六月第三週 火曜日 夕方

 気が付けば、夕方になっていた。

 わけもわからず走り続けたのだろう。体は鉛のように重く、汗が引いて体が冷たくなっている。

 部室から逃げ出した時に抱えていた激情が、冷めているのもわかった。

 あれ以降の記憶が、うまく思い出せない。

 俺は大の字で芝生に寝転んでいた。視界の端に学食が見える。

 俺は使ったことはないが、天気のいい日にここで昼食をとる学生を見たことがある。今は放課後なのか、俺以外の人は見当たらない。

 今何時かも分からない。気にならない。気にする余裕もない。

 学食のそばにいる所為か、唐突に夏輝たちと昼食を取っていた事を思い出した。

 俺は今苦々しい顔をしているだろう。もうあの頃には戻れない。

 あそこから逃げ出してしまった俺には、戻る資格なんてない……。

 放心したように、俺は朱に染まった空を見上げ続けた。

 何でこんなことになったんだ? どうしてこんなことになってしまった?

 俺が緑さんのことを好きにならなければ、こんなことにはならなかったのか?

 緑さんが藤井先輩のことを好きになっていなければ、こんなことにはならなかったのか?

 そんなことばかり考えている。しても仕方がない負の思考の渦に飲み込まれそうなところで、俺のスマホが着信を知らせる電子音を発した。

 ……誰だ?

 電話の相手は、渡部さんだった。

「もしもし」

『……嘘つき』

 渡部さんのその言葉に、俺が今まで自分の想いに目を背けていたことを非難されているように感じて、心臓が口から飛び出しそうになる。

『……講義中には帰るって言ったのに』

「……ごめんごめん。悪かった。ちょっと立て込んでてね」

 渡部さんは事情を知らないはずだ。とにかくこの場は無難に切り抜けよう。

 今は誰かと話すのも億劫だ。なのに――

『……何かあったの?』

 何で、そんな事情を聞くような真似するんだよ!

「うるせぇな! お前には関係ないだろっ!」

 俺の激情が冷めているなんて、嘘だった。ただ鬱々と吐き出す場所を探していただけだったんだ。

 それに気が付き、俺は部室にいたときのように自己嫌悪で何もできなくなる。

 渡部さんに謝ろうとしたが、謝罪の一言をひねり出すこともできなかった。最低すぎる。

「……怒鳴らないで。少し、怖い」

 スマホからではなく、渡部さんの肉声が直接俺の鼓膜を震わせた。俺は急いで体を起こし、渡部さんの姿を探す。いた!

 丁度夕日を背に、渡部さんはゆっくりと俺のほうに向かって歩を進める。

 夕日が眩しくて渡部さんが今どんな表情をしているのか、俺は見ることができない。

 思わず視線を落とした。落としたことで気づいてしまった。渡部さんは、俺の荷物も一緒に抱えていたことに。

 はっとして落とした視線をまた上げ直す。眩しくて、相変わらず渡部さんの表情は見えない。

 それでも、きっと辛そうにしているはずだ。

 俺の荷物にはノートPCが含まれている。渡部さんは自分のものと合わせて、今ノートPCを二台持ってここまで来てくれたことになる。講義が終わる度に、教室が変わるたびに運び続けてくれたのだろう。

 渡部さんの細腕には重労働だったはずだ。男でもノートPCを二台持って歩くのは辛いのに。俺の荷物なんて、置いていってもよかったのだ。

 なのに、この人は……。

「……何があったのか、教えて」

 そんな最低な俺を前にして、渡部さんはまた、声をかけてくれた。

 聞いてくれるのか? 理不尽に怒鳴った俺に対して、まだ何があったかと聞いてくれるのか?

 それでも俺は、一歩踏み出せない。

「あまり、詳しくは話せない……」

 ……バカか俺は! この期に及んで、自分の痴態を曝すのが怖いのか! カッコつけてどうするっていうんだ! この人に、この人にこそ全て話さなくてどうするっ!

 俺が葛藤している間に、渡部さんは俺のすぐそばまで来ていた。俺は渡部さんを見上げた。この距離なら、渡部さんの表情がわかる。辛そうになんてしていなかった。

 その表情は少しだけ、寂しそうだった。

「……それでも、いい」

「渡部さん……」

 ……なるほど。俺は人を見る目がなさ過ぎなようだ。

 何がコミュロスだ!

 断っていたのは、諦めていたのは俺の方じゃないかっ!

 話そう。渡部さんの誠意に、優しさに答えよう。

 そう思うのと同時に、俺は部室での一幕を思い出した。

 藤井先輩は福良先輩以外の人とラブホにいた。弁解はしていたが、藤井先輩が浮気をしていたのは確実だ。そして傷ついた福良先輩は怒り狂い、緑さんにつかみかかった。それを仲間だと思っていた『エル』のほとんどのメンバーは遠巻きに見ているだけだった。そもそも、緑さんがその浮気相手かもしれない。

 今まで信じていたものがあっさり崩れ去る絶望感。それを、ついさっき味わった俺はどうしてもこう考えてしまう。

 ひょっとしたら、渡部さんのこの優しさは嘘なのかもしれない。

 俺の勘違いかもしれない。

 だから、怖い。臆病で、傷つくことを恐れて、どうしても安全圏から出たくないっ!

 あまりにも女々しすぎる、惰弱で軟弱な思想。この人を信じて、また裏切られるかもしれない!

 でも!

 でもここで話さないと、俺は本当に最低の人間のままだ。部室から逃げ出した、屑のままだ!

 それはきっと、引きこもっていたあの時と、いや、それ以上に今の俺は死んでいるに違いないっ!

