六月第三週 火曜日 二限目
俺は、緑さんから薦めてもらった講義を受けるために、教室に来ていた。
「おはようさん」
「……おはよう」
渡部さんに挨拶をして、この講義のほぼ指定席となっている一番左側の席に座る。
大学に入学してから約三ヶ月近く。渡部さんに挨拶し続けてようやく返事をもらえるようになっていた。
……っていうか、一緒にアプリ開発してるしFPSもしてるんだから挨拶ぐらいしてよ! 悲しいわ!
俺は板書用にノートPCを取り出し、電源を入れ、アダプターをコンセントに挿す。OSが立ち上がってくる間にLANケーブルもPCに挿した。
Wind○wsが立ち上がり、板書をするためのエディタを立ち上げたところで、スマホに着信。
……相手は、緑さん?
「はい。もしも、」
『もしもし! 和春くん?』
電話に出ると、かぶせ気味に緑さんの悲鳴が聞こえる。
「どうしたの? 緑さん」
『あのね、あのね!』
緑さんの声が震えている。泣いているのか?
『和春くん! 今私、』
『おい! お前何電話してんだよ!』
『きゃっ!』
『これは流石にやばいんじゃないかな?』
どうにか話し始めた緑さんをさえぎり、誰かの怒鳴り声が聞こえる。
……これは、福良先輩か?
その後緑さんの悲鳴と、机に何かがぶつかった音が聞こえた。北斗さんがなだめるように緑さんと福良先輩の間に入っていったようだが、突然のことに何が起きているのかわからない。
「もしもし! 緑さん? 今どこいにいるの?」
『今部室に、』
『まだ電話してんのかよ!』
とりあえず、問題が起きている場所が部室というのはわかった。
『おい、ちょっと落ち着けよ』
『落ち着け? お前もふざけんなよ浮気野郎!』
藤井先輩の福良先輩をなだめる声が聞こえるが、逆効果だったようで福良先輩はさらにヒートアップした。
……でも、浮気野郎ってなんだ?
『今部室にいて、お願い! すぐ来て!』
そこで、電話が切れた。
スマホの画面を見れば、当たり前だが通話が終了したというメッセージが表示されている。
俺は部室に向かおうと立ち上がった。
「……授業、始まるよ」
授業開始前に立ち上がった俺を見上げて、渡部さんは言った。
PCの時計を見れば、授業開始まで後五分といったところだった。今部室に行けば確実に授業開始には間に合わない。
確かに、俺は緑さんに来てくれと言われたが、そもそも、ここで俺が行く必要は果たして本当にあるのだろうか?
何が原因かわからないが、福良先輩はご乱心で部室に行けば確実に面倒なことに巻き込まれる。部室には既にサークルのまとめ役の藤井先輩と北斗さんがいて、俺が行ったとしても何の役にも立たないだろう。
そもそも、俺は何のために部室に行こうとしているんだ? 緑さんのピンチに駆けつけて、何をしようというのだ? あたかもマンガやゲームに出てくる主人公に、ヒーローみたいになろうとでもしているのだろうか?
無理だろ。俺じゃ。
それでも――
「……行くの?」
「ああ」
主人公じゃなくても、脇役ぐらいの、ヒーローが駆けつけるまでのつなぎぐらいなら出来るんじゃないかと思ってしまっている自分を、止める事ができない。
「サークルで、ちょっとまずい事になってるっぽくてね。ここで何とかしとかないと後々サークルに居辛くなるかも知れないから」
そうだ。ここでぐちゃぐちゃになってしまっては今までの大学生活が、今までサークルで過ごしてきた日々が嘘になってしまう。
入学してから『エル』のメンバーに出会って。合宿でもっと仲良くなって。今まで楽しくやって来れたじゃないか!
それが、こんなところでつまづいてたまるか!
