転がるマントがはためいていた。
あれが魔法使いだろう。だが、確認しようとは思わなかった。完全に死んだというのも、術者には感覚で分かる。
その向こうには、ここからは見えないが夜未の亡きがらがあるはずだった。
悠馬はアレニエの存在は知らない。だが戻ってはいけないという意識はあった。それも夜未の暗示から出てくる判断だ。
悠馬はこれまでどおりの進路に、イシュケダルの方向に向かって歩き出した。
ただ無言で、頭の中もあまり考えないようにした。
考えれば、立ち止まってその場に崩れ落ちてしまうと思った。
だから、砂を踏みしめる足はやがて力を取り戻し、小走りになり、ストライドを作り、軽快に駆けていった。
その日の夜、山を越えた悠馬は、そこでようやく迎えに来た吹雪の車と合流することが出来た。
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