鏡国物語
こだまねこ
第1話 いつもの朝
美湖は、いつものようにベッドで目覚めた。
ゆっくり起き上がり、半開きの眼のまま、サッシの前までゆらゆらと歩いた。カーテンに触れると、ほんのり温かい。隙間から漏れる光は、昨日の朝見たそれより少し眩しい。
――今日はいい天気だわ
心の中でそう呟いて、それを確かめるように、さっとカーテンを開けた。
部屋にぱっと陽の光が差し込む。その眩しさに美湖は思わず目を瞑った。
四畳半の美湖の部屋。その大部分をベッドが占める。続いて勉強机、鏡台、本棚、それに小さなクローゼットを置けば、もう満杯である。しかし窮屈には感じない。むしろ、それだけの家具で埋もれているのに、殺風景にさえ見える。
淡いオレンジ色のカーテンと、クリーム色の家具が陽の光に照らされて、部屋をより一層明るくする。その色だけで十分なのだ。余計なインテリアはいらない。
美湖はそっと目を開けると部屋を見渡した。部屋の中が温かい色に包まれている様子に満足すると、同時に目を覚ましていた兄に声をかけた。
「兄さん、おはよう」
少し間を置いて兄が囁く。
「おはよう美湖、調子はどう?」
「とてもいいわ」
そう言ってくすりと笑うと、美湖は部屋を出た。
2DKの小さなアパートである。部屋のドアを開けるとその先はダイニングキッチンだ。
「お母さん、おはよう」
せかせかと忙しくして、仕事へ行く準備をしている母に声をかけた。
「おはよう。今日は早出なの。ごめんね、先に出るわね」
「うん、いってらっしゃい」
「お弁当忘れないでね」
「わかった」
バタバタと出かけていく母を、玄関まで見送った。朝の母親との会話は、いつもこの程度だ。さて――と、美湖はキッチンに立ち、味噌汁の入った鍋に火をつけた。おかずは弁当の残りである。空っぽの茶碗にご飯をよそい、温まった味噌汁をお椀に注いでテーブルについた。
「いただきます」
美湖が朝食を前に手を合わせると、同時に兄も「いただきます」と言った。
「毎朝ここで弁当の中身がネタバレだから、楽しみも半減だね」
「そう? でもどんな風に盛り付けてあるかは分からないわ」
「盛り付けなんてどうだっていいさ。俺にとって重要なのは内容だよ」
そんな兄に、呆れたと言わんばかりに、美湖は溜息をついた。
「ねえ、お母さんは忙しいんだから、お弁当は自分で作った方がいいと思うの。出来たら朝食も」
「冗談じゃない、俺はそんなこと出来ないよ」
「ちょっと――」
「絶対やめろよな。お前が早起きすれば、俺だって否応にも目が覚める」
美湖はぷっと頬を膨らませた。
「今までそうやって兄さんに止められてきたけど、私やるからね」
「美湖!」
「だからお願い、夜は早く寝てほしいの。そうねせめて十一時までには」
「はあ? 嘘だろおい、勘弁してくれよ……」
兄はふて腐れた。
「じゃあこれからはプライベートタイムよ。話しかけないでね」
「はいはい」
食べ終わった茶碗を流しまで運び、水を張ってあるたらいの中に入れる。一組の茶碗がゆっくりと底に沈んだ。
学校へ行く支度を済ませたら、美湖は最後に必ず鏡台の前に立つ。この鏡台は小学六年生の時、誕生日に無理を言って買ってもらったものだ。リサイクルショップで買った安物だが、十分だった。どうしても自分だけの鏡台が欲しかったのだ。大人の女性になれる気がしたからだ。
黒髪のボブに赤いカチューシャが、美湖のトレードマークだ。それは幼い頃から変わっていない。もったりとした厚めの前髪に隠れそうな目で、鏡に映る同じ目を見る。
――いつ見ても冴えないな。
憧れの大人の女性にはほど遠い。自分の姿が、なんとなく幼稚に見えるのだ。
来年には高校を卒業するが、その時もまだこんな幼い姿をしているのだろうか。
「髪型……変えようかな」
前髪を触りながら呟く。
「そのままでいいよ。美湖は俺に似て綺麗だよ」
ふいに兄が囁いて、美湖は赤面した。
「や、やめてよ! 覗かないでったら、変態! ホント、ナルシストなんだから!」
「慰めただけだろ? そりゃないぜ」
美湖は慌てて鏡台を閉じて、家を飛び出した。
――バカ兄貴! 女の子の気持ち全然わかってない!
美湖は地面を強く踏みつけながら歩いた。蒸気した顔は、まだ治まっていない。
――兄さんの顔見たことないのに、似ているかどうかなんて分からないじゃない……
私たちは双子の兄妹。
でも兄さんはこの世のどこにもいない。
私の頭の中にいる。
いつもの停留所にいつものバスが停まる。今日もきっといつもと同じ一日。
バスの窓に映った自分の顔の輪郭を指でなぞってみる。
――兄さんに会ってみたい。
美湖はきゅっと唇を噛んだ。
「センチメンタルなところ悪いけど、美湖、俺たち弁当忘れたぞ」
空気を読まない兄の声に、美湖はがっくりと肩を落とした。
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