「だから、行ってくるよ」
俺が解決できなかったとしても、きっと『エル』の皆と一緒ならどうにかできる。合宿のときに感じた、あの言葉に出来ない無敵感があれば、どんな困難だろうと皆でなら乗り切れる。
大丈夫。だから部室に行こう。さらっと行って、罵声を浴びせられるかもしれないけど、それでも無事解決して、それでいつも通り、元通りだ。
「……そういうの、避けると思ってたのに」
「意外か?」
「……うん。いつも偵察兵ばっかり使ってるから」
「たまには突撃兵を選ぶときもあるさ」
「……見たことない」
そう言って渡部さんは、ほんの少し笑った。見間違えかもしれないけど。
「じゃあ、その、悪いんだけど、板書取っといてもらえるかな? 講義の終わりのには間に合うはずだから、始めのほうだけ」
「……わかった」
「ありがとう」
渡部さんにお礼を告げたタイミングで、講師が教室に入ってくる。俺は講師とは入れ違いに教室から出た。横目で見た講師は、困惑顔だった。
あたりまえか。講義が今から始まるっつーのに、教室から飛び出す学生がいればそんな顔にもなるだろう。馬鹿な学生だと思われただろうか。
でも、今の俺にはこれが正解だと確信している。
自分から告白できず、女の子から告白してもらうのをいつまで経っても待っている超絶ヘタレで、受け身で、屑な俺にだって守りたいと思えるものはある。意地を通したいものがある。
だから、俺の行動は間違っていないはずだ。
俺はキャンパスを駆け抜け、『エル』の部室までやってきた。
『エル』の部室前に人だかりが出来ている。走りすぎて息切れがするが、この先ハッピーエンドが待っていると思えば、そんなものは気にならない。
さぁ、部室のドアを開けて、ちょっとした修羅場を越えれば、問題は万事解決。サークルの皆と笑いあえるはずだ。
ついでに俺に告白してくれる可愛い子女の子が突然現れて、俺もウハウハ。
……ま、流石にそこまでご都合主義な展開は、待っていないだろうけど。
部室の前まで来ると、その人だかりは『エル』のメンバーであることがわかった。
「あ、中嶋くん」
「和っち! 中は危ないッスよ!」
「失礼します」
星野先輩と夏輝に断りを入れながら、俺は部室に入る。
そこは、『修羅場』だった。
部室に設置されていた机はひっくり返り、何か四角い筐体が床に転がっている。俺が前にサークルの書類を作成するのに使用したプリンターだった。中古で買ったというそのプリンターからはインクが漏れ出している。
その下に散らばっている印刷用紙がどうにか部室の床に直接インクがこぼれるのを防いでいたが、それも気休めにしかならないだろう。
ひっくり返った机のそばには、緑さんが顔を両手で隠してしゃがみこんでおり、本西さんが緑さんに寄り添っている。
緑さんの両手から漏れ出す嗚咽が、部室の悲惨さを何よりも物語っていた。
その緑さんと向き合うように、鬼の形相をした福良先輩が仁王立ちしている。
息を荒くしながら掲げた手に持っているのは、部室に設置されているパイプ椅子。それを振り回せば、部室にいる人は無事ではすまないだろう。
そんな暴挙をさせまいと福良先輩を止めているのは、北斗さんと小川先輩だ。
北斗さんは福良先輩の前から、スマホを持って棒立ちのままになっていた小川先輩も後ろから、福良先輩がもっているパイプ椅子が振り下ろされないようにと必死で止めていた。
だが、福良先輩の目にはその二人は映っていない。それどころか緑さんすら映していない。
福良先輩の目線は、丁度緑さんを庇うように立っている藤井先輩に向けられていた。福良先輩はパイプ椅子で藤井先輩を殴りつけた後、緑さんを襲うつもりなのだ。
福良先輩の瞳一杯に広がっている感情は、憎悪。憎悪に射られ、縫い止められている藤井先輩は、動くことは出来ないでいた。
俺が想像していた『ちょっとした』修羅場なんて、ここには存在していなかった。
……何だ、ここは? ここは、本当に部室なのか? 『エル』の仲間が集まる場所なのか?
いや、呆けている場合じゃない。俺は何のためにここに着たんだ。ハッピーエンドを迎えるためだろうが!
俺はつなぎ役、脇役だ。主人公が、ヒーローが来るまでどうにかこの状態を維持できればいい。少しでもいい方向に持っていこう何て考える必要はない。
現状維持。そうすれば、後は勝手にヒーローがどうにかしてくれる。この問題を円満解決できる人が、人たちが駆けつけてくれるはずだ!
だってここは『エル』なんだから。『エル』は無敵なんだから。
……だから、だから早く来てくれよヒーロー!