 だから俺は、部室での一幕を、『エル』で過ごした日々を、包み隠さず渡部さんに話した。

 うまく話せたかどうかは、わからない。とにかく思っていたことをすべてぶつけた。ぶちまけた。

 フットサルサークルに入るために『エル』の説明会に出て、そこで仲間と思える人たちと出会ったこと。

 ゴールデンウィークの合宿が楽しくて、そこで恋に落ちたこと。そして失恋したこと。

 その人が今、先輩の浮気騒動に巻き込まれていること。

 俺の、俺たちの『Noisy myna』が騒動の引き金になっているということ。

 俺はその人を守りたいと思っていること。でも裏切られているかもしれないこと。

 本当に浮気しているかもしれないこと。でもその人を信じたいこと。

 すごく、すごく大切だと、今でも思っていること。

 だからこそ、迷っていること。

 この気持ちを、どうしたらいいのかわからない。

 俺は一体どうしたいのか、何がしたいのか、わからないっ!

 あまりにも稚拙で、無様で、要領を得なくて、それでも全てを聞いたうえで、渡部さんはこう言った。

「……あなたは、まだその人のことを信じているのね」

「何で、そんな……。すぐに、断言できるんだ?」

 確かに信じたいとは言った。大切に思っているとも言った。

 でも、俺は俺自身の気持ちに、『信じている』と断言できるほど、自分の中に確固たるものはない。

「……だって、あなた言ったじゃない」

 俺を見つめる渡部さんの両眼は、メガネのレンズ越しに俺の心を、俺すら知らない心の奥底を覗いているようだった。

「……裏切られた『かもしれない』って」

 その言葉に、その双眸に、俺の心は貫かれた。

「……裏切られた、じゃない。『かもしれない』って。それって、あなたの中に、まだその人のことを信じているって気持ちがあるからでしょ?」

「それは……」

 その通りだ。

「……裏切られたと、認め切れないんでしょ?」

「それは……!」

 その通り過ぎるっ!

 でも、だったらどうしろって言うんだ!

「……あなたのしたいように、すればいい」

 俺の心の中の葛藤を突き刺すように、渡部さんは告げた。

 それはいつだったか、俺が渡部さんに言った言葉だった。

 渡部さんは抱えていた俺のノートPCを開いて、俺に向かって差し出した。

「……プログラムは、人が創った通りにしか動けない。意図してない動作をしたら、それは意図しない動作をするように創ってしまった私たちのせい。だから、私たちが産んだあの子も、『Noisy myna』も私たちが創った通りにしか、動かない」

 急にアプリの話になり、俺は渡部さんが何を言いたいのか理解できない。

「……疑って」

 渡部さんが差し出した俺のノートPCに映っているのは、俺と渡部さんが創り出した、産み出した、Tw○tterのクライアントアプリの開発画面。

「……事の発端がこの子なら、その解決策も、きっとこの子の中にあるはず。だから、疑って。疑って疑って、疑い抜いて。あなたが信じた人を、あなたがこのまま信じてもいいのか。そうやって疑い抜いた先に、あなたの求めている答えがあるはず。多分」

 全てを断ち切るように疑い抜いて、それでも残ったものを信じるというのは、それはなんだか渡部さんの生き方を表しているようで。

 やっぱり渡部さんはコミュロスなんだと、俺はそう思った。

「渡部さん……」

「……だから、早く来て」

 俺を誘うようなその言葉に、自分の鼓動が高鳴っているのが、顔が赤くなっているのがわかる。

 それに気づいたのか、渡部さんは冗談めかした風に、こう続ける。

「……そろそろ、腕が限界なの」

 ……それは、逆効果だよ渡部さん。

 渡部さんの不意打ちに胸を押さえながら、俺は何でここにいるのか、この大学に来たのか、『エル』に入ったのかを思い出していた。

 言うまでもなく、女の子に告白されるためだ。

 何故なら、もう二次元には逃げ込めない。三次元で俺はどうにか生きていくしかない。そう覚悟したから、前に進もうと思ったから、大学デビューみたいな真似事をしようとした。

 サークルに入った。そして恋をして、傷ついた。だから。

 だから、また覚悟しろ! 許容しろっ!

 二次元から決別したときのように、受け入れろっ!

 傷つけられても。裏切られても。それでいいとっ!

 渡部さんに言われるまでもなく、部室から逃げ出すときに既に俺は気づいていたじゃないか。

 俺の想いは理不尽で、不条理で、身勝手で、誰かを傷つけてしまうかもしれないんだって!

 自分の想いをぶつけることしかできないんだってっ!

 俺の想いが誰かを傷つけてしまうのに、自分が傷つくのを恐れるのは間違っている。

 傷つけてしまうような方法でしか誰かとつながれないなら、俺自身が傷つくことを、覚悟しろ!

 だから俺は、これでいい。

 身勝手な想いをぶつければいい。ぶちまければいい。

 胸張って傷つけられて、傷ついて、その上で求めた自分の想いを抱けばいい。

 さぁ疑え! 俺が緑さんを信じたいという想いのために。

 さぁ信ろ! 裏切られていたとしても、俺の緑さんを信じたい想いに殉じよう。

 なに。どうせ失恋しているんだ。これから心にいくつ傷が付こうが、大して変わりはないんだから。

 ……さて、進むべき道は決まった。俺は這ってでも進むべき道を決めた。

 だから、進もう。

 だけどその前に、俺は渡部さんに言わなければならないことがある。

「渡部さん」

「……何?」

「さっきは急に怒鳴って、ごめんなさい」

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