「あの、これは一体……」
言葉を発した俺に、顔を上げた緑さんを含む五人の視線が突き刺ささる。緑さんがすがるような目で俺を見た。俺は心の中で謝罪する。
……ごめん緑さん。君を救うのは俺じゃない。俺はただの脇役だ。君を救うのは、そう、今君の前になっている藤井先輩のような、イケメンのヒーローなんだよ。俺は、問題が解決できるまでの時間稼ぎをしているに過ぎないんだ。
「あら、和春くんじゃない。ちょうどよかったわ」
険を含んだ口調で福良先輩が俺の登場を歓迎し、振り上げていたパイプ椅子を床に戻した。
だが、俺は歓迎されるようなことは何もやっていないはずだ。
「和春くんが作ったTw○tterのアプリ。『エル』のメンバーも同じサークルの仲間が作ったアプリだから進んで使っていて、Tw○tterをやっているほとんどのメンバーが、今和春くんの作ったアプリを使っているわ」
……わけがわからない。何故今『Noisy myna』の話が出てくるんだ?
困惑している俺に気づいていないのか、福良先輩は話を続けていく。
「最近はいろんな機能も追加してくれているみたいで、皆も喜んでいるみたいね。私も便利になってうれしいわ。いろんな情報がシェアできるようになって」
「それは、どうも……」
何だ? 褒められているのに嫌な予感しかしない。
先ほどまで激昂していたはずの福良先輩が、笑っている。
怖い。頭の後ろが、ちりちり焦げている感じがする。
「先月あたりに、ほら、合宿から戻ってきたときに追加された機能があったでしょ? ツイートした時に今いる自分の位置を表示できるようにするやつ」
「……ああ、位置情報のやつですか。それが、どうかしたんですか?」
自分で質問したというのに、俺はその先を死ぬほど聞きたくなかった。
先ほどから感じている、嫌な予感の中核に迫る質問だと直感したからだ。
「これを見て」
福良先輩が俺に向かって何かを投げた。それを、俺は落とさないように両手で受け止める。
……これは、スマホ?
「私のよ。画面を見て」
福良先輩に言われるまま、俺は先輩のスマホを覗き込んだ。
そこに映っていたのは、Tw○tterのあるアカウントのツイート一覧だ。これは……?
「藤井先輩の、アカウントですか?」
「ええ、東のよ。昨日のツイートの中に、チーズケーキの写真と地図が載っているでしょ?」
「地図? ああ、位置情報ですね。ありました」
スマホの画面をなぞりながらスクロールさせ、藤井先輩のツイートに福良先輩の言っていた写真と、その写真をアップした時の位置情報を示すツイートを発見。アップされているチーズケーキはどうやらあるコンビニの新作スイーツのようだ。
……でも、これが一体何だというのだろう?
「その地図の位置ね。ラブホがあるの」
「……は? あの、それが一体何の問題があるんですか?」
「問題大有りよ!」
福良先輩が一瞬で鬼の形相に戻り、呪詛を吐き出した。
「私、昨日東とは会ってないの!」
「え?」
「つまり、東は昨日ワタシ以外の誰かとラブホに行っていたということよ!」
「ちょっと待ってくれ!」
「ちょっと待てぇだぁあ? フザケルのも大概にしろよ浮気野郎が!」
「だから誤解だって言ってるだろ!俺は浮気なんてしていない!」
……ちょっと、待て。
この人は、この人たちは何を言っているんだ? どうしてこんなことになっているんだ?『エル』の無敵感はどうした?
そ、そうだ! 藤井先輩は誤解だって言っているじゃないか! だったらまずそれを信じるべきじゃないのか? 同じサークルの仲間として!
「そうですよ。藤井先輩だって浮気じゃないって言ってるじゃないですか。一人でラブホに行ったのかもしれないですし」
「テメェ何寝ぼけた事言ってンだァ? 一人でラブホ行ってマスかいてたっていうのかよォ!」
言ってる途中で俺もそれはないとは思っていた。でも、だとしたら本当に藤井先輩が浮気を?
だったらこんなの、ハッピーエンドなんて、無理じゃないか。
……ありえるわけ、ないじゃないか!
「だから違うんだって!」
藤井先輩はめげずに福良先輩に反論する。そうだ。もうここでヒーローになれる存在は藤井先輩以外にいない。ヒーローは、自分の汚名をそそぐ事が出来るはずだ!
「このアプリを作ったのは和春なんだろ? だったら、和春が間違ってプログラミングしたんじゃないのか!」
「藤、井先輩……?」
「そうだ! そうに決まっている! 大学生一年生が遊びで作ったアプリなんて、たいした事なんてないって! 大体、大学生なんかが作ったアプリなんて絶対正しいことなんてあるわけないだろ? 誰が保障してくれるんだよ。南、何マジになっちゃってるの。和春のプログラムなんて間違いがあるに決まってるじゃないか!」
藤井先輩は、この人は、コイツは、今何て言った?
藤井先輩は自己弁護に、あろうことか俺の、俺と渡部さんのプログラムが間違っていると言いやがった!
「ハァ? 他の人の位置情報はちゃんと出てるじゃない!」
藤井先輩と福良先輩がまた口論を始めた。
今まで信じていた物が一瞬に崩れていく感覚。怒りよりも失望の方が鮮烈に強烈に俺を襲う。
藤井先輩からの悪意を真正面からぶつけられて、俺はどうしたらいいのかわからなくなる。
俺は何のためにここに来た? 何でここにいるんだ?
……そ、そうだ。時間だ。俺は脇役で、つなぎ役としてここに来たんじゃないか! 何か、何かしゃべらなくちゃ!
「で、でも藤井先輩が浮気したって、その相手のことは、分かっているんですか?」
とにかく、何か話して時間を稼ごうと思った俺の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
いくら時間を稼ごうとも、もはや円満解決なんて望めないのに。
「ええ。もう見つけてるわ」
そんな俺を突き放すように、心底くだらなさそうに、福良先輩はそう告げた。
それもそうか。彼氏が浮気したんだもんな。位置情報がラブホだと判明してから、浮気相手を必死に探したに違いない。
「ど、どうやって見つけたんですか?」
「簡単よ。今年の四月ごろから、仲のいい男女、カップルが同じ写真を同じ時刻にTw○tterにアップするようになったのは、和春くんも知っているでしょ?」
そう言って、福良先輩は俺から自分のスマホを奪い取ると、画面を操作し始めた。
「だから、ひょっとしたら東と一緒にラブホで同じスイーツの写真を撮ってTw○tterにアップしてるんじゃないかと思ったの」
福良先輩が操作をやめた。目的の画面を表示したのだろう。
「これ、決定的な証拠よね? ツイートした場所は表示されていないけれど、東とまったく『同じ時間』に『同じチーズケーキの写真』をアップするなんて、東と一緒にラブホにいた浮気相手以外ありえない」
そしてそのスマホを、紋所を見せ付けるかのようにして言い放った。
「そうよね? 緑」
ハンマーで思いっきり、力の限り後頭部を殴られたら、きっと今の俺のような状態になるだろう。
俺の脳細胞に酸素を送るための血液が、赤血球が仕事をしなくなってしまったようだ。
俺は自分のことなのにもかかわらず、ああ、今俺は血の気が引いているんだな、と今の状態を客観的に見つめていた。
……違う。今の状態を俺は受け入れれないだけだ。
フリーズ状態の俺にかまわず、緑さんと福良先輩の会話は続いていく。
「さぁ緑。どうなのよ!」
「違います! 私じゃありません!」
「じゃあこの写真は何なのよ!」
「そんなの、偶然です……」
「こんな偶然あるわけないでしょ!」
「本当です。信じてください!」
「信じる? ふざけたこと言わないで! アンタ、昨日東と一緒にいたんでしょ?」
「誤解です!」
「とぼけても無駄よ。私知ってるんだから。緑、高校の時から東のこと好きだったんでしょ?」
「それは……」
「東から聞いてたわ。高校の『可愛い後輩』の話。同じ大学に進学できたら付き合おうって約束してたんですってね!」
緑さんは悔しそうにスカートの裾を握り締めた。それは、福良先輩の言ったことが事実だったことを如実に示していた。
それを見て、俺は大学に入学して初めてサークルの説明会に顔を出したときのことを思い出した。俺のあの時の推測は正しかったんだ。
緑さんは藤井先輩と再会したとき、本当にうれしそうな顔をしていた。藤井先輩と付き合えるという約束が叶えられると信じていたから。
だから、藤井先輩から彼女を、福良先輩を紹介されて、表情が凍った。藤井先輩が約束を破ったことに気が付いて、深い傷を負ったから。
「正直、尊敬するわ。今時そんな約束を信じて、本当に誰とも付き合わず一途に東だけ想っていたんですものね。でもね。だからって人の男を取っていいわけじゃないのよっ!」
「……東先輩とそういう約束をしていたことは事実です。南さんが彼女だって、約束、守ってもらえなかったんだって知ったときも、ショックでした。でもだからって、浮気なんてしてません!」
合宿で緑さんと二人で線香花火をしていた後、緑さんが自分の名前の由来を教えてくれたときに感じた違和感を思い出す。
……運命を感じた相手は、藤井先輩だったんだ。
当然か。緑さんは『東さん』になっていた可能性だったってあったんだ。そして高校で出会ったんだ。自分のもう一つの可能性。藤井東に。
……そりゃ運命感じるわ。自分が名乗っていたかもしれない名前の相手が、爽やかイケメンのサッカー部のエースだったのなら、そりゃときめいちゃうわ。
「浮気じゃなくて純愛だとでも言うつもり? 東が約束を守らなかったのは私のせいだっていうの!」
「違います! 私ラブホテルなんて行ったことありません! 昨日も東先輩には会っていません!」
「ラブホに行ったことがないですって? じゃあ他の場所ではシてたんだ」
「だから違います! 私そんなことしたことありません!」
「かまととぶるのも大概にしなさいよっ!」
「ちょっ、南やめろよ!」
「南さん! それはまずいんじゃないかな?」
緑さんに福良先輩が襲いかかろうとするのを、藤井先輩と北斗さんが止めようとしている。
福良先輩の罵声は続く。小川先輩も止めに入る。本西さんと緑さんは二人でしゃがみこみ震えている。
それを俺は、真っ暗な映画館の中、ただ一人でスクリーンを鑑賞しているような感覚で見つめていた。スクリーンの中に映っている騒動は、すべてフィクションだ。
現実じゃない。そう思いたい。思ってしまいたい!
でも無理だ! スクリーンの中の緑さんと目が合ってしまった!
その濡れた瞳は、明らかに俺に助けを求めていた。俺が部室に入ったときからそうだったじゃないか!
本当のことは俺にはわからない。でも、緑さんが違うといっている以上、俺はそれを信じるべきだ。だから俺は観客席から立ち上がり、緑さんを助けるために部室に散らばった印刷用紙を踏みつけ、一歩踏み出し、止まった。
……思い出した。
思い出してしまった!
合宿のレポートをまとめていた、あの日のことを!
あの日俺は何か引っかかっていたことがあったじゃないかっ!
それは、小川先輩が『Noisy myna』で位置情報をつぶやけることを知っていたからじゃないのか?
小川先輩は言っていたじゃないか。『東君も絶賛だよ!』と。
スマホの位置情報共有設定なんて、普通バッテリーを食うので切っている。
機能拡張を、おっきくなっている、なんて言った小川先輩が自分で位置情報をつぶやけることに気が付いたとは思えない。
つまり、小川先輩は藤井先輩から『Noisy myna』で位置情報をつぶやけるようになったことを聞いたのだ。
だが、藤井先輩が自分でこの機能が追加されていると気づいたとは考えられない。さっき『Noisy myna』をこき下ろした先輩が、いちいち設定をいじってまで俺のアプリを試したとは考えにくい。
ということは、誰かから聞いたと考えるのが妥当だ。一度使ってみてくれとでも言われたのだろう。
……じゃあ、誰から聞いたんだ? あの機能が追加されたのは、『Noisy myna』を開発している俺と渡部さん意外知らないはずで――
いや、違うだろ。(やめろ……)
そうじゃない。もう一人いるじゃないか。確実にあの機能が追加されているのを知っていた人物が。(その先を思い出すんじゃない……!)
目をそむけるなよ俺! (あの機能の追加を要求した緑さんも、あのバグを知っているということを思い出すな……!)
もちろん、位置情報がつぶやかれる機能のことを俺は藤井先輩に話していない。渡部さんはそもそも藤井先輩とは面識すらないはずだ。
だとしたら、もう緑さんが藤井先輩に話したとしか考えられないじゃないか!
藤井先輩は、緑さんから機能が追加されたことを聞いたのだ。ではどこで?
例えばそう。
今問題となっているような、ラブホテルのベッドの上とか。
「だ、大丈夫ッスか?」
夏輝が俺の肩をゆする。いつの間にか、俺は入口の外まで下がってきていたようだ。
ひどく、気持ちが悪い。
「違う! 本当に違うの!」
泣きながら身の潔白を訴える緑さんを見ても、俺の心はピクリとも動かなかった。
さっきまで、俺が緑さんを助けようとしていたのが嘘のようだ。もう緑さんの訴えが、演技にしか見えない。緑さんと二人でした線香花火の思い出が、あの時緑さんに抱いた恋心が急速に色あせていく。
……何なんだよ、これは。
元々緑さんは藤井先輩に憧れて、恋していた。
恋した時点で、失恋が決定していたのだ。
あの時俺がゲロ吐きそうになりながら告白しようとしたのは、あの時抱いた俺の想いは、叶わないものだったのだ。
全部、無意味だったんだ。笑いすぎて涙が出そうだ。
今にして思えば、あの時緑さんが俺にプログラミングを教えてくれと言ったのは藤井先輩のことを忘れようと、別のことに集中しようとしたからじゃないか?
じゃあ何か? 俺は藤井先輩の代わりだったのか?
緑さんに確認していないにもかかわらず、俺の邪推は止まらない。
そもそも告白すらできていないのに、直接フラれたわけではないのに、俺が緑さんを非難する権利はないのに、何故? という思いが止められない。
自分の想いが届かなくて、伝えられないまま終わった恋は認められるのに、恋した相手が別の人を想っていた事が許せないのだ。
……失恋したって認めていたのに、なんて俺は身勝手なんだ! なんて女々しいのだ俺は!
自己嫌悪と、緑さんへの不信感が混ざり合う。醜い自分の内面を自覚した途端、階段を意図せず一段飛ばして降りてしまったような感覚が、俺を襲った。
夏輝に支えられていなければ、俺は今頃膝をついていただろう。
だが――
「違います! 私じゃないんです!」
それでも緑さんは違うと、自分じゃないと訴え続ける。
それを見て、俺は手を伸ばそうと――
「南やめろ!」
藤井先輩が緑さんを庇うために、寄り添った。
それを、緑さんが一瞬うれしそうに見上げた。
……ああ、俺はもう緑さんの隣に立てないんだなと、それを見てそう思った。
確信した。まだ緑さんは藤井先輩への憧れを、恋心を持っている!
やっぱり俺は、脇役だ。あの場に俺は立つことはできない。このサークルの危機を救うことなんてできない。ましてや緑さんを救うことなんてできない。この場に駆けつけようが駆けつけまいが対して影響は与えないっ!
……なのに。
何で、俺を見つめるんだ。
何で俺に手を伸ばすんだよ、緑さん!
あなたの隣には藤井先輩がいるじゃないか! あなたの恋した人がいるじゃないか! 藤井先輩と浮気しているのなら、迷わずその手をとればいい! 浮気していなかったとしても、藤井先輩は福良先輩と破局するのは目に見えている。藤井先輩の浮気相手が誰かはわからないが、うまく立ち回れば藤井先輩と付き合うこともできるだろ!
なのに、何で俺に助けるように手を伸ばすんだよ!
醜い。アレは緑さんの演技だ。
汚い。その手は既に別の人の手を握っているはずだ。
卑しい。それでも緑さんを信じたいと思っている俺がいる。
信じたいのに信じられない。そんな自分が緑さんの隣にいてはいけないんだと思う。
……それでも、隣にいたい。
だけど、俺にその資格はない!
あぁああぁぁあああああ! もう! 何で、何であなたなんだっ!
何で俺は緑さんを好きになってしまったんだ!
何故このタイミングでこんな事が起こるんだ! もう捨て切れたと思っていたのにっ!
失恋したんだと言い聞かせていたのに! それでもわかっていたはずなのにっ!
この想いは、心にこびりついて剥がれ落ちることはないと知っていたのにっ!
あなたのことが好き過ぎて、たまらない!
だからあなたのことが許せない! 何でソイツのそばから離れない!
何で、何で俺の隣にいないんだぁぁぁあああっ!
「和っち!」
この想いが緑さんを傷つけてしまいそうで、俺は部室から逃げ出した。
そう、逃げ出したのだ。恋した相手を置いて。
あまりにも理不尽で、あまりにも不条理で、あまりにも身勝手なこの想いが溢れてしまいそうで。
口を開けば、心に焦げ付いたこの黒い感情が零れ出してしまいそうで。
それでまた自分自身が傷つくのを恐れて、心を互いに通わせようとは思わず、ただ単に自分の想いだけをぶちまけようとした。
そして、それができないまま、俺は無様に逃げ出したのだ。
こんなの俺の気持ちは、想いは、こんな醜い想いは。
世界では恋愛とは呼ばないんだろうと、そう思った。